鏡花水月

それから数週間が経った。
​平八のことが気がかりだったので、私達は週末を利用して母星へと帰り、その様子を(うかが)っていた。しかし、あちらの地を踏んでも、特にこれといった変化は起きていないように見えた。
あれほど過激な言葉を口にしていた男だ。今頃、何かしらの大規模な大騒ぎを起こして指名手配でもされているのではないかと、私は最悪の事態すら覚悟していた。
だからこそ、何も起きていないという事実は、本来なら手放しで喜ぶべきことなのだろう。
少なくとも、誰かが傷ついたという凄惨な噂は聞こえてこないし、平八自身も無事だ。それならホッと胸を撫で下ろすべきなのに―――。
「……」
​私は教室の窓際の席から、ぼんやりと校庭を眺めた。
体育の授業中なのだろう。陽光が降り注ぐグラウンドでは、生徒達が声を掛け合いながら、楽しそうにボールを追いかけている。
どこにでもある、あまりにも平和な光景。
​けれど、私の胸の奥には、いつまでも小さな棘のような違和感が残り続けていた。
静かすぎる。
それが一番しっくりくる表現だった。
​平八という男は、好機をじっと待つような性分ではない。
思い立ったら即行動。考えるより先に体が動く。昔からそういう人間だった。
作戦会議の真っ最中に「面倒くせぇな」と敵陣に突っ込んだこともあったし、上官に「いいか、偵察だけだぞ」とあれほど念を押された翌日に、桃李と一緒に敵の補給基地を文字通り半壊させて平然と帰ってきたことすらある。
あの時、重治が「お前らは後から報告書を書く人間の苦労を少しは考えろ!」と本気で頭を抱え、呆れ果てていたのを今でも鮮明に覚えている。
そんな男が。
国をひっくり返すとまで豪語した男が、数週間も何の動きも見せない。それが妙に引っ掛かっていた。
(考えすぎかな……)
​小さく息を吐き、自分にそう言い聞かせる。
もしかしたら平八も、己の過激な思想に迷いが生じているのかもしれない。かつての絆を思い出し、復讐なんてやめてくれるのではないか――。
そんな淡い期待が、一瞬だけ胸をよぎる。しかし、私の直感が出す答えはどこまでも冷酷だった。
それが嵐の前の静けさに過ぎないこと。
そして、こちらの都合のいい甘い願望など、彼の持つ黒い(ほむら)の前には容易く消し飛ばされてしまうのだということを、私はこの後、最悪の形で思い知ることになる。
その時の私は、まだ知らなかった
誰にも気付かれない暗闇の中で、着実に牙を研ぎ、獲物を定め、実行に移していただけだったのだ。


その真実を知ることになったのは、放課後のチャイムが鳴り響いた、まさにその日の夕方のことだった。
​「ちょっとこれ見ろ」
​​『緊急事態、すぐに来い』とだけ書かれたメッセージが送られてきたため、急いで重治と桃李の住むマンションへ向かうと、出迎えた重治がかつてないほど深刻な顔でスマホの画面を私に向けてきた。
端末の画面には、母星のローカルネットニュースの速報画面が映し出されている。
​『総督府の重要人物や元軍部の責任者の方不明事案、新たに二名。今月に入り計七名に』
​差し出された画面を凝視する私の耳に、重治の低く緊迫した声が届く。
「これが偶然だと思うか?」
その言葉が頭に染み込んできた瞬間、脳内の点と点が強引に繋がり、最悪のシナリオを描いていく。
あの時、母星で会った元兵士たちが一様に沈黙を守り、何かを耐えるような、あるいは祈るような目でいた本当の理由が分かった。
かつての英雄であり、自分達の元上官でもある平八が、裏切り者たちを闇に葬っていく姿を、彼らは暗黙のうちに支持し、あるいは加担していたからなのだ。
国をひっくり返すという言葉は、大見得などではなかった。
​ここ数週間で、生き残った同僚の元兵士達に会ってきた。
新しく地球や別の星で家庭を持った人もいた。
戦争の記憶なんて、もうこれ以上思い出したくないと耳を塞ぐ人もいた。
今もなお、毎晩のように悪夢にうなされて、まともに眠れず薬に頼っている人もいた。
戦争という深い傷跡は、数年が経った今でも彼らの心を蝕み続けている。
​もう関わりたくないと耳を塞ぐ者、過去の罪悪感に押しつぶされそうな者。
意外なことに平八は、彼らを誰一人として自分の計画に誘っていなかった。
これ以上、生き残った大切な仲間達を危険に晒したくないという、彼なりの不器用な優しさなのか。あるいは、この血塗られた復讐の道は自分一人だけで突き進むという、強固な決意の表れなのか。
彼らにとって平八は、自分達を切り捨てた上層部へ鉄槌(てっつい)を下す、暗闇の代弁者そのものだったのだろう。
どちらにせよ、彼がたった一人で冷たい刃を握り、闇を駆けていることだけは間違いなかった。
「まずいことになったな」
「そーだねぇ……」
桃李が心底面倒くさそうにため息をついた。
「だが、これで総督府も本格的に動き出すはずだ。重要人物がこれだけ消えれば、単なる失踪事件としては処理できない。近いうちに軍が総力を挙げて『犯人』を捕らえに動くだろう」
​重治の言葉通りだった。
平八がやっていることは、かつての仲間達の無念を晴らす復讐劇かもしれない。けれど、それは同時に、自らを破滅へと追い込む片道切符だ。彼がいくら超人的な強さを持っていようと、国家という巨大な組織を相手に一人で勝ち続けられるはずがない。