依茉の黄色い傘は、母親のお下がりだった。
小学生のころは大きすぎて、差すと前が見えなかった。中学生になった今はちょうどよくなったが、持ち手の白い塗装はところどころ剥げ、骨の一本は少し曲がっている。
「傘の子って、私のことかな」
依茉は灯食堂の椅子に座り、傘を膝に置いた。
「去年の八月三十一日に、その傘を差してた?」
智が聞く。
「うん。雨が降ってた。店に入るとき、文乃さんが『眩しい傘だねえ』って」
啓信が傘を見つめる。
「味を預けるって、傘の中に味噌だれを塗ったとか?」
「そんな傘、虫が来る」
賢多が即座に言った。
「じゃあ、持ち手に秘密のボタン」
「探偵ごっこじゃない」
恵利だけは黙って傘を観察していた。
「持ち手じゃなくて、骨」
「骨?」
「一本だけ、修理した跡がある」
恵利が示したのは、内側の細い骨だった。糸で巻かれた部分に、小さな透明テープが貼られている。
「これ、前からあった。お母さんが直したのかと思ってた」
智は無理に触らず、文乃さんに電話で確認した。傘を傷つけたくなかったし、誰かの思い出を勝手に開くのは違うと思ったからだ。
電話の向こうで、文乃さんはしばらく黙った。
「ああ……そうだった。私は本当に、忘れっぽくなったねえ」
「文乃さん?」
「その傘の骨に、細い紙を巻いたんだよ。依茉ちゃんが泣きそうな顔をしていたから、今すぐ渡すと余計に泣くと思ってね。いつか、あの子が自分で気づくか、誰かと一緒に探せるようになったら見つかるだろうって」
依茉は受話器の声を聞きながら、唇を震わせた。
「何が書いてあるんですか」
「青葉焼きのたれの最後のひと手間。それと、依茉ちゃんのお母さんからの言葉」
依茉は目を閉じた。
逃げずに、笑ってごまかさずに、胸の奥に届いたものを受け止めようとしている。智はその横顔を見て、息を潜めた。
テープをはがすのは恵利が引き受けた。手先が器用で、単独作業に強い。全員が見守るなか、恵利は紙を破らずに取り出した。
紙には文乃さんの字で、たれの配合が書かれていた。
味噌、みりん、砂糖、刻んだ青じそ、すりごま。そして最後に、「焦がし梅をほんの少し」とある。
「焦がし梅?」
啓信が首をかしげる。
賢多が説明する。
「梅干しを軽く炙って、ペーストにしたものだと思う。甘辛さの奥に、酸味と香ばしさが入る」
「舌の奥で笑う味だ」
依茉がつぶやいた。
紙の裏には、別の字で短い文章があった。
「依茉へ。言えない日があっても、あなたの声は消えない。いつか誰かと一緒に、この味を見つけてね。母より」
依茉は声を出さずに泣いた。
黄色い傘の内側に、涙が一粒落ちた。星の模様がにじんで、夜空みたいに見えた。
誰も茶化さなかった。
啓信でさえ口を閉じていた。英利子はポケットからハンカチを出しかけて、自分の柄が派手すぎることに気づき、そっと戻した。賢多は説明しようとしてやめた。恵利は取り出した紙を透明な袋に入れた。
智は依茉の横に立った。
「依茉」
「うん」
「一緒に見つけた」
依茉は涙を拭き、笑った。
「うん。智くんが条件を守って、恵利さんが丁寧に開けて、啓信くんが変な可能性を全部言って、賢多くんが説明して、英利子さんが去年の続きを持ってきてくれたから」
「俺の役、条件を守るだけ?」
「そこが大事なんだよ」
依茉は傘を閉じた。
「私、一人だったら、たぶん怖くて開けられなかった」
智は紙に書かれた文字を見た。
誰かと一緒に。
その言葉が、透明な電球に光を入れた気がした。
小学生のころは大きすぎて、差すと前が見えなかった。中学生になった今はちょうどよくなったが、持ち手の白い塗装はところどころ剥げ、骨の一本は少し曲がっている。
「傘の子って、私のことかな」
依茉は灯食堂の椅子に座り、傘を膝に置いた。
「去年の八月三十一日に、その傘を差してた?」
智が聞く。
「うん。雨が降ってた。店に入るとき、文乃さんが『眩しい傘だねえ』って」
啓信が傘を見つめる。
「味を預けるって、傘の中に味噌だれを塗ったとか?」
「そんな傘、虫が来る」
賢多が即座に言った。
「じゃあ、持ち手に秘密のボタン」
「探偵ごっこじゃない」
恵利だけは黙って傘を観察していた。
「持ち手じゃなくて、骨」
「骨?」
「一本だけ、修理した跡がある」
恵利が示したのは、内側の細い骨だった。糸で巻かれた部分に、小さな透明テープが貼られている。
「これ、前からあった。お母さんが直したのかと思ってた」
智は無理に触らず、文乃さんに電話で確認した。傘を傷つけたくなかったし、誰かの思い出を勝手に開くのは違うと思ったからだ。
電話の向こうで、文乃さんはしばらく黙った。
「ああ……そうだった。私は本当に、忘れっぽくなったねえ」
「文乃さん?」
「その傘の骨に、細い紙を巻いたんだよ。依茉ちゃんが泣きそうな顔をしていたから、今すぐ渡すと余計に泣くと思ってね。いつか、あの子が自分で気づくか、誰かと一緒に探せるようになったら見つかるだろうって」
依茉は受話器の声を聞きながら、唇を震わせた。
「何が書いてあるんですか」
「青葉焼きのたれの最後のひと手間。それと、依茉ちゃんのお母さんからの言葉」
依茉は目を閉じた。
逃げずに、笑ってごまかさずに、胸の奥に届いたものを受け止めようとしている。智はその横顔を見て、息を潜めた。
テープをはがすのは恵利が引き受けた。手先が器用で、単独作業に強い。全員が見守るなか、恵利は紙を破らずに取り出した。
紙には文乃さんの字で、たれの配合が書かれていた。
味噌、みりん、砂糖、刻んだ青じそ、すりごま。そして最後に、「焦がし梅をほんの少し」とある。
「焦がし梅?」
啓信が首をかしげる。
賢多が説明する。
「梅干しを軽く炙って、ペーストにしたものだと思う。甘辛さの奥に、酸味と香ばしさが入る」
「舌の奥で笑う味だ」
依茉がつぶやいた。
紙の裏には、別の字で短い文章があった。
「依茉へ。言えない日があっても、あなたの声は消えない。いつか誰かと一緒に、この味を見つけてね。母より」
依茉は声を出さずに泣いた。
黄色い傘の内側に、涙が一粒落ちた。星の模様がにじんで、夜空みたいに見えた。
誰も茶化さなかった。
啓信でさえ口を閉じていた。英利子はポケットからハンカチを出しかけて、自分の柄が派手すぎることに気づき、そっと戻した。賢多は説明しようとしてやめた。恵利は取り出した紙を透明な袋に入れた。
智は依茉の横に立った。
「依茉」
「うん」
「一緒に見つけた」
依茉は涙を拭き、笑った。
「うん。智くんが条件を守って、恵利さんが丁寧に開けて、啓信くんが変な可能性を全部言って、賢多くんが説明して、英利子さんが去年の続きを持ってきてくれたから」
「俺の役、条件を守るだけ?」
「そこが大事なんだよ」
依茉は傘を閉じた。
「私、一人だったら、たぶん怖くて開けられなかった」
智は紙に書かれた文字を見た。
誰かと一緒に。
その言葉が、透明な電球に光を入れた気がした。


