翌日の放課後、家庭科室は青葉焼きの試作で、湯気と笑い声に包まれた。
火を使うため、坂井先生と家庭科の森先生が立ち会った。文乃さんも椅子に座り、杖を横に置いて見守っている。鉄板の上で生地が薄く広がり、キャベツの甘い匂いが立ちのぼる。
「焦がし梅をほんの少しって、どれくらいですか」
啓信が真顔で聞いた。
「啓信の胃袋基準では測れない量」
賢多が言う。
「僕の胃袋は繊細だよ」
「昨日、購買のパンを五種類食べ比べて『全部パン味』って言った人が?」
「あれは総評」
智は調理台に材料を並べた。分量を書いた紙を貼り、誰が何を担当するか確認する。公平に、清潔に、安全に。手順が整うと、胸の中のざわつきも整っていく。
依茉は文乃さんの隣で、味見の感想を聞き取る係になった。
「甘さはどうですか」
「少し若いねえ」
「若い?」
「角が立ってる。もう少し寝かせると、人の話を聞く味になる」
依茉は真剣にメモした。
「たれにも、人の話を聞く味があるんですね」
「あるよ。料理はだいたい頑固だけど、混ぜる人が焦るともっと頑固になる」
文乃さんの言葉に、智はどきりとした。
自分もそうだ。正しい手順を急ぐあまり、誰かの迷いを置いていきそうになる。依茉が隣にいなければ、選ばれなかった二十六人の役割を考えることはできなかった。
英利子はポスターの仕上げを持ってきていた。新しい黒猫は、まつ毛七本で落ち着いている。青葉焼きは湯気までおいしそうで、黄色い傘は背景でやわらかく光っていた。端には、去年の小さなポスター案が額縁のように描き込まれている。
「完璧ね」
英利子は胸を張った。
「青葉焼きが主役になった」
賢多が言う。
「黒猫は準主役」
「まだ少し未練があるな」
「未練は味の深みよ」
「便利な言葉にするな」
恵利は別の机で、思い出カードを分類していた。家族、友人、部活、帰り道、一人で来た日。分類の横に、短い見出しを書く。
「これ、当日、屋台の横に飾る?」
依茉が聞く。
「名前なしなら飾れる。個人がわかるものは、文を少し変える」
「ありがとう」
「読んだ人が、自分の話も書きたくなるように並べる」
恵利は淡々と言ったが、その並べ方は温かかった。
試作一枚目が焼けた。
智が小さく切り分け、全員に配る。啓信の目が輝いた。
「いただきます!」
「待て。全員で同時に」
「僕の胃袋が先走る」
「足じゃないんだから止めろ」
全員で口に入れた。
最初に甘い味噌。次にキャベツの歯ざわり。鶏肉の旨み。青じその香り。そして最後に、ほんの少しの酸味と香ばしさが舌の奥をくすぐった。
依茉が目を見開いた。
「笑った」
「何が?」
智が聞く。
「舌の奥で、味が笑った」
文乃さんがゆっくりとうなずく。
「それだよ」
家庭科室に、声にならない歓声が広がった。
啓信は二切れ目に手を伸ばしかけ、智に手首をつかまれた。
「一人一切れ」
「でも僕は無限」
「今日は有限」
「智の公平感が僕の胃袋を縛る」
「縛られてろ」
みんなが笑う。その笑いの中で、文乃さんが少しだけ涙を拭いた。
「帰ってきたねえ」
依茉は文乃さんの手を握った。
「まだです。夏祭りで、町の人にも帰ってきたって言ってもらいます」
智はその横顔を見ていた。
依茉はもう、透明な存在ではない。自分の声で、誰かの声を連れてくる。そして自分も、依茉の隣にいると、ただ正しさを並べるだけではない何かになれる。
二人で二人前。
青葉焼きなら、二枚分かもしれない。
そんなことを考えていたら、啓信が皿に残った端っこを狙っていた。
「啓信」
「端っこの気持ちを考えてた」
「食べたいだけだろ」
「端っこも僕に食べられたいと思う」
「都合よく代弁するな」
依茉が笑いすぎて、メモ帳を落とした。
火を使うため、坂井先生と家庭科の森先生が立ち会った。文乃さんも椅子に座り、杖を横に置いて見守っている。鉄板の上で生地が薄く広がり、キャベツの甘い匂いが立ちのぼる。
「焦がし梅をほんの少しって、どれくらいですか」
啓信が真顔で聞いた。
「啓信の胃袋基準では測れない量」
賢多が言う。
「僕の胃袋は繊細だよ」
「昨日、購買のパンを五種類食べ比べて『全部パン味』って言った人が?」
「あれは総評」
智は調理台に材料を並べた。分量を書いた紙を貼り、誰が何を担当するか確認する。公平に、清潔に、安全に。手順が整うと、胸の中のざわつきも整っていく。
依茉は文乃さんの隣で、味見の感想を聞き取る係になった。
「甘さはどうですか」
「少し若いねえ」
「若い?」
「角が立ってる。もう少し寝かせると、人の話を聞く味になる」
依茉は真剣にメモした。
「たれにも、人の話を聞く味があるんですね」
「あるよ。料理はだいたい頑固だけど、混ぜる人が焦るともっと頑固になる」
文乃さんの言葉に、智はどきりとした。
自分もそうだ。正しい手順を急ぐあまり、誰かの迷いを置いていきそうになる。依茉が隣にいなければ、選ばれなかった二十六人の役割を考えることはできなかった。
英利子はポスターの仕上げを持ってきていた。新しい黒猫は、まつ毛七本で落ち着いている。青葉焼きは湯気までおいしそうで、黄色い傘は背景でやわらかく光っていた。端には、去年の小さなポスター案が額縁のように描き込まれている。
「完璧ね」
英利子は胸を張った。
「青葉焼きが主役になった」
賢多が言う。
「黒猫は準主役」
「まだ少し未練があるな」
「未練は味の深みよ」
「便利な言葉にするな」
恵利は別の机で、思い出カードを分類していた。家族、友人、部活、帰り道、一人で来た日。分類の横に、短い見出しを書く。
「これ、当日、屋台の横に飾る?」
依茉が聞く。
「名前なしなら飾れる。個人がわかるものは、文を少し変える」
「ありがとう」
「読んだ人が、自分の話も書きたくなるように並べる」
恵利は淡々と言ったが、その並べ方は温かかった。
試作一枚目が焼けた。
智が小さく切り分け、全員に配る。啓信の目が輝いた。
「いただきます!」
「待て。全員で同時に」
「僕の胃袋が先走る」
「足じゃないんだから止めろ」
全員で口に入れた。
最初に甘い味噌。次にキャベツの歯ざわり。鶏肉の旨み。青じその香り。そして最後に、ほんの少しの酸味と香ばしさが舌の奥をくすぐった。
依茉が目を見開いた。
「笑った」
「何が?」
智が聞く。
「舌の奥で、味が笑った」
文乃さんがゆっくりとうなずく。
「それだよ」
家庭科室に、声にならない歓声が広がった。
啓信は二切れ目に手を伸ばしかけ、智に手首をつかまれた。
「一人一切れ」
「でも僕は無限」
「今日は有限」
「智の公平感が僕の胃袋を縛る」
「縛られてろ」
みんなが笑う。その笑いの中で、文乃さんが少しだけ涙を拭いた。
「帰ってきたねえ」
依茉は文乃さんの手を握った。
「まだです。夏祭りで、町の人にも帰ってきたって言ってもらいます」
智はその横顔を見ていた。
依茉はもう、透明な存在ではない。自分の声で、誰かの声を連れてくる。そして自分も、依茉の隣にいると、ただ正しさを並べるだけではない何かになれる。
二人で二人前。
青葉焼きなら、二枚分かもしれない。
そんなことを考えていたら、啓信が皿に残った端っこを狙っていた。
「啓信」
「端っこの気持ちを考えてた」
「食べたいだけだろ」
「端っこも僕に食べられたいと思う」
「都合よく代弁するな」
依茉が笑いすぎて、メモ帳を落とした。


