鏡花水月

「さて、どうする」
重治は私達をじっと見つめながら、話を切り出した。
もうすぐ中間テストなので、二人の話を聞きながら私はノートに英単語やら数式を書いていく。
私は、あの時見た平八の姿を思い出す。
あんなに激昂して、泣きそうな目で私を睨みつけた平八。
彼は今も、あの泥と血にまみれた戦場に取り残されたままだ。復興を遂げた美しい街並みも、地球の穏やかな青空も、彼の目には大切な仲間を裏切ってのうのうと続く『偽物の平和』にしか映らないのだろう。
(ダメだ、最近平八のことばっか考えてる。こんなんじゃ学生生活に支障が出るよ……)
そんな私の様子を敏感に察したのか、桃李が呆れたように笑いながら、私の頭を軽く小突いた。
​「平八のことも大問題だけど、紫乃、お前さっきからずっと上の空じゃん。さっきなんて、持ってきたノートに『平八』ってゲシュタルト崩壊するくらい書き連ねてたぞ。ストーカーかよ」
「う、嘘!? 無意識にやってた……」
慌てて手元のノートを閉じると、重治が真面目な顔でふむ、と頷いた。
​「学生生活に支障が出るのは良くないな。提出物の期限や、次のテストの範囲はどうなっているんだ?」
「重治、そこは今関係ないでしょ!」
桃李がすかさずツッコミを入れる。
桃李がガシガシと頭を掻きながら、私のノートをひょいと覗き込んできた。
「でもこれ、本当に酷いな。ほら見ろよ重治。英単語の『Protest(抗議する)』の横に、小さく『平八のばか』って書いてる。どんだけ脳内侵食されてんだよ」
「仕方ない。紫乃の報告書は元々愚痴だらけだったのを忘れたのか」
「あー、あのめっちゃくちゃな怪文書ね」
「ちょっと、二人して私の黒歴史を掘り返さないでよ!」
​私は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、ノートを閉じた。
昔、戦場で書かされた報告書のことなんて、今この地球の、しかもテスト勉強の最中に思い出してほしくない。あの時は生きるか死ぬかの極限状態だったんだから、多少文章が荒ぶって『上層部のハゲタカ!』とか書き殴ってしまったのは不可抗力だ。
​「懐かしいねぇ。あの報告書を読まされた上官、泡吹いて倒れそうになってたっけ」
桃李が意地の悪い笑みを浮かべて、思い出すように天井を仰ぐ。
「当時の上官、紫乃の報告書を読んだあと丸三日は頭を抱えて部屋から出てこなかったな。あの上官、結構繊細だったからな」
​重治がこれまた大真面目な顔で、とんでもない追撃を放ってきた。
​「ちょっと、重治まで一緒になってからかわないで! 二人だって、まともな報告書を書いてなかったじゃん! 桃李なんて、敵の補給拠点を平八と一緒に爆破した理由の欄に『奇襲を仕掛けてきそうだったから』って書いてたよね!?」
「なんだよー、俺達が不眠で偵察したんだぞ」
​桃李はすかさず身を乗り出して反論し、まるで昨日のことのように悔しそうな顔をする。
「不眠で偵察した挙句、全部爆破して証拠隠滅するな。お前と平八のせいで、その後の作戦計画を全部練り直す羽目になった俺の身にもなってくれ。あと、戦場で缶蹴りする奴がおるか!」
「ねぇ、いつの話掘り出すの!?あれは、そう!ちょっとしたメンタルケア、つまり息抜きだよ。息抜き」
「誰が最後まで見つからずに残るかで、配給の乾パンを賭けていただろう」
重治はさらに眉間のシワを深くして、淡々と事実を突きつける。
ちなみに、二人はひと通り缶蹴りに満足したあとは、騒ぎで追いかけてきた敵の偵察小部隊から逃げながら綺麗に潰していた。
いつの間にか、「上官の命令は聞かない」だの「勝手にキレて敵の拠点を奪還した」だの話が脱線して昔話に花を咲かせていた。
あの頃、私達が軍法会議にかけられなかったのは、裏で一緒に必死に頭を下げてくれていた上官のおかげだ。
本当に、あの上官は不憫で良い人だった。
​「さて、思い出話はここまでだ」
重治が私の開きっぱなしの教科書を指先でトントンと叩く。
「紫乃、中間テストで最高の結果を出せ。平八を連れ戻す前に、お前が赤点で足止めを食らうことだけは絶対に許さん」
「最高の結果、ねぇ……。言うのは簡単だけどさ」
​私は机に突っ伏して、重治の言葉に恨めしげな視線を送った。
​「だいたい、重治はいいよね。何でもそつなくこなすから、テストの心配なんてしたことないでしょ。てか、地球の学校のテスト受けてみなよー」
「言語なら分かる」
「敵なしじゃん」
言いながらも、私は渋々ペンを握り直す。
​「まぁまぁ、そう言うなって。終わったら美味いもんでも奢ってやるからさ。ほら、駅前に新しくできたクレープ屋、最近流行ってるみたいだぞー」
「え、クレープ!?」
私が目を輝かすと、桃李はサッとスマホの画面を私に向けてきた。
そこにはオシャレなケーキ屋さんのような外観と、生クリームやイチゴがこれでもかと乗った、美味しそうなクレープの写真が何枚も載っていた。
「桃李が奢り?明日は槍でも降るのか?」
「カエルが降るかもよ」
「お前ら酷くね!?」
「はぁ……」
机に突っ伏す。 目の前には数学のノート。
見れば見るほど、ゲシュタルト崩壊を起こした知らない記号が増殖していく気がする。
なんで数字にアルファベット混ぜた?数字だけで生きていけなかったの?欲張りセット?
「ちなみに、テストっていつ?」
桃李がポテトチップスを口に放り込みながら、何気なく尋ねてきた。
「……明日」
「「明日!?」」
二人の声がきれいにハモり、リビングの空気が一瞬で凍りついた。
桃李の手からスマホが滑り落ち、重治の眉間のシワはもはやこれ以上刻めないという深さに達している。
​「おい、明日って……お前、前回の赤点ラインを覚えているのか?」
「……40点」
「今回の目標は?」
「……平均点」
「現在の仕上がりは?」
「……アルファベットがゲシュタルト崩壊中」
​私の消え入りそうな自己申告に、桃李は静かに立ち上がると、逃げるように部屋から出ようとした。
「おい、どこへ行く」
逃亡を図ろうとした桃李の襟首を、重治がガシッと掴み取った。
「いや、俺、関係ない……」
「何を言う。仲間の危機は自分の危機だ」
「う、うわぁ......」
桃李は諦めたように肩を落とし、ソファへと引き戻された。
「一夜漬け。と言いたいところだが徹夜をして全力は出せないぞ」
​「重治、本当にあと数時間でどうにかなるのー?」
弱音を吐く私に、重治は容赦なくノートを開いてペンを握らせた。
​「お前の知識はボロボロだが、幸いにも課題を終わらせたという『基礎』は済んでいる状態だ。いいか、まずはこの x と y の連立方程式からだ。x は平八が勝手に突撃した回数。 y は桃李が財布を忘れて無銭飲食した回数と思え」
​「えっ」
​重治は私のノートに、サラサラと物騒な数式を書き殴っていく。
​「平八( x )の突撃3回分と、桃李( y )の無銭飲食2回分が重なると、上官が胃潰瘍で寝込む。これが一つ目の式だ。そして、平八の突撃回数から桃李のやらかし回数を引くと、軍法裁判一歩手前になった回数の『2』が残る。これが二つ目の式だ」
「めちゃくちゃ頭に入ってくるけど、例えが最低すぎる! 上官に今すぐ謝って!」
​重治のあまりにも実戦的かつ不名誉な例え話のせいで、ノートの上のアルファベットが、急にやかましい幼馴染の顔に見えてくるから不思議だ。
(……本当に、なんでこの例えで完璧に理解できちゃうんだろう、私)
アルファベット代わりにされている桃李は、気まずいのかスマホゲームに没頭していた。
重治の容赦のない地獄の猛特訓もあり、日付をまたぐ頃には、苦手だった単元をなんとなく感覚的に理解できていた。少なくとも、アルファベットの羅列が殴りかかってくるような恐怖心は消えている。
​「お疲れー。ほら、冷たいお茶」
​ずっとスマホゲームをいじりつつも、さりげなく夜食のゴミを片付けたり進捗を見守ってくれていた桃李が、冷えたペットボトルを私の頬に押し当ててくる。
ひんやりとした感覚が、酷使した頭には心地良かった。