鏡花水月

お目当ての歴史自然公園に着くと、心地良い風が吹いた。
「うわぁ、すごいきれい!」
サエちゃんが歓声を上げた。
目の前には、新緑の木々が青空に向かって生き生きと伸びる、広大な自然公園が広がっている。
さすが歴史自然公園と言うべきか。少し進んだ先には、周囲の自然に溶け込むように時代を感じさせる古い建築物が建っている。
「わぁ、タイムスリップしたみたい……!」
ユキちゃんがその建造物を見上げて、感嘆を漏らすようにぽつりと呟いた。
​立派な瓦屋根に、どっしりとした木の柱。教科書でしか見たことがないような古い建物が、緑豊かな自然の中にすっかり溶け込んでいる。
「あれは『旧陣屋門(きゅうじんやもん)』っていう、江戸時代の建物を移築したものだって。最初のチェックポイントはそこをくぐった先にある『歴史資料館』だよ」
「おー!」
「さすがアオイちゃん。頭良いねー」
私達が感心したように拍手を送ると、アオイちゃんは「事前にちょっと調べただけだよ」と照れくさそうに笑った。
「これならクイズのヒントも難なく解けそうだね」
「みんなも手伝ってよね」
「お、全科目90点の秀才がなんか言ってらー」
「もー!」
​みんなでワイワイと言い合いながら進む、この何気ない時間。
手元のプリント、友達の笑顔、通り抜ける爽やかな風。
平八が口にした不穏な単語や、重治達の奇想天外な姿が頭の片隅をよぎるけれど、今私の目の前にあるのは、間違いなくこの穏やかで愛おしい日常だった。
(あー、この日常を手放したくないな……)
​「紫乃ちゃん、置いてっちゃうよー!」
少し先から手招きするミカちゃんの声に、「今行く!」と答えて駆け出す。
舗装された遊歩道の両脇には、手入れの行き届いた芝生と、名もなき小さな野花が咲き乱れていた。
​「このクイズで最後そうだよ!」
一番前を歩いていたアオイちゃんが、振り返ってプリントを指さす。
​「『歴史資料館の入り口にある、かつてこの地を治めていた領主の家紋のモチーフは何でしょう』だって。歴史の教科書に出てきたやつかな?」
「えー、家紋なんてどれも同じに見えるよ……」
ミカちゃんが早くもトホホという顔で頭を抱える。
​「あ、入り口の門扉のところに、何かマークがついているよ!」
リンちゃんが指さした先、重厚な鉄製の扉の中央に、精巧に彫り込まれた紋章が鈍く光っていた。
​「植物みたいだけど……これ、何の葉っぱだろう?」
サエちゃんが顔を近づけてじっくりと観察する。
​「あ、プリントの選択肢を見て!」
アオイちゃんが素早く手元の資料を開いた。「① (きり)、② (あおい)、③ 沢瀉(おもだか)。このどれかだよ」
​「ええっ、どれも聞いたことあるような、ないような……」
ミカちゃんが腕を組んでうなり声を上げる。
​私はみんなと一緒にその紋章を見つめながら、かつて母星の古い文献で見たことのある意匠を思い出していた。地球の歴史と私たちの故郷の文化には、時折不思議な共通点がある。
​着物とかそうだし。
「正解は三つ葉葵!確か先祖が信仰していた神社の神紋が葵だったからってことで、双葉葵がモチーフになったのよ!」
「へぇー!アオイちゃん、本当に詳しいんだね。名前と同じだから覚えるのも早かった?」
「あはは、確かに!名前に『アオイ』が入ってるもんね」
​ミカちゃんが手を叩いて笑うと、アオイちゃんはちょっと照れたように、でも嬉しそうに頷いた。
​「じゃあ、答えは文句なしで2番だね!」
リンちゃんが声を弾ませると、サエちゃんが手際よくプリントの選択肢に大きな丸を書き込んだ。これで最後のクイズも見事にクリアだ。
​最後のミッションを無事にクリアした私達は、そのままの勢いで木陰のベンチでお昼を取ることになった。
​楽しい時間はあっという間に過ぎ、みんなが次の目的地を確認していた、その時だった。
​ふと視線を何気なくずらした瞬間、瑞々しい青葉が重なり合う隙間に、見覚えのある、鮮やかな紫色の着流しの裾が視界の端をかすめた。
「―――え?」
瑞々しい青葉が重なり合う隙間。歴史自然公園の賑やかな遊歩道から少し外れた、鬱蒼とした木陰に、その男は立っていた。
全身の血が、一瞬で凍りつくような感覚が体中を駆け巡る。
周囲を歩く観光客の和やかな笑い声や、家族連れの賑わいから、そこだけが完全に切り離され、拒絶されているかのような、肌を刺す独特の冷たい空気感。
間違いない―――平八だ。
テロリストなんていう冗談にしか聞こえない爆弾発言を落としていった男が、なぜ地球の、しかも私が校外学習で来ている公園にいるのか。
​「紫乃ちゃん?どうしたの?」
​パンフレットを広げていたミカちゃんが、急に幽霊でも見たかのように足を止めた私を、不思議そうに覗き込んでくる。
​「あ、ごめん! ちょっと……あっちに、知り合いを見つけたみたいで……!」
「えっ、知り合い?」
ミカちゃん達が首を傾げるより早く、私は「すぐ戻るね!」と言い残して駆け出していた。班長としての責任や、みんなを迷子にさせないという義務感が、一瞬で頭から吹き飛んでいく。
平八を追いかけて、木々の間の細い道をがむしゃらに走っていると、いつの間にか周囲の観光客の雑音は消え、辺りには人っ子いない状態になっていた。
「何してんだ、そんなところで。お友達を置いてきぼりか?」
斜め上から、低く刺すような冷ややかな声が降ってきた。