天気……冬になって寒さが日ごとにつのってきて、地面に散り敷いた枯葉が北風に吹きあげられて、ひらひらと舞っている。空はどんよりと曇っているが、雲のすき間から太陽が時々、顔をのぞかせることもあり、貴重な日の光が降り注ぐ時は、この時季ならではの、ほっとするような喜びを感じることができる。
夜中の一時過ぎに、西貝さんがようやく、うちへ帰ってきた。酒くさいにおいがした。酔っているのは明らかだった。ふらふらした足取りでダイニングルームの中に入ってくると、冷蔵庫を開けて、ミネラルウオーターが入ったペットボトルを取り出して、ごぼごぼと飲んでから、飲み干したペットボトルを無造作に床の上に投げ捨てていた。西貝さんはそのあと、怒鳴るような大きな声で、二階に向かって
「小波、下りてこい。おまえに話がある」
と言っていた。
それからまもなく小波さんが二階から下りてきた。小波さんは、この時は顔にベールをしていなかった。寝る直前だったから、ベールを外していたのではないかと、ぼくは思った。小波さんがベールをしていないことに気がついた西貝さんが、むっとしたような顔をしながら
「おまえは、どうしてベールをしていないのか。うちの中にいる時も、常にするように、あれほど言っていたではないか」
と言って、声を荒立てながら、小波さんをにらみつけていた。西貝さんの逆鱗に触れた小波さんは怖くなって、すぐに再び二階に上がっていって、ベールをしてから、また一階に下りてきた。
「おまえに話があるというのは、明日、いや、もう十二時を過ぎているから、今日、テレビ局のレポーターが、うちにやってくる。朝の十時頃に来ると言っていたから、その時には愛想よくふるまって、仲むつまじいところを見せつけてくれ。そうすることで、おれの人気がますます上がるから」
西貝さんがそう言った。それを聞いて小波さんが、ふっとため息をついてから
「わたしたちのどこが仲むつまじい夫婦と言えるのでしょうか。ファンの目を意識して、体裁よくふるまって人気をますます上げようとするあなたの魂胆には、いつかきっと、ほころびが生じると思います」
と言っていた。
「おまえが今、しあわせでないのは分かっている。おれも、今、しあわせではない。しかしおれたちは俳優だから、上手に演技をすることができる。演技を通して、ファンに喜びや感動を与えるのが、おれたちの使命だから、しあわせでなくても、しあわせなふりをしなければならない」
西貝さんがそう言った。
「あなたの言っていることも分からないではありません。しかし仕事と実生活は切り離して考えるべきではないのですか」
小波さんがそう答えていた。
「おれはそうは思わない。いい演技をする俳優は実生活でもいい人のように見せるべきだ」
西貝さんがそう言って反論していた。
「わたしといっしょにいることがしあわせでないのなら、離婚してください」
小波さんがそう言った。
「そういうことをしたら、おれの人気が、がた落ちする」
西貝さんが不愉快そうに、言葉を返した。
「ファンが離れるのを恐れて、わたしと離婚しないのですか」
小波さんが口をとがらせていた。
「そういうわけではない。フェミニストとして知られているおれが、おまえと離婚したら、化けの皮がはげたことになり、これからの人生に悪影響が出るからだ」
西貝さんがそう言った。
「本当の心を隠して、いい人であるように見せかけるのは、不誠実だと思います」
小波さんが依怙地になっていた。
「何が不誠実か。おまえはやけどをして醜い顔になったにもかかわらず、おまえと離婚をしないのは、おれが誠実である何よりの証拠ではないか」
西貝さんがそう言った。
「不誠実ではなくても、わたしのことを嫌っているのは事実です。そうでなかったら、うちの中にいる時もベールをかけて顔を隠すようには言わないはずです」
小波さんが、へそを曲げていた。
「おれを責めてばかりいるが、おまえのほうにも問題がある。おれに対する愛情が薄れて、寂しさを紛らわすために、犬や猫をうちの中に勝手に入れて飼い始めたのではないのか」
西貝さんがそう言った。
「そうではありません。この犬は、たまたま、うちの前にいて、飼ってほしいような仕草をしていたので、うちの中に入れただけです。この猫はいつのまにかうちの中に入ってきていました。笑うことができる猫なので、心の癒しになります」
小波さんがそう言って弁解していた。それを聞いて西貝さんが
「ふん、馬鹿なことを言うな。猫が笑うか」
と言った。それを聞いて、ぼくが笑みを浮かべると、西貝さんがびっくりして、
「何だ、この化け猫は」
と言って、ぽかんとした顔をしていた。西貝さんは、そのあとぼくの顔を食い入るようにじっと見ていたので、ぼくは才能を発揮して、いろいろな笑い顔を作ってみせた。にたにた笑ったり、あざけるような目で笑ったり、渋い顔で笑ったりして、西貝さんの気を引いていた。くるくる変わるぼくの表情を見て、西貝さんが目を丸くしながら
「すごいな、この猫は。まるで役者猫だ」
と言った。俳優の西貝さんに褒められたので、ぼくは、まんざらでもなかった。
西貝さんはそのあと小波さんに
「おまえがペットを飼いたいのなら飼うことを認めてもよい。ただし、条件がある。ペットに愛情を注ぐことなく、これからも、おれとおまえは、おしどり夫婦であることを演じ続けてほしい」
と言った。
「あなたがお酒を飲まないで、毎晩、もっと早く帰ってくるのなら、我慢して演じ続けてもいいです」
小波さんがそう答えていた。
「そうか、それなら、おれも付き合いは自粛して、仕事が終わったあとは、なるべく早くうちへ帰ってくることにする。おまえも、もとは女優だったから、おれの仕事を興味深く聞いてくれるだろうし、おれの話を聞くことで、おまえのストレスも解消されるだろうから」
西貝さんがそう言った。
「話を聞いても、女優だったころの思い出がよみがえってきて、今の自分との違いに、ますます、うつろな気持ちになるだけだわ」
小波さんが寂しそうな声で、ぽつりとそう言った。
「だったら、おまえも久しぶりに、ドラマに出て見ないか。おまえさえその気になったら、おれがドラマのプロデューサーに話を持ち掛けてみるから」
西貝さんがそう言った。
「嫌です。やけどした顔を人目にさらしたくありませんから」
小波さんがそう答えた。
「ベールをしたままでできる役を演じればいいではないか」
西貝さんがそう言った。
「そんな役があるのでしょうか。アラブ系の女性の役でも演じるのでしょうか」
小波さんが聞いていた。
「そうではなくて、幼いころに顔に傷を負った女性が、その後ずっと顔を隠しながら生きていくというストーリー。不遇ななかでも、けなげに生きていって、二十歳を過ぎたころ、優しくて思いやりにあふれた男と出会って、しあわせな結婚生活を送るというドラマに仕立ててもらうのだ」
西貝さんがそう言った。それを聞いて小波さんが
「自分に都合のいいドラマにするつもりですか。そのようなドラマの主役を演じることで、あなたの価値が今以上に高まって、もっと多くのファンの心をとりこにすることができると思っているのですか。魂胆が見え見えだわ」
と言った。西貝さんはそれを聞いて
「そういうつもりではなくて、おまえにもう一度スポットライトを当てて、華やかな女優だったおまえの姿を、世間の人にもう一度見せて感動を与えて、おまえの気持ちをしあわせにしてあげたいと思ったからだ」
と言った。
「余計な気遣いは要りません。そんなドラマには出たくありません」
小波さんがきっぱりとした口調でそう言った。
「そんなつれないことを言わないでくれよ。おまえのためを思って言っているのだから」
西貝さんは引かなかった。
「嫌なものは嫌です。偽善的なことをするあなたの実生活を知っている以上、たとえ仕事の上の役柄とはいえ、あなたを引き立てるための役などしたくありません」
小波さんがそう言った。
「分かったよ。そこまで言うのだったら、これからもドラマには出なくていいよ」
西貝さんは、そう言ってから、カバンの中から、新聞を取り出して
「ほら、これを見ろ。おれとおまえがハグをしている場面が出ている」
と言った。小波さんは新聞をちらっと見ると
「心とは裏腹に偽善者ぶって」
と、つぶやくような声で言った。
小波さんはそれからまもなく掛け時計に目をやった。すると時計の針が二時近くになっていた。
「眠くてたまらないから、そろそろ寝ることにするわ。あなたも早く寝なさい。おやすみなさい」
小波さんはそう言ってから二階にある自室に上がっていった。
西貝さんは一階にある自室には入らないで、居間にあるソファーの上に体を横たえて仮眠を取りながら、夜が明けるまでの時間を過ごしていた。時計の針が七時を回ったばかりのころ、西貝さんはソファーから体を起こして、バスルームに行って、熱いシャワーを浴びながら、体を洗っていた。長い時間をかけて体を丁寧に洗い、バスルームから出てきたときの西貝さんの顔はさっぱりしていて、さわやかさにあふれた好男子に見えた。昨夜の酔いはすっかり覚めていて、酒のにおいは全然しなかった。服もきれいに着替えていて、まるで別人のように思えた。小波さんは二階からまだ下りてこなかったので、西貝さんは自分で朝食の用意をしていた。油で揚げた中国風のパンと、ワンタンスープと、ゆで卵を食べたり飲んだりしてから、取材に備えて部屋の中をきれいに整えていた。
時計の針が十時を回ったころ、玄関のインターホンが鳴ったので、西貝さんが玄関に出ていってドアを開けた。玄関の前には取材にやってきたテレビ局の人たちがいた。
「どうぞ、なかにお入りください」
西貝さんがそう言って、テレビ局の人たちを客室に案内していた。
西貝さんはそのあと二階に向かって、
「テレビ局の人たちが取材にお見えになったから、小波、下りてきなさい」
と呼びかけていた。
「分かりました。すぐ行きます」
二階から小波さんの声が聞こえてきた。それからまもなく小波さんが二階から下りてきて、取材にやってきたテレビ局の人たちにあいさつをしていた。
「小波、ここに座りなさい」
西貝さんがそう言って、客室の中にあるソファーの上に小波さんを座らせた。二人仲良く寄り添って座っている姿は、誰が見ても仲むつまじいおしどり夫婦に見えた。
それからまもなく取材が始まった。インタビュアーの人が西貝さんに
「これまでずいぶん辛いご経験をなさったと思いますが、今のご心境についてお聞かせいただけないでしょうか」
と聞いていた。
「そうですね、一番辛かったのは、小波がロケ現場で事故に遭って大けがをした時でした。あのころのぼくはまだ、ほとんど無名の俳優でしたが、小波はあのころは、もうすでにとても有名な女優でした。ぼくのような無名で将来性もない俳優と結婚したことで、天罰が当たって、小波があのような事故に遭ったのではないかと思って、ぼくは小波に対して申し訳ない思いでいっぱいでした。小波が女優をやめると言った時は、ぼくも俳優をやめようと思いました。でも小波が、『やめないで、わたしの分まで頑張って』と言って励ましてくれました。ぼくが今日まで俳優を続けてこられたのは小波のおかげです。ぼくはこのことを生涯忘れないし、小波を一生、愛し続けていきます。小波と出会って、ぼくは今、とてもしあわせです」
西貝さんがそう言っていた。西貝さんはそのあと目に涙を浮かべながら
「ありがとう」
と言って、隣に座っている小波さんの背中に優しく手を回してから熱くハグしていた。小波さんも目に涙を浮かべながら、西貝さんの目を見つめていた。インタビュアーも思わず、もらい泣きをしていた。その場面をカメラマンが、ぱしゃぱしゃと、フラッシュをたきながら写真に撮っていた。
西貝さんの言葉を聞いたり、西貝さんと小波さんが浮かべている涙を見て、ぼくは戸惑っていた。
(これは本心なのだろうか、それとも俳優としての演技なのだろうか)
ぼくはそう思った。演技にしてはあまりにも迫真すぎるように思えた。しかし真夜中に二人が話していた会話の内容からすると、演技のようにも思えた。どちらが本当なのかよく分からなかったが、いずれにせよ、感動的な場面に遭遇して、ぼくも思わず目頭が熱くなっていた。
室内での取材が終わったあと、今度は外に出て、庭での取材が始まった。前庭にも、裏庭にも、手入れの行き届いた花壇があって、パンジーやジュリアンがきれいに花を咲かせていた。西貝さんと小波さんはカメラマンの要望に応えて、今度は花壇の前で口づけをして、熱愛の場面が写真に撮影されていた。
ぼくとシャオパイは、撮影の様子を興味深く見ていた。人はいとしい人と口づけをすることを、ぼくも知っていたが、俳優だから、演技としての口づけもできるのだろうかと思いながら、真に迫ったキスシーンを間近に見て、ぼくの胸も熱くなっていた。
庭の先には木の柵があって、柵の向こうにフェイナがいるのが見えた。ぼくとシャオパイはフェイナのほうに近づいていった。
「わたしは、さっきからずっとここにいて、笑い猫とシャオパイが出てくるのを待っていたわ。うちの中で何をしていたの」
フェイナが、不満そうな顔をしながら、ぼくにそう聞いた。
「テレビ局の取材があっていたので見ていた」
ぼくはフェイナにそう答えた。
「そうだったの。どんなことを話していたの?」
フェイナがそう聞いた。
「夜中に西貝さんが帰ってきて、その時に小波さんに話していたことと、今朝、西貝さんが取材陣に話していたことがまったく異なっていたので、ぼくには、どちらが本当のことなのか、よく分からないでいる」
ぼくはそう答えた。
「そんなことがあるのでしょうか」
フェイナがけげんそうな顔をしていた。
ぼくはそのあとフェイナに、西貝さんが小波さんに話したことと、西貝さんがインタビュアーに話したことを、それぞれ話して聞かせた。するとフェイナが
「おお、何ていうことでしょう。西貝さんは二重人格者ではないの」
と言った。
「確かにそうかもしれないな。ぼくにも、まったく別の人に思えたから」
ぼくはフェイナにそう言った。
「シャオパイ、あのうちに住まないほうがいいかもしれないわ。西貝さんは危なすぎる」
フェイナがシャオパイにそう言った。ぼくはそれを聞いて
「ぼくもそう思う。あのうちにいたら、おまえも八つ当たりされるかもしれない」
ぼくはシャオパイにそう言った。するとシャオパイが
「西貝さんは危なすぎる人でも小波さんはいい人だから、ぼくは小波さんのそばにいて、小波さんの心を癒やしたいと思っている」
シャオパイがそう答えた。
「おまえがそう思うのなら、そうしろよ。でも、それでもやはり、ぼくは心配だ」
ぼくはシャオパイに、そう言った。
「わたしも心配です。二人の仲が悪いのだったら、この家にいても楽しくないだろうし、ケンカの巻き添えをくって、ひどい目に遭わなければいいのですが……」
フェイナもそう答えて憂えていた。
「大丈夫だよ。何かあったら、フェイナのところにすぐに行くよ」
シャオパイがそう答えた。
「わたしも時々、様子を見にいくわ。同じ桜木横丁に住んでいるから、いつでも行けるから」
フェイナがそう言った。
テレビ局の取材はそれからまもなく終わり、インタビュアーとカメラマンはテレビ局へ帰っていった。ぼくとフェイナは、シャオパイが、このうちで西貝さんと小波さんの緩衝の役割を果たしてくれることを願いながら、うちへ帰っていった。
夜中の一時過ぎに、西貝さんがようやく、うちへ帰ってきた。酒くさいにおいがした。酔っているのは明らかだった。ふらふらした足取りでダイニングルームの中に入ってくると、冷蔵庫を開けて、ミネラルウオーターが入ったペットボトルを取り出して、ごぼごぼと飲んでから、飲み干したペットボトルを無造作に床の上に投げ捨てていた。西貝さんはそのあと、怒鳴るような大きな声で、二階に向かって
「小波、下りてこい。おまえに話がある」
と言っていた。
それからまもなく小波さんが二階から下りてきた。小波さんは、この時は顔にベールをしていなかった。寝る直前だったから、ベールを外していたのではないかと、ぼくは思った。小波さんがベールをしていないことに気がついた西貝さんが、むっとしたような顔をしながら
「おまえは、どうしてベールをしていないのか。うちの中にいる時も、常にするように、あれほど言っていたではないか」
と言って、声を荒立てながら、小波さんをにらみつけていた。西貝さんの逆鱗に触れた小波さんは怖くなって、すぐに再び二階に上がっていって、ベールをしてから、また一階に下りてきた。
「おまえに話があるというのは、明日、いや、もう十二時を過ぎているから、今日、テレビ局のレポーターが、うちにやってくる。朝の十時頃に来ると言っていたから、その時には愛想よくふるまって、仲むつまじいところを見せつけてくれ。そうすることで、おれの人気がますます上がるから」
西貝さんがそう言った。それを聞いて小波さんが、ふっとため息をついてから
「わたしたちのどこが仲むつまじい夫婦と言えるのでしょうか。ファンの目を意識して、体裁よくふるまって人気をますます上げようとするあなたの魂胆には、いつかきっと、ほころびが生じると思います」
と言っていた。
「おまえが今、しあわせでないのは分かっている。おれも、今、しあわせではない。しかしおれたちは俳優だから、上手に演技をすることができる。演技を通して、ファンに喜びや感動を与えるのが、おれたちの使命だから、しあわせでなくても、しあわせなふりをしなければならない」
西貝さんがそう言った。
「あなたの言っていることも分からないではありません。しかし仕事と実生活は切り離して考えるべきではないのですか」
小波さんがそう答えていた。
「おれはそうは思わない。いい演技をする俳優は実生活でもいい人のように見せるべきだ」
西貝さんがそう言って反論していた。
「わたしといっしょにいることがしあわせでないのなら、離婚してください」
小波さんがそう言った。
「そういうことをしたら、おれの人気が、がた落ちする」
西貝さんが不愉快そうに、言葉を返した。
「ファンが離れるのを恐れて、わたしと離婚しないのですか」
小波さんが口をとがらせていた。
「そういうわけではない。フェミニストとして知られているおれが、おまえと離婚したら、化けの皮がはげたことになり、これからの人生に悪影響が出るからだ」
西貝さんがそう言った。
「本当の心を隠して、いい人であるように見せかけるのは、不誠実だと思います」
小波さんが依怙地になっていた。
「何が不誠実か。おまえはやけどをして醜い顔になったにもかかわらず、おまえと離婚をしないのは、おれが誠実である何よりの証拠ではないか」
西貝さんがそう言った。
「不誠実ではなくても、わたしのことを嫌っているのは事実です。そうでなかったら、うちの中にいる時もベールをかけて顔を隠すようには言わないはずです」
小波さんが、へそを曲げていた。
「おれを責めてばかりいるが、おまえのほうにも問題がある。おれに対する愛情が薄れて、寂しさを紛らわすために、犬や猫をうちの中に勝手に入れて飼い始めたのではないのか」
西貝さんがそう言った。
「そうではありません。この犬は、たまたま、うちの前にいて、飼ってほしいような仕草をしていたので、うちの中に入れただけです。この猫はいつのまにかうちの中に入ってきていました。笑うことができる猫なので、心の癒しになります」
小波さんがそう言って弁解していた。それを聞いて西貝さんが
「ふん、馬鹿なことを言うな。猫が笑うか」
と言った。それを聞いて、ぼくが笑みを浮かべると、西貝さんがびっくりして、
「何だ、この化け猫は」
と言って、ぽかんとした顔をしていた。西貝さんは、そのあとぼくの顔を食い入るようにじっと見ていたので、ぼくは才能を発揮して、いろいろな笑い顔を作ってみせた。にたにた笑ったり、あざけるような目で笑ったり、渋い顔で笑ったりして、西貝さんの気を引いていた。くるくる変わるぼくの表情を見て、西貝さんが目を丸くしながら
「すごいな、この猫は。まるで役者猫だ」
と言った。俳優の西貝さんに褒められたので、ぼくは、まんざらでもなかった。
西貝さんはそのあと小波さんに
「おまえがペットを飼いたいのなら飼うことを認めてもよい。ただし、条件がある。ペットに愛情を注ぐことなく、これからも、おれとおまえは、おしどり夫婦であることを演じ続けてほしい」
と言った。
「あなたがお酒を飲まないで、毎晩、もっと早く帰ってくるのなら、我慢して演じ続けてもいいです」
小波さんがそう答えていた。
「そうか、それなら、おれも付き合いは自粛して、仕事が終わったあとは、なるべく早くうちへ帰ってくることにする。おまえも、もとは女優だったから、おれの仕事を興味深く聞いてくれるだろうし、おれの話を聞くことで、おまえのストレスも解消されるだろうから」
西貝さんがそう言った。
「話を聞いても、女優だったころの思い出がよみがえってきて、今の自分との違いに、ますます、うつろな気持ちになるだけだわ」
小波さんが寂しそうな声で、ぽつりとそう言った。
「だったら、おまえも久しぶりに、ドラマに出て見ないか。おまえさえその気になったら、おれがドラマのプロデューサーに話を持ち掛けてみるから」
西貝さんがそう言った。
「嫌です。やけどした顔を人目にさらしたくありませんから」
小波さんがそう答えた。
「ベールをしたままでできる役を演じればいいではないか」
西貝さんがそう言った。
「そんな役があるのでしょうか。アラブ系の女性の役でも演じるのでしょうか」
小波さんが聞いていた。
「そうではなくて、幼いころに顔に傷を負った女性が、その後ずっと顔を隠しながら生きていくというストーリー。不遇ななかでも、けなげに生きていって、二十歳を過ぎたころ、優しくて思いやりにあふれた男と出会って、しあわせな結婚生活を送るというドラマに仕立ててもらうのだ」
西貝さんがそう言った。それを聞いて小波さんが
「自分に都合のいいドラマにするつもりですか。そのようなドラマの主役を演じることで、あなたの価値が今以上に高まって、もっと多くのファンの心をとりこにすることができると思っているのですか。魂胆が見え見えだわ」
と言った。西貝さんはそれを聞いて
「そういうつもりではなくて、おまえにもう一度スポットライトを当てて、華やかな女優だったおまえの姿を、世間の人にもう一度見せて感動を与えて、おまえの気持ちをしあわせにしてあげたいと思ったからだ」
と言った。
「余計な気遣いは要りません。そんなドラマには出たくありません」
小波さんがきっぱりとした口調でそう言った。
「そんなつれないことを言わないでくれよ。おまえのためを思って言っているのだから」
西貝さんは引かなかった。
「嫌なものは嫌です。偽善的なことをするあなたの実生活を知っている以上、たとえ仕事の上の役柄とはいえ、あなたを引き立てるための役などしたくありません」
小波さんがそう言った。
「分かったよ。そこまで言うのだったら、これからもドラマには出なくていいよ」
西貝さんは、そう言ってから、カバンの中から、新聞を取り出して
「ほら、これを見ろ。おれとおまえがハグをしている場面が出ている」
と言った。小波さんは新聞をちらっと見ると
「心とは裏腹に偽善者ぶって」
と、つぶやくような声で言った。
小波さんはそれからまもなく掛け時計に目をやった。すると時計の針が二時近くになっていた。
「眠くてたまらないから、そろそろ寝ることにするわ。あなたも早く寝なさい。おやすみなさい」
小波さんはそう言ってから二階にある自室に上がっていった。
西貝さんは一階にある自室には入らないで、居間にあるソファーの上に体を横たえて仮眠を取りながら、夜が明けるまでの時間を過ごしていた。時計の針が七時を回ったばかりのころ、西貝さんはソファーから体を起こして、バスルームに行って、熱いシャワーを浴びながら、体を洗っていた。長い時間をかけて体を丁寧に洗い、バスルームから出てきたときの西貝さんの顔はさっぱりしていて、さわやかさにあふれた好男子に見えた。昨夜の酔いはすっかり覚めていて、酒のにおいは全然しなかった。服もきれいに着替えていて、まるで別人のように思えた。小波さんは二階からまだ下りてこなかったので、西貝さんは自分で朝食の用意をしていた。油で揚げた中国風のパンと、ワンタンスープと、ゆで卵を食べたり飲んだりしてから、取材に備えて部屋の中をきれいに整えていた。
時計の針が十時を回ったころ、玄関のインターホンが鳴ったので、西貝さんが玄関に出ていってドアを開けた。玄関の前には取材にやってきたテレビ局の人たちがいた。
「どうぞ、なかにお入りください」
西貝さんがそう言って、テレビ局の人たちを客室に案内していた。
西貝さんはそのあと二階に向かって、
「テレビ局の人たちが取材にお見えになったから、小波、下りてきなさい」
と呼びかけていた。
「分かりました。すぐ行きます」
二階から小波さんの声が聞こえてきた。それからまもなく小波さんが二階から下りてきて、取材にやってきたテレビ局の人たちにあいさつをしていた。
「小波、ここに座りなさい」
西貝さんがそう言って、客室の中にあるソファーの上に小波さんを座らせた。二人仲良く寄り添って座っている姿は、誰が見ても仲むつまじいおしどり夫婦に見えた。
それからまもなく取材が始まった。インタビュアーの人が西貝さんに
「これまでずいぶん辛いご経験をなさったと思いますが、今のご心境についてお聞かせいただけないでしょうか」
と聞いていた。
「そうですね、一番辛かったのは、小波がロケ現場で事故に遭って大けがをした時でした。あのころのぼくはまだ、ほとんど無名の俳優でしたが、小波はあのころは、もうすでにとても有名な女優でした。ぼくのような無名で将来性もない俳優と結婚したことで、天罰が当たって、小波があのような事故に遭ったのではないかと思って、ぼくは小波に対して申し訳ない思いでいっぱいでした。小波が女優をやめると言った時は、ぼくも俳優をやめようと思いました。でも小波が、『やめないで、わたしの分まで頑張って』と言って励ましてくれました。ぼくが今日まで俳優を続けてこられたのは小波のおかげです。ぼくはこのことを生涯忘れないし、小波を一生、愛し続けていきます。小波と出会って、ぼくは今、とてもしあわせです」
西貝さんがそう言っていた。西貝さんはそのあと目に涙を浮かべながら
「ありがとう」
と言って、隣に座っている小波さんの背中に優しく手を回してから熱くハグしていた。小波さんも目に涙を浮かべながら、西貝さんの目を見つめていた。インタビュアーも思わず、もらい泣きをしていた。その場面をカメラマンが、ぱしゃぱしゃと、フラッシュをたきながら写真に撮っていた。
西貝さんの言葉を聞いたり、西貝さんと小波さんが浮かべている涙を見て、ぼくは戸惑っていた。
(これは本心なのだろうか、それとも俳優としての演技なのだろうか)
ぼくはそう思った。演技にしてはあまりにも迫真すぎるように思えた。しかし真夜中に二人が話していた会話の内容からすると、演技のようにも思えた。どちらが本当なのかよく分からなかったが、いずれにせよ、感動的な場面に遭遇して、ぼくも思わず目頭が熱くなっていた。
室内での取材が終わったあと、今度は外に出て、庭での取材が始まった。前庭にも、裏庭にも、手入れの行き届いた花壇があって、パンジーやジュリアンがきれいに花を咲かせていた。西貝さんと小波さんはカメラマンの要望に応えて、今度は花壇の前で口づけをして、熱愛の場面が写真に撮影されていた。
ぼくとシャオパイは、撮影の様子を興味深く見ていた。人はいとしい人と口づけをすることを、ぼくも知っていたが、俳優だから、演技としての口づけもできるのだろうかと思いながら、真に迫ったキスシーンを間近に見て、ぼくの胸も熱くなっていた。
庭の先には木の柵があって、柵の向こうにフェイナがいるのが見えた。ぼくとシャオパイはフェイナのほうに近づいていった。
「わたしは、さっきからずっとここにいて、笑い猫とシャオパイが出てくるのを待っていたわ。うちの中で何をしていたの」
フェイナが、不満そうな顔をしながら、ぼくにそう聞いた。
「テレビ局の取材があっていたので見ていた」
ぼくはフェイナにそう答えた。
「そうだったの。どんなことを話していたの?」
フェイナがそう聞いた。
「夜中に西貝さんが帰ってきて、その時に小波さんに話していたことと、今朝、西貝さんが取材陣に話していたことがまったく異なっていたので、ぼくには、どちらが本当のことなのか、よく分からないでいる」
ぼくはそう答えた。
「そんなことがあるのでしょうか」
フェイナがけげんそうな顔をしていた。
ぼくはそのあとフェイナに、西貝さんが小波さんに話したことと、西貝さんがインタビュアーに話したことを、それぞれ話して聞かせた。するとフェイナが
「おお、何ていうことでしょう。西貝さんは二重人格者ではないの」
と言った。
「確かにそうかもしれないな。ぼくにも、まったく別の人に思えたから」
ぼくはフェイナにそう言った。
「シャオパイ、あのうちに住まないほうがいいかもしれないわ。西貝さんは危なすぎる」
フェイナがシャオパイにそう言った。ぼくはそれを聞いて
「ぼくもそう思う。あのうちにいたら、おまえも八つ当たりされるかもしれない」
ぼくはシャオパイにそう言った。するとシャオパイが
「西貝さんは危なすぎる人でも小波さんはいい人だから、ぼくは小波さんのそばにいて、小波さんの心を癒やしたいと思っている」
シャオパイがそう答えた。
「おまえがそう思うのなら、そうしろよ。でも、それでもやはり、ぼくは心配だ」
ぼくはシャオパイに、そう言った。
「わたしも心配です。二人の仲が悪いのだったら、この家にいても楽しくないだろうし、ケンカの巻き添えをくって、ひどい目に遭わなければいいのですが……」
フェイナもそう答えて憂えていた。
「大丈夫だよ。何かあったら、フェイナのところにすぐに行くよ」
シャオパイがそう答えた。
「わたしも時々、様子を見にいくわ。同じ桜木横丁に住んでいるから、いつでも行けるから」
フェイナがそう言った。
テレビ局の取材はそれからまもなく終わり、インタビュアーとカメラマンはテレビ局へ帰っていった。ぼくとフェイナは、シャオパイが、このうちで西貝さんと小波さんの緩衝の役割を果たしてくれることを願いながら、うちへ帰っていった。

