眩しい傘の下で、透明な相棒

 三月の午後、灯食堂の前には、卒業式帰りの三年生が入れ替わり立ち替わり顔を出していた。
 第三中学校の体育館では、ついさっきまで卒業証書授与式が行われていた。智の胸には花の形をした紙飾りが揺れ、依茉の髪には黄色い小さなピンが留まっている。あの傘と同じ色だ。
 灯食堂の透明な電球は、まだ夕方ではないのに点いていた。文乃さんが「今日は朝からつける日だよ」と言ったからだ。
「卒業の日に青葉焼きって、最高だね」
 啓信は制服の第二ボタンより先に、青葉焼きの包みを握っていた。
「普通はもっと感傷的なものを握るんじゃないか」
 賢多が言う。
「僕は胃袋で感傷を受け止める」
「便利な胃袋だな」
 恵利は卒業証書の筒を机の端に置き、灯食堂の記録ファイルを確認していた。最後まで手順を整える姿に、智は思わず笑った。
「恵利、今日は卒業式だぞ」
「だから記録する。終わる日は、始まる日の材料になる」
「いい言葉だな」
「文乃さんの受け売り」
 英利子は、店の窓に貼られた新しいポスターの位置を直していた。進学先の美術科に合格したばかりで、今日はいつもより背筋が伸びている。
「右が二ミリ下がってる」
「二ミリくらい、誰も気づかない」
 啓信が言うと、英利子は振り向いた。
「気づかない人のために直すんじゃないの。気づいた私のために直すの」
「出た、才能の人」
「そうよ。持っているものは使わないと錆びるの」
 その言葉には、前のような見栄だけではなく、誰かの役に立つ場所を見つけた人の強さがあった。
 店の外では、春先の風が商店街の旗を揺らしている。去年の夏、雨に濡れていた屋台の場所には、小さな立て看板があった。
「灯食堂 毎月第三土曜 青葉焼きの日」
 その下に、英利子の字で「初めての人も、おかえりなさい」と書かれている。
 智は看板を見ながら、少し不思議な気持ちになった。去年の七月、朝礼台に黒猫が座っていなければ、自分たちはここまで来なかったかもしれない。だが偶然だけでここまで来たわけでもない。依茉が声を出し、恵利が記録し、賢多が説明し、啓信が場を笑わせ、英利子が未練を絵に変え、文乃さんが「おかえり」と言い続けた。
 そして智は、正しい線を引くだけでは足りないことを知った。
「智くん」
 依茉が店の奥から呼んだ。
 文乃さんが、小さな封筒を二人に差し出している。表には「智くん、依茉ちゃんへ」と書かれていた。
「これはね、店からの卒業証書みたいなもの」
 文乃さんは照れくさそうに笑った。
 依茉が封を開けると、中には手書きの紙が入っていた。
「灯食堂青葉焼き案内係、味と思い出を守る係、そして眩しい傘の下で迷子を見つける係として、二人を認めます」
 智はまばたきをした。
「係が多いですね」
「二人ならできるだろう」
 文乃さんは、いたずらっぽく言った。
 依茉は紙を胸に当てた。
「ありがとうございます」
 文乃さんは、今度は別の小さな包みを出した。中には、透明な電球の形をしたキーホルダーが二つ入っている。雨の夜に黒猫が見つけたものを、商店街の金物屋がまねて作ったのだという。
「灯りは、人が帰る目印。進む場所が違っても、これを見たら、誰かの声を思い出せるようにね」
 智と依茉は、一つずつ受け取った。
 窓の外で、黒猫が鳴いた。
 相変わらず、どこから来るのかわからない。だが今日は、首に細い黄色のリボンが巻かれていた。誰かが結んだのだろう。黒猫は迷惑そうな顔をしているが、外す気はなさそうだった。
「店長、卒業祝いですか」
 啓信が言う。
 黒猫は啓信を見上げ、まるで「青葉焼きを勝手に食べるな」と言うように鳴いた。
「なぜ僕だけ注意される感じがするの」
「日ごろの行い」
 賢多と智の声が揃った。
 依茉が笑い、恵利が小さくうなずき、英利子が「今の全員の配置、絵になる」と言った。
 そのとき、店の扉が開いた。
 入ってきたのは、あの匿名の手紙を書いた高校生だった。今日は小さな花束を持っている。
「卒業、おめでとう」
 彼女は二人に言い、それから文乃さんに花束を渡した。
「私、今度、青葉町の図書館で春休みの手伝いをします。前より少し、人に声をかけられるようになりました」
 文乃さんは花束を抱え、何度もうなずいた。
「よかったねえ」
 依茉は、高校生の顔を見て、あの手紙の言葉を思い出した。
 その日に初めて受け取る返事。
 今、この人は返事を待つだけではなく、誰かに返事を渡そうとしている。
 智も同じことを感じたのか、作業表の裏に何かを書いた。
「何を書いたの?」
 依茉が覗く。
「四月から、灯食堂に初めて来た人向けの案内札を増やす。声をかけなくても、読みながら入れるように」
「いいね。でも、文字だけだと少し固いかも」
「じゃあ、依茉が言葉を考える」
「智くんが形にする」
「英利子が絵を描く」
「恵利さんが保管方法を決める」
「賢多が説明を短くする」
「啓信が」
 二人は同時に啓信を見た。
 啓信はすでに二枚目の青葉焼きを見ていた。
「味見?」
「却下」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
 店中が笑った。
 春の風が扉の隙間から入り、鉄板の上の湯気をふわりと運んだ。その匂いには、去年の夏の残り香が少し混じっていた。けれど、それは過去にしがみつく匂いではない。次に会う日を知らせる、やわらかい合図だった。
 依茉は黄色い傘を手に取った。
「今日、雨は降らないけど、少し外を歩かない?」
「傘を持って?」
「目印だから」
 智はうなずいた。
 二人は灯食堂を出て、商店街の入口まで歩いた。春の光はまだ淡く、風は少し冷たい。黄色い傘は閉じたまま、依茉の腕にかかっている。
「春が逃げてくって、昔は思ってた」
 依茉が言った。
「楽しい日ほど、すぐ終わるから?」
「うん。でも今は、春って逃げるんじゃなくて、次の場所で待ってるのかもって思う」
 智は透明な電球のキーホルダーを日に透かした。
「じゃあ、迷わないように目印が要るな」
「灯り?」
「それと、相棒」
 依茉は少し遅れて笑った。
「智くん、卒業式の日に上手くなってる」
「何が」
「そういうことを言うのが」
「事実を言っただけだ」
「それがずるい」
 灯食堂の前から、啓信の声が聞こえた。
「最強バディ、記念写真撮りますよ! 僕の胃袋も一緒に!」
「胃袋は写らない」
 賢多の声が続く。
「写ったら怖いわよ」
 英利子が笑う。
「位置、決めた」
 恵利の声が静かに響く。
 智と依茉は顔を見合わせ、灯食堂へ戻った。
 透明な電球の下に、六人と文乃さんと黒猫が並ぶ。黄色い傘は、依茉と智の間で開かれた。眩しい傘の内側に、小さな星が散っている。
「撮るよ」
 英利子が合図する。
 その一瞬、智は思った。
 最強という言葉は、誰にも負けないことではないのかもしれない。倒れそうな看板を支え、言えなかった気持ちを待ち、食べすぎる友人を止め、未練を続きを描く力に変え、透明な存在だった誰かへ「見えている」と伝えること。
 依茉が隣で、少しだけ肩を寄せた。
 智は、まっすぐ前を見た。
 写真の中で、二人は同じ傘の下にいる。
 けれど、片方が片方を隠しているわけではない。
 それぞれの顔に、灯食堂の明かりが届いていた。

【終】