夏祭り前日の夜、青葉町に強い雨が降った。
雷は遠かったが、雨脚は細かく、駅前通りのアスファルトを白く煙らせた。智は家で作業表を見直していた。そこへ、依茉から電話がかかってくる。
「智くん、灯食堂の前にいる?」
「今は家。何かあった?」
「商店街の人から連絡が来た。屋台に使う予定のテントが一つ、雨漏りしてるって」
智は時計を見た。午後八時。生徒だけで外に出る時間ではない。
「坂井先生に連絡する」
「うん。私もお父さんに頼んで、車で行けるか聞く」
十分後、智は父親の車で灯食堂へ向かった。依茉は父親と一緒に来ていた。坂井先生、商店街の会長、文乃さんの甥もいる。
問題のテントは、天幕の縫い目から水が落ちていた。このままでは鉄板を置けない。代わりのテントを探すか、配置を変える必要がある。
商店街の会長は頭を抱えた。
「明日の朝までに乾くかどうか」
智は深呼吸した。焦ると頑固になる。文乃さんの言葉を思い出す。
「使えるテントを持っている店を確認しましょう。あと、配置を変えれば、屋根のあるアーケード側に鉄板を置けます」
「でも、呼び込みの動線が変わる」
会長が言う。
「それは依茉が得意です」
智が振ると、依茉は驚いたが、すぐに通りを見渡した。
「駅から来る人は、まず金物屋さんの角で曲がります。そこに英利子さんのポスターを置いて、屋根の下へ案内すればいいと思います。思い出カードは、濡れないように灯食堂の窓側に移します」
「会計は?」
「入口近くにすると混むので、受け取り口と少し離します。賢多くんの説明台本は、並んでいる間に読めるように貼ります」
智はすぐに作業表を書き換えた。スマートフォンで賢多と恵利に連絡する。啓信には「明日、勝手に走らず、荷物運びを頼む」と送った。すぐに「胃袋も運べる」と返ってきたので、「胃袋は置いてこい」と返した。
英利子からは「ポスターは防水袋に入れた。黒猫のまつ毛も守る」と返信があった。
雨はやまない。
灯食堂の透明な電球は、まだ点いていなかった。ガラスに雨粒が流れ、店の中の暗さが外へ滲んでいる。
依茉は黄色い傘を差して、雨の中に立った。街灯を受けて、傘は本当に眩しかった。暗い通りで、そこだけ春が逃げていく夜に残った小さな陽だまりみたいだった。
「智くん」
「何」
「明日、失敗したらどうしよう」
依茉の声は雨に混じっていた。
智は作業表を閉じた。
「失敗しないように準備する。でも、何か起きたら、その場で直す」
「それでも駄目だったら?」
「謝って、次に残す」
「次?」
「灯食堂は明日だけじゃない。文乃さんがすぐ店を再開できなくても、味は残る。人も残る」
依茉は傘の柄を握り直した。
「智くんは、未来のことを表にできるんだね」
「依茉は、今ここにいる人の気持ちを見つけられる」
「それって、やっぱり」
「何」
「唯一無二の最強バディ」
智は雨を見た。
「……今は認める」
「やった」
依茉は小さく拳を握った。
そのとき、灯食堂の屋根の下から黒猫が出てきた。濡れるのが嫌なのか、体を細くしている。口には何かをくわえていた。
黒猫は依茉の足元にそれを置いた。
古いキーホルダーだった。透明な電球の形をしている。中に小さな紙が入っている。
智が拾うと、紙には文乃さんの字で「灯りは、人が帰る目印」と書かれていた。
文乃さんが驚いた顔で言った。
「それ、店を始めた日に作ったものだよ。なくしたと思ってた」
依茉は黒猫を見た。
「あなた、本当に何者?」
黒猫は返事の代わりに、灯食堂の入口へ歩いた。
文乃さんの甥がブレーカーを確認し、古いスイッチを入れる。
透明な電球が、一瞬だけ瞬き、それから柔らかく点いた。
雨の夜に、灯食堂の灯りが帰ってきた。
雷は遠かったが、雨脚は細かく、駅前通りのアスファルトを白く煙らせた。智は家で作業表を見直していた。そこへ、依茉から電話がかかってくる。
「智くん、灯食堂の前にいる?」
「今は家。何かあった?」
「商店街の人から連絡が来た。屋台に使う予定のテントが一つ、雨漏りしてるって」
智は時計を見た。午後八時。生徒だけで外に出る時間ではない。
「坂井先生に連絡する」
「うん。私もお父さんに頼んで、車で行けるか聞く」
十分後、智は父親の車で灯食堂へ向かった。依茉は父親と一緒に来ていた。坂井先生、商店街の会長、文乃さんの甥もいる。
問題のテントは、天幕の縫い目から水が落ちていた。このままでは鉄板を置けない。代わりのテントを探すか、配置を変える必要がある。
商店街の会長は頭を抱えた。
「明日の朝までに乾くかどうか」
智は深呼吸した。焦ると頑固になる。文乃さんの言葉を思い出す。
「使えるテントを持っている店を確認しましょう。あと、配置を変えれば、屋根のあるアーケード側に鉄板を置けます」
「でも、呼び込みの動線が変わる」
会長が言う。
「それは依茉が得意です」
智が振ると、依茉は驚いたが、すぐに通りを見渡した。
「駅から来る人は、まず金物屋さんの角で曲がります。そこに英利子さんのポスターを置いて、屋根の下へ案内すればいいと思います。思い出カードは、濡れないように灯食堂の窓側に移します」
「会計は?」
「入口近くにすると混むので、受け取り口と少し離します。賢多くんの説明台本は、並んでいる間に読めるように貼ります」
智はすぐに作業表を書き換えた。スマートフォンで賢多と恵利に連絡する。啓信には「明日、勝手に走らず、荷物運びを頼む」と送った。すぐに「胃袋も運べる」と返ってきたので、「胃袋は置いてこい」と返した。
英利子からは「ポスターは防水袋に入れた。黒猫のまつ毛も守る」と返信があった。
雨はやまない。
灯食堂の透明な電球は、まだ点いていなかった。ガラスに雨粒が流れ、店の中の暗さが外へ滲んでいる。
依茉は黄色い傘を差して、雨の中に立った。街灯を受けて、傘は本当に眩しかった。暗い通りで、そこだけ春が逃げていく夜に残った小さな陽だまりみたいだった。
「智くん」
「何」
「明日、失敗したらどうしよう」
依茉の声は雨に混じっていた。
智は作業表を閉じた。
「失敗しないように準備する。でも、何か起きたら、その場で直す」
「それでも駄目だったら?」
「謝って、次に残す」
「次?」
「灯食堂は明日だけじゃない。文乃さんがすぐ店を再開できなくても、味は残る。人も残る」
依茉は傘の柄を握り直した。
「智くんは、未来のことを表にできるんだね」
「依茉は、今ここにいる人の気持ちを見つけられる」
「それって、やっぱり」
「何」
「唯一無二の最強バディ」
智は雨を見た。
「……今は認める」
「やった」
依茉は小さく拳を握った。
そのとき、灯食堂の屋根の下から黒猫が出てきた。濡れるのが嫌なのか、体を細くしている。口には何かをくわえていた。
黒猫は依茉の足元にそれを置いた。
古いキーホルダーだった。透明な電球の形をしている。中に小さな紙が入っている。
智が拾うと、紙には文乃さんの字で「灯りは、人が帰る目印」と書かれていた。
文乃さんが驚いた顔で言った。
「それ、店を始めた日に作ったものだよ。なくしたと思ってた」
依茉は黒猫を見た。
「あなた、本当に何者?」
黒猫は返事の代わりに、灯食堂の入口へ歩いた。
文乃さんの甥がブレーカーを確認し、古いスイッチを入れる。
透明な電球が、一瞬だけ瞬き、それから柔らかく点いた。
雨の夜に、灯食堂の灯りが帰ってきた。


