眩しい傘の下で、透明な相棒

 二学期が始まっても、夏祭りの話は学校に残っていた。
 廊下の掲示板には、英利子のポスターの縮小版と思い出カードの一部が貼られた。今回は端ではなく、中央だった。英利子は毎朝そこを通るたびに、さりげなく髪を整えた。
 啓信は「無限胃袋の青葉焼き研究」と題した自由研究を提出し、森先生から「食べた感想だけでなく、材料の変化を書きなさい」と赤字をもらった。
 賢多は青葉焼きの説明台本を、三分版、一分版、三十秒版にまとめた。誰に頼まれたわけでもないのに、「説明は短くできてこそ強い」と言っていた。
 恵利は思い出カードの保管ファイルを作り、灯食堂に渡した。分類見出しは、帰り道、家族、友人、一人の日、また会う日。文乃さんは「一人の日」という見出しを見て、長くうなずいた。
 依茉は、母親と前より電話で話すようになった。
 最初はぎこちなかったが、青葉焼きの端っこの話をすると、二人とも笑えた。寂しいと言う日もある。腹が立つと言う日もある。それでも電話を切るときには、「またね」と言えるようになった。
 智は相変わらず作業表を作る。けれど以前より余白を残すようになった。誰かが迷ったとき、書き足せる場所があったほうがいいと知ったからだ。
 九月の終わり、灯食堂で「月に一度の青葉焼きの日」が始まった。
 大人たちが調理を担当し、第三中の生徒は案内や片付けを手伝う。智と依茉は、初回の案内係として店の前に立った。
 透明な電球はきれいに磨かれ、夜になると丸い光を落とした。赤いのれんも戻っている。そこには英利子の字で「おかえり」と書かれていた。
 黒猫は、相変わらず店の前に来た。誰の飼い猫なのか、結局わからない。文乃さんは「灯りが好きなんだよ」と言った。
 その日、店には匿名の手紙を書いた高校生も来た。
 依茉は名前を聞かなかった。ただ、青葉焼きを渡すときに言った。
「おかえりなさい」
 高校生は驚いた顔をして、それから泣き笑いのように目を細めた。
「ただいま」
 その声を聞いて、智は胸の奥が温かくなるのを感じた。
 店の外では、啓信が新しい客に声をかけている。
「焦がし梅が舌の奥で笑います! 僕の胃袋が保証します!」
 賢多がすぐ訂正する。
「胃袋ではなく、第三中の手順確認済みです」
 英利子がポスターの横で胸を張る。
「この絵を見たら食べたくなるでしょう」
 恵利が小声で依茉に言う。
「実際、ポスターを見て来た人が三人」
「あとで英利子さんに伝えたら喜ぶね」
「たぶん五回言う」
 依茉は笑った。
 智は灯食堂の前に立つ依茉を見た。黄色い傘は、店の傘立てにある。雨は降っていない。それでも傘は目印だった。誰かが帰ってくる場所を示す、小さな灯りのように。
「智くん」
 依茉が呼んだ。
「次の案内、お願い。初めて来た人みたい」
 店の前に、小さな男の子が母親の手を握って立っていた。男の子は人の多さに戸惑い、半歩後ろへ下がっている。
 智はしゃがんで、目線を合わせた。
「青葉焼きは初めて?」
 男の子はうなずいた。
「辛い?」
「少し甘くて、最後にちょっとだけすっぱい。苦い懐中電灯みたいな味はしない」
 男の子がぽかんとした。
 依茉が隣で吹き出した。
「その説明、伝わらないよ」
「じゃあ、依茉」
 依茉は男の子に笑いかけた。
「一口食べると、誰かに『おかえり』って言われたみたいな味だよ」
 男の子は母親を見上げた。
「食べる」
 智は依茉を見た。
「完敗だ」
「勝負だったの?」
「説明係として」
「じゃあ、智くんは形を作る係」
「依茉は気持ちを見つける係」
「二人なら?」
「唯一無二の最強バディ」
 今度は、智から言った。
 依茉は目を丸くして、それから眩しい傘みたいに笑った。
 透明な電球が、二人の上で柔らかく光っている。
 春が逃げていく夜も、夏休みが終わらないと泣いた日も、黄色く濁った懐中電灯を覗き込んだ床下も、無限胃袋のくだらない言い訳も、残念美少女の未練も、黒猫に導かれて開いた傘の骨も、全部ここへ続いていた。
 灯りは、人が帰る目印。
 そして、誰かと並んで歩けば、帰る場所はひとつではなくなる。
 智は作業表の余白に、次回の改善点を書いた。
「初めて来た人にも、思い出を書く場所を作る」
 依茉がそれを覗き込む。
「いいね。まだ思い出がない人も、今日から書ける」
「そういうこと」
 黒猫が足元で鳴いた。
 啓信が叫ぶ。
「黒猫店長が賛成しました!」
「店長にするな」
 賢多が言う。
 文乃さんが笑う。
「いいじゃないか。校長代理より似合ってるよ」
 智と依茉は顔を見合わせた。
 あの雨の朝、朝礼台に座っていた黒猫から、すべてが始まった。
 いや、始まりはもっと前かもしれない。灯食堂の電球が初めて点いた日。依茉の母親が黄色い傘を差して笑った日。文乃さんが誰かに「おかえり」と言った日。智が公平でありたいと思った日。依茉が自分の気持ちをしまいこんだ日。
 ばらばらだった日々が、青葉焼きの湯気の中で、ひとつの匂いになっている。
 甘くて、少し酸っぱくて、焦げたところがたまらなくおいしい。
 智は依茉に言った。
「次の青葉焼き、端っこを半分ずつにするか」
「うん。でも焦げたところは私が先」
「公平じゃない」
「じゃんけん?」
「いや、今日は依茉でいい」
「どうして?」
「傘の手紙を見つけた記念」
「それ、もう何回も記念にしてる」
「何回でもいいだろ」
 依茉は少し考え、青葉焼きの端っこを半分に割った。片方を智に渡す。
「二人で見つけたから、半分ずつ」
 智は受け取った。
 端っこは熱く、たれが少し焦げていた。口に入れると、舌の奥で味が笑った。
 灯食堂の透明な電球が、夜の入口を照らしている。
 その光の下で、智と依茉は同時に言った。
「おかえり」
 誰に向けた言葉なのか、自分たちにもわからなかった。
 ただ、その場にいた全員が、少しだけ帰ってきた顔をしていた。