見上げた先には、展望台の裏手にある管理用通路の、錆びついた鉄骨の手すりに危うげに腰掛けた平八がいた。彼は呆れたように冷ややかな視線で見下ろしている。
次の瞬間、平八は音もなく軽やかに数メートル下の地面へと飛び降りた。相変わらず人間離れした身体能力だ。
「そうだ、次会ったときに見せたかったものがあるんだよね〜」
私は喉の渇きを覚え、心臓の嫌な高鳴りを感じながらも、この場を支配する息詰まるような緊繁感を引き剥がすように、あえて普段通りの軽いトーンで切り出した。
「見せたかったもの?」
「桃李と重治の女装姿」
ちょうど自販機で買ったらしい缶コーヒーを口に含んだ最中だった平八は、私の差し出したスマホ画面を見た瞬間、盛大に噎せ返った。
「ブフッ!」と不格好な音を立てて激しく咳き込む彼に、私はここぞとばかりに追い打ちをかけるように、液晶画面に映る撮ったばかりの鮮明な写真を見せつける。
写真を目にした瞬間、平八は露骨に顔を背けた。
目を逸らすなよ。現実はいつだって目の前にあるってどっかの本に書いてたんだよ。
けれど、ちらりと視線を戻した瞬間。平八の肩が震える。
「っ、は……」
駄目だ。 耐えてる。
「無理して耐えなくていいんだよ?笑えば?」
「うるせぇ……っ」
口元を大きな手で押さえたまま、平八は地面を見つめて俯く。
しかし数秒後、とうとう決壊したように堪えきれなくなった。
「ぶはははははははッ!」
爆笑が響き渡る。
「何で、っ、あいつら、こんなことになってんだよ……!似合ってねぇ。特に重治のあのツラは何だよ」
「無銭飲食のペナルティだって。酷いよね」
涙を浮かべてお腹を抱える平八の姿に、私もつられてクスクスと笑ってしまう。ほんの一瞬だけ、あの頃の、四人でバカ笑いをしていた前庭の空気が戻ってきたような気がした。
ひとしきり笑い合うと、急にぽっかりと、静かな空間が私達の間に降りてきた。
その心地良くも寂しい静寂を破ったのは、平八だった。
「なぁ、戻ってくる気はねぇか?」
「……何で?」
「てめぇもまだ踏ん切りがついた訳じゃねぇだろ。もう一回と言わず、何度だって腐った国に牙を剥いてやろうぜ」
平八の真っ直ぐで、射抜くような強い視線。私はその熱量を受けきれず、思わず自分の靴先に目を逸らしてしまった。
「……私は三人より弱いよ。訓練で一番最初にボコられるし、何より最近は刀どころか木刀も握っていないから、腕は落ちてるし」
「それは心配いらない。いくらでも俺が付き合って鍛え直してやる。だから……」
平八は一歩、私との距離を詰めた。衣服から微かに染み付いた火薬のような、あるいは鉄のような匂いが立ち上る。
「だから、桃李と重治のような腰抜けにはなるな。俺達を、戦友達を駒にして今も私欲と権力で肥え太っている奴らの命を持って、あいつらの無念を晴らそうじゃねぇか」
平八の言葉は、いつも通りのぶっきらぼうな口調のなかに、ドス黒いほどの純粋な殺意を孕んでいた。ゾッとするほど綺麗で、歪んだ熱。
彼の視線は、目の前にいる私を通り越し、かつて共に駆け抜けたあの泥まみれの戦場、そしてそこで物言わぬ屍となった仲間達の姿を捉えているようだった。
「……そっか。二人は断ったんだ」
私の言葉に、平八は忌々しげに小さく鼻を鳴らした。路地裏に差し込むわずかな光が、彼の横顔を鋭く切り取る。
「あいつらは『もう十分だ』とさ。おめでてぇ頭で平和ボケした街に馴染んで。ヘラヘラ笑って過去を忘れたフリをしてる奴のツラを見るのは、心底反吐が出る」
平八の言葉は容赦がなかった。けれど、私は過去の戦場を思い出した。
あの戦場を忘れたわけじゃない。
私や、彼らは自分なりに、あの地獄を抱えたまま、それでも前を向いて生きようとしているのだ。
「平八が国に牙を剥けば、またたくさんの人が死ぬ。平八自身も、きっと命を落とす。……そんなこと私は嫌だよ」
「綺麗事を―――ッ!」
激昂した彼の手が、もの凄い速さで私の制服の胸ぐらを掴んだ。
視界が反転し、背中が背後にあった頑丈な石壁に激しく打ち付けられる。ドカッという鈍い衝撃と痛みが走り、肺の空気が強制的に押し出された。視界が一瞬白くなる。
「ゲホッ、っ……!」
鈍い衝撃と共に、目の前にある平八の瞳が、憎しみと悲痛の混ざり合った、歪んだ光を放っているのが見えた。
「綺麗事並べてんじゃねぇよ!墓標になる? だったら何だ!あの地獄で死んでいった奴らのほとんどは、墓標すら残してもらえずに土に還ったんだぞ!忘れ去られて、消費されて終わりか?そんな世の中をのうのうと生きていくことの方が、俺に言わせりゃ死ぬより屈辱なんだよ!」
胸ぐらを掴む彼の拳が、小刻みに震えている。
痛いほどの怒り。けれど、私にはそれが、過去に置いていかれることを恐れて泣き叫ぶ、子供の悲鳴のようにも聞こえた。
「お前だって苦しいんだろ。思うことがあるから、あんな戦場に身を投じたんじゃねぇのかよ! 何でそんなすぐに忘れられるんだ!」
「忘れてないよ!!」
私も負けじと、喉が張り裂けんばかりの声で叫び、平八の分厚い胸を両手で強く押し返した。
私の力ではビクともしなかったけれど、私の想定以上の剣幕に驚いたのか、平八の瞳がわずかに見開かれる。
忘れるわけがない。
あの日、待てど暮らせど援軍は来なかった。
私達の命を繋ぐはずだった補給物資も、すべて上層部が金のために裏で横流ししていた。
前線の私たちが肉の壁になって盾になっている間に、小綺麗な軍服を着た上の連中はとっくに安全な後方へ逃げ延びて笑っていたんだ。
その汚い大人の都合のせいで、私の目の前で何十人もの仲間が泥を舐め、無念の涙を流しながら死んだんだ。
私達だって、何度も死にかけて、手を血に染めてきた。
「忘れるわけないじゃん!毎日、あの地獄の夢を見るよ。……置き去りにしてきたみんなの顔が頭から離れないよ」
私の魂を絞り出すような叫びに、公園内を吹き抜けていた風がピタリと止まったかのような錯覚を覚える。
少しだけ、平八の殺気が緩んだ気がした。平八がその気になれば、私なんかすぐに殺せるだろう。それをしないのは、彼の奥底にまだ、かつて共に泥をすすった仲間への情と、失いたくないという怯えが残っているからだろう。
「みんなの無念を晴らすには、国をひっくり返さないとダメなの?」
「ああ。それ以外に、あいつらの存在を証明する方法がねぇ」
「……」
私はそっと目を伏せた。これ以上、言葉を交わしても平行線のままだと分かってしまったから。
平八の拳から完全に力が抜け、私の胸ぐらを掴んでいた手が、力なく離れた。
彼はそのまま、私から一歩、また一歩と距離を置く。
薄暗い影に沈む彼の姿は、まるで過去という暗闇に自ら囚われに行こうとしているかのようだった。
「……俺はもう行く。お前も、さっさとその遊びみたいな平和ごっこに戻れよ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、平八は私に背を向けた。
「平八……!」
呼びかける私の声に、彼の足は止まらなかった。
木々の奥へと消えていく広い背中が、薄暗い闇に溶けて完全に視界から消え去るまで、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
胸の奥が、冷たい鉛を飲み込んだように重く、苦しい。
平八が背負い込んでいるものの大きさと、その果てにある破滅への予感が、私の足元をじわじわと侵食していくようだった。
遠くのハイキングコースから、子供の無邪気な笑い声が風に乗って聞こえていた。
次の瞬間、平八は音もなく軽やかに数メートル下の地面へと飛び降りた。相変わらず人間離れした身体能力だ。
「そうだ、次会ったときに見せたかったものがあるんだよね〜」
私は喉の渇きを覚え、心臓の嫌な高鳴りを感じながらも、この場を支配する息詰まるような緊繁感を引き剥がすように、あえて普段通りの軽いトーンで切り出した。
「見せたかったもの?」
「桃李と重治の女装姿」
ちょうど自販機で買ったらしい缶コーヒーを口に含んだ最中だった平八は、私の差し出したスマホ画面を見た瞬間、盛大に噎せ返った。
「ブフッ!」と不格好な音を立てて激しく咳き込む彼に、私はここぞとばかりに追い打ちをかけるように、液晶画面に映る撮ったばかりの鮮明な写真を見せつける。
写真を目にした瞬間、平八は露骨に顔を背けた。
目を逸らすなよ。現実はいつだって目の前にあるってどっかの本に書いてたんだよ。
けれど、ちらりと視線を戻した瞬間。平八の肩が震える。
「っ、は……」
駄目だ。 耐えてる。
「無理して耐えなくていいんだよ?笑えば?」
「うるせぇ……っ」
口元を大きな手で押さえたまま、平八は地面を見つめて俯く。
しかし数秒後、とうとう決壊したように堪えきれなくなった。
「ぶはははははははッ!」
爆笑が響き渡る。
「何で、っ、あいつら、こんなことになってんだよ……!似合ってねぇ。特に重治のあのツラは何だよ」
「無銭飲食のペナルティだって。酷いよね」
涙を浮かべてお腹を抱える平八の姿に、私もつられてクスクスと笑ってしまう。ほんの一瞬だけ、あの頃の、四人でバカ笑いをしていた前庭の空気が戻ってきたような気がした。
ひとしきり笑い合うと、急にぽっかりと、静かな空間が私達の間に降りてきた。
その心地良くも寂しい静寂を破ったのは、平八だった。
「なぁ、戻ってくる気はねぇか?」
「……何で?」
「てめぇもまだ踏ん切りがついた訳じゃねぇだろ。もう一回と言わず、何度だって腐った国に牙を剥いてやろうぜ」
平八の真っ直ぐで、射抜くような強い視線。私はその熱量を受けきれず、思わず自分の靴先に目を逸らしてしまった。
「……私は三人より弱いよ。訓練で一番最初にボコられるし、何より最近は刀どころか木刀も握っていないから、腕は落ちてるし」
「それは心配いらない。いくらでも俺が付き合って鍛え直してやる。だから……」
平八は一歩、私との距離を詰めた。衣服から微かに染み付いた火薬のような、あるいは鉄のような匂いが立ち上る。
「だから、桃李と重治のような腰抜けにはなるな。俺達を、戦友達を駒にして今も私欲と権力で肥え太っている奴らの命を持って、あいつらの無念を晴らそうじゃねぇか」
平八の言葉は、いつも通りのぶっきらぼうな口調のなかに、ドス黒いほどの純粋な殺意を孕んでいた。ゾッとするほど綺麗で、歪んだ熱。
彼の視線は、目の前にいる私を通り越し、かつて共に駆け抜けたあの泥まみれの戦場、そしてそこで物言わぬ屍となった仲間達の姿を捉えているようだった。
「……そっか。二人は断ったんだ」
私の言葉に、平八は忌々しげに小さく鼻を鳴らした。路地裏に差し込むわずかな光が、彼の横顔を鋭く切り取る。
「あいつらは『もう十分だ』とさ。おめでてぇ頭で平和ボケした街に馴染んで。ヘラヘラ笑って過去を忘れたフリをしてる奴のツラを見るのは、心底反吐が出る」
平八の言葉は容赦がなかった。けれど、私は過去の戦場を思い出した。
あの戦場を忘れたわけじゃない。
私や、彼らは自分なりに、あの地獄を抱えたまま、それでも前を向いて生きようとしているのだ。
「平八が国に牙を剥けば、またたくさんの人が死ぬ。平八自身も、きっと命を落とす。……そんなこと私は嫌だよ」
「綺麗事を―――ッ!」
激昂した彼の手が、もの凄い速さで私の制服の胸ぐらを掴んだ。
視界が反転し、背中が背後にあった頑丈な石壁に激しく打ち付けられる。ドカッという鈍い衝撃と痛みが走り、肺の空気が強制的に押し出された。視界が一瞬白くなる。
「ゲホッ、っ……!」
鈍い衝撃と共に、目の前にある平八の瞳が、憎しみと悲痛の混ざり合った、歪んだ光を放っているのが見えた。
「綺麗事並べてんじゃねぇよ!墓標になる? だったら何だ!あの地獄で死んでいった奴らのほとんどは、墓標すら残してもらえずに土に還ったんだぞ!忘れ去られて、消費されて終わりか?そんな世の中をのうのうと生きていくことの方が、俺に言わせりゃ死ぬより屈辱なんだよ!」
胸ぐらを掴む彼の拳が、小刻みに震えている。
痛いほどの怒り。けれど、私にはそれが、過去に置いていかれることを恐れて泣き叫ぶ、子供の悲鳴のようにも聞こえた。
「お前だって苦しいんだろ。思うことがあるから、あんな戦場に身を投じたんじゃねぇのかよ! 何でそんなすぐに忘れられるんだ!」
「忘れてないよ!!」
私も負けじと、喉が張り裂けんばかりの声で叫び、平八の分厚い胸を両手で強く押し返した。
私の力ではビクともしなかったけれど、私の想定以上の剣幕に驚いたのか、平八の瞳がわずかに見開かれる。
忘れるわけがない。
あの日、待てど暮らせど援軍は来なかった。
私達の命を繋ぐはずだった補給物資も、すべて上層部が金のために裏で横流ししていた。
前線の私たちが肉の壁になって盾になっている間に、小綺麗な軍服を着た上の連中はとっくに安全な後方へ逃げ延びて笑っていたんだ。
その汚い大人の都合のせいで、私の目の前で何十人もの仲間が泥を舐め、無念の涙を流しながら死んだんだ。
私達だって、何度も死にかけて、手を血に染めてきた。
「忘れるわけないじゃん!毎日、あの地獄の夢を見るよ。……置き去りにしてきたみんなの顔が頭から離れないよ」
私の魂を絞り出すような叫びに、公園内を吹き抜けていた風がピタリと止まったかのような錯覚を覚える。
少しだけ、平八の殺気が緩んだ気がした。平八がその気になれば、私なんかすぐに殺せるだろう。それをしないのは、彼の奥底にまだ、かつて共に泥をすすった仲間への情と、失いたくないという怯えが残っているからだろう。
「みんなの無念を晴らすには、国をひっくり返さないとダメなの?」
「ああ。それ以外に、あいつらの存在を証明する方法がねぇ」
「……」
私はそっと目を伏せた。これ以上、言葉を交わしても平行線のままだと分かってしまったから。
平八の拳から完全に力が抜け、私の胸ぐらを掴んでいた手が、力なく離れた。
彼はそのまま、私から一歩、また一歩と距離を置く。
薄暗い影に沈む彼の姿は、まるで過去という暗闇に自ら囚われに行こうとしているかのようだった。
「……俺はもう行く。お前も、さっさとその遊びみたいな平和ごっこに戻れよ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、平八は私に背を向けた。
「平八……!」
呼びかける私の声に、彼の足は止まらなかった。
木々の奥へと消えていく広い背中が、薄暗い闇に溶けて完全に視界から消え去るまで、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
胸の奥が、冷たい鉛を飲み込んだように重く、苦しい。
平八が背負い込んでいるものの大きさと、その果てにある破滅への予感が、私の足元をじわじわと侵食していくようだった。
遠くのハイキングコースから、子供の無邪気な笑い声が風に乗って聞こえていた。



