鏡花水月

中間テスト返却日。
放課後の西日が差し込む近くの喫茶店に集まった私達は、作戦会議とは名ばかりのお喋りに興じていた。
カランと音を立てて氷が溶けるグラス。
店内に漂う香ばしい珈琲の香りが、テスト終わりの解放感を一段と引き立ててくれる。
「それより、テスト!テストどうだった!?」
​桃李が身を乗り出し、テーブルに両手を突いて聞いてくる。その瞳は、他人の不幸かそれとも奇跡か、どちらかを期待するような好奇心でキラキラと輝いていた。
「いやー、色々教えてもらってなんだけど……」
私が歯切れ悪く言うと、桃李がじりじりと顔を近づけてきた。
「え、何、怖いんだけど。まさか、補習行き?」
「じゃじゃーん!私史上、最高得点でした!60点!!」
カバンから引っ張り出した答案用紙をパンっと机に広げると、二人が一瞬、あからさまに目を見張った。
それからパチパチと温かい拍手をしてくれる。
「まじ?すげーじゃん、おめでと〜!」
「おお、よくやったな。あのボロボロの状態から引き上げるとは」
​重治がアイスコーヒーのグラスを置き、珍しく満足そうに口元を緩めた。
「結果が出たのなら何よりだ。これで足止めを食らうこともないな」
​重治のその言葉に、胸の奥がすっと軽くなる。
ただの学校のテスト。地球の、普通の中学生なら誰もが通る、なんてことのない日常の一幕。
けれど、その普通のハードルを自力で勝ち取れたことが、今の私にはたまらなく誇らしかった。
​「よーし、約束通りクレープは俺の奢りね!紫乃、一番高いやつ頼んでいいぞー!」
「じゃあ、イチゴとチョコが全部乗ったやつにする!」
「なら俺も同じやつ」
「待て待て待て!何で重治までちゃっかり奢られる側に回ってんの!?」
ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった桃李に、重治は眉一つ動かさない。
「え?ついでに、ってことで」
「ついでで頼んでいい金額じゃないだろ!予算オーバー!」
桃李がメニュー表をバシバシと叩きながら、本気で理不尽を訴えるような顔をする。
​「問題ない。俺がこれまでにどれだけお前の尻拭いをしてきたか、その回数を考えればクレープ一つなど安いものだ」
重治は至極真面目な顔のまま、コーヒーのストローに手を伸ばした。
​「うっ……それは、そうだけどさぁ……」
過去の数々のやらかしを完璧な正論で突かれ、桃李が分かりやすく言葉に詰まる。その様子が可笑しくて、私はグラスを持ったまま思わず吹き出してしまった。
「桃李、完全に言い返せてないじゃん」
​私はお腹を抱えながら、二人のやり取りを特等席で眺める。かつては戦場で誰もが恐れるような鋭さを持っていた重治が、今やクレープ一つを勝ち取るためにその完璧な論理的思考をフル活用しているのが、おかしくてたまらない。
​「紫乃まで重治の味方すんのかよー!あーもう、分かったよ、奢ればいいんだろ、奢れば!」
​ヤケクソ気味に財布を取り出す桃李に、重治は「感謝する」と短く、けれど実に満足そうに頷いた。
窓の外からは、下校中の学生達の賑やかな話し声が通り過ぎていく。夕方の心地よい風が喫茶店のドアが開くたびに吹き込み、店内に飾られた観葉植物の葉を揺らした。
そうこうしているうちに、桃李がクレープをニ個持ってきた。
溢れんばかりの生クリームに、艶やかなイチゴと濃厚なチョコソースがたっぷりとかかっている。
一口頬張ると、圧倒的な甘さとイチゴの酸味が口いっぱいに広がって、テスト期間中に酷使した脳みそにじわじわと染み渡っていく。
​「んー……!美味しい!生き返る~!」
「そうだろう、そうだろう」
重治はイチゴの乗ったクレープを平然と口に運びながら、大真面目な顔で言い放つ。
「重治、何でそんな得意げなわけ!?」
「そう怒るな。近々、埋め合わせに何か作ってやる」
「言ったからな?絶対に言ったからな!?じゃあ二段ケーキ作ってくれよ」
「ああ、構わん」
「二段ケーキって、どんだけ食べるの!?」
桃李の注文のスケールの大きさに、私は思わず突っ込みを入れていた。
最近スイーツ作りという新たな趣味に目覚めたらしい重治は、定期的にプロ顔負けの自作お菓子を私達に振る舞ってくれるのだ。
「だが、ただの二段ケーキではないぞ。お前の大好きなイチゴをこれでもかと敷き詰めた、特製の二段ケーキだ」
重治クレープの紙を小さく折り畳み、何食わぬ顔でさらにハードルを上げてきた。
​「ちょっと待って、俺への罪滅ぼしなのに、なんで紫乃の好物がメインになってんの!?」
桃李がすかさずツッコミを入れ、メニュー表を丸めて机をポンと叩く。
​「スイーツにイチゴは欠かせないだろう。ついでに紫乃にも手伝ってもらうのが合理的だ。それとも、生クリームを塗ったスポンジの塊を二段分、二人だけで完食する覚悟があるのか?それに、お前の好きなメロンのやつも作ってやる」
「メロンが乗るなら話は別。重治の作るメロンケーキとか、ぶっちゃけその辺のケーキ屋より美味いからね。今回は特別に許してやるよ!」
桃李は腕を組んで、満足したように親指をグッと立てた。
​「紫乃、お前も来い」
​「えっ、私も!?食べる専門じゃダメ?」
「働かざる者食うべからず、だ」
「頑張って手伝います」
​重治の静かな脅しに、私は条件反射で背筋を伸ばした。
​「あはは!地球でも相変わらず重治に頭が上がらないねぇ」
桃李が自分の分のイチゴタルトを大きく頬張りながら、実におかしそうに声を上げて笑った。


「はぁ〜……」
​お風呂上がり、パジャマ姿で自分の部屋のベッドに寝転がってくつろぐ。
週末の本格的なケーキ作りの計画に少し興奮して、頭が冴えてしまい、なかなか寝つけないのだ。
お気に入りのクッションを胸に抱え、ごろんと寝返りをうつ。
​その時、ピロン、ピロンと、私のスマホのメッセージアプリに、連続して通知音が響いた。
アカウント名は匿名。見覚えのない文字列からメッセージが二通、立て続けに届いていた。
『試験おつかれ』

『お前らを引き戻すためなら、俺はなんだってする』
画面に表示された文字を目にした瞬間、私の指先が凍りついた。
さっきまで胸を占めていた週末のケーキ作りのワクワク感は一瞬で吹き飛び、代わりに心臓が早鐘を打ち始める。
​「……何、これ」
​『試験おつかれ』という、まるでごく近くで私の日常を観察していたかのような生々しい言葉。そして、それに続く、逃れられない呪いのような不穏な一文。
(怖い怖い、これが最近流行りのストーカーってやつ?)
冷や汗が背中を伝う。
けれど、私の背筋を凍らせたのは別の理由だ。
​『お前らを引き戻すためなら、俺はなんだってする』
​​私達を元の世界へ、あの血生臭い戦いの日々へと連れ戻そうとする強い執念。思い当たる人物の影が、脳裏をよぎる。
私は震える指先でメッセージの送信元を確認しようとしたが、完全に暗号化された匿名の文字が並ぶばかりで、手がかりは何も掴めない。
しかも、その文字は証拠を残さないためか、数秒後に画面からふっと消えてしまった。
​迷っている暇はなかった。
私はすぐにメッセージアプリを開き、桃李と重治のいるグループにメッセージを打ち込もうとした――その瞬間、スマホがブブブと震え、画面に『重治』の名前が表示された。
向こうから、しかも音声通話の着信が来るなんて珍しい。
​驚きながらも通話ボタンをスライドすると、スピーカーからいつもと変わらない、けれど低く落ち着いた重治の声が流れてきた。
​『紫乃か。どうした』
​「重治!今、私のスマホに変なメッセージが――」
『俺のところにも届いた。何て送られてたか分かるか?』
ゴクリ、と生唾を飲み込んで、私は消えてしまった文字を必死に記憶から引っ張り出した。
​「一通目は『試験おつかれ』。それで、二通目が……『お前らを引き戻すためなら、俺はなんだってする』って。送信元は匿名で、数秒で消えて……。重治のところにも、同じものが?」
​『いや、俺の端末に届いたのは後者の一通だけだ。試験に関する文面は届いていない』
​「え……?」
頭の芯が冷たくなるような感覚が走る。
同じ内容が全員に一斉送信されたわけではなさそうだ。
試験のやつは私にしか届いていない。二通目はみんな同じ……。
​「重治のところには『お前らを引き戻すためなら、俺はなんだってする』だけが届いたの……?」
​私の声は、自分でも驚くほど小刻みに震えていた。
​『ああ。だが、それだけではない。桃李の端末にも確認させたが、あいつの元に届いたのはまったく別の文面だ』
​受話器の向こうの重治のトーンは、かつて戦場で敵の包囲網を分析していた時と同じ、冷静だった。
​「桃李には、なんて……?」
​『ポテチばかり食ってると鈍るぞ。そしてその後ろに、お前と同じ文面が続いていたそうだ』
​(ポテチ……)
​頭の芯がガチガチと凍りついていく。
平八だ。間違いなく平八の仕業だ。
あいつは、私たちがこの地球で、どんな風に笑って、どんな風に暮らしているのかを、不気味なほど正確に把握している。テストのことも、桃李のポテチ事情も、全てどこかで見つめている。
​ストーカーなんて、生易しいものじゃなかった。
​私の沈黙を察したように、スピーカーから重治の、フッと鼻で笑うような冷たい吐息が聞こえた。
​『単なる猪突猛進の猪かと思っていたが、一体いつからこれほど執拗(しつよう)に好機を狙えるようになったのか……。少しは見ない間に大人になったな、あいつも』
重治のその言葉は、どこか皮肉めいていながらも、かつて同じ戦場を生き抜いた戦友としての評価だった。
いや、素直に感心している場合じゃないよ……重治。
​ベッドの上で膝を抱え、スマホを強く握りしめると、受話器の向こうからもう一つの声が割り込んできた。少しノイズが混じった、桃李の声だ。
​『いやさ、マジで洒落になってないって。俺のポテチ事情まで把握されてるとか、どこの隠しカメラだよ』
桃李の言葉はいつものように軽口を装っていたけれど、その声のトーンは明らかに緊張で強張っていた。
​『桃李、取り乱すな。あいつの目的は、単なる脅迫や嫌がらせではない。きっと、すぐにでも平八は動き出すだろう』
​重治の冷静な分析が、私の頭のパニックを少しずつ鎮めていく。
『今のままで挑んでも、平八には手も足も出ないだろう。だから、今のうちに鍛えておく必要がある』
重治の言葉の真意を測りかねて、私は思わず「ゲッ」と声をもらしてしまった。かつて叩き込まれた、過酷な訓練の日々が脳裏をかすめる。
​桃李もそれを思い出したのか、電話越しに抗議の声が聞こえてくる。
​『くだらん軽口を叩いている暇があるなら、自分の置かれた状況を正しく認識しろ』
​重治の声には、一切の妥協がなかった。
さすがに戦場でのうのうと缶蹴りをしていた過去がある私達とはいえ、訓練は誰だって嫌だろう。
「でも、訓練ってどこでやるの?」
『そこはもう考えてある。明日、学校が終わったらすぐに指定の場所へ来い。俺達もバイトが終わればすぐに向かおう』
​『え、マジでやるの!?ここ日本だよ?異世界の防衛施設みたいな便利な場所なんてないでしょ』
​桃李の必死なツッコミがスピーカーから響く。しかし、重治は全くブレなかった。
​『問題ない。人目がなく、かつ合法的に体を動かせる場所……すでに手配は済ませてある』
​「手配って……まさか、どこかの体育館を貸し切ったとか?」
​『いや、もっと身近な場所だ』
『さすが重治……手回しが良すぎるというか……』という桃李の声を置き去りに、プツリと非情な電子音が響いて通話が切れる。
​私は力なくスマホをベッドに放り出し、再び天井を見上げた。
​(試験おつかれ、か……)
​本当に、平八はどこから私たちを見ているんだろう。
私のすぐ後ろの席で、ミカちゃん達が「紫乃ちゃん、赤点回避おめでとう!」と一緒になって喜んでくれたあの瞬間も。私が答案用紙をカバンに押し込んで、解放感に浸りながら校門をくぐったあの瞬間も。
平八は、あの爛々と燃える修羅の目で、陰からじっと見つめていたのだろうか?
​ぞくりと、再び背筋に冷たいものが走る。
平八の本気度は、私の想像を遥かに超えている。言葉通り、私達をあの泥と血の地獄へ引き戻すためなら、どんな手段だって使ってくるに違いない。
それが、とても怖かった。