夏祭り当日の朝、青葉町商店街は、雨上がりの匂いと焼きとうもろこしの煙で満ちていた。
灯食堂の前には、英利子のポスターが貼られている。黒猫はまつ毛七本で青葉焼きを見つめ、黄色い傘は背景で光っている。隣には思い出カードの板があり、最初の一枚には「青葉焼きは、私がその日に初めて受け取る返事でした」と書かれていた。
智は作業表を胸ポケットに入れ、全員の配置を確認した。
「調理補助は俺と賢多。会計は恵利。呼び込みは啓信と英利子。思い出カード案内は依茉。文乃さんは味の監督」
「監督って偉そうだねえ」
文乃さんが笑う。
「一番偉いです」
智が真面目に言うと、文乃さんはさらに笑った。
啓信は法被を着て、すでに腹を鳴らしていた。
「開店前の味見係、まだ空いてます」
「空いてない」
「僕の胃袋は町の安全を守る」
「守らなくていい」
英利子は呼び込み用の看板を持ち、髪をきゅっと結んでいた。重い看板を片手で持ち上げる姿に、啓信が「男前」と言いかけ、すぐに「いや、美術前」と言い直して、賢多に首をかしげられていた。
「今日は美少女より青葉焼きを前に出すわ」
「その宣言で自分も前に出てる」
賢多が言う。
「いいの。才能は隠しても漏れるから」
「漏れる才能は修理が必要だな」
恵利は会計箱の中を整えていた。硬貨の種類ごとに仕切り、釣り銭表を貼る。表情は変わらないが、手元に迷いがない。
依茉は黄色い傘を畳み、屋台の横に立てた。雨はもう降っていないが、傘は目印としてそこにある。
十一時。
灯食堂の青葉焼き屋台が開いた。
最初の客は、商店街の金物屋の夫婦だった。
「文乃さんの味、戻ってきたかい」
「戻ってきたかどうか、食べて決めてください」
智が一枚目を渡す。依茉が思い出カードの説明をする。
金物屋の夫婦は一口食べ、顔を見合わせた。
「……これだ」
「焦げたところが、これだね」
文乃さんの目が潤む。
そこから列が伸び始めた。部活帰りの高校生、買い物途中の親子、昔の常連、青葉焼きを知らない小学生。賢多の説明台本は役に立ち、依茉の案内で思い出カードにも人が集まった。
啓信は呼び込みながら、自分の腹の音まで宣伝に使った。
「お腹が鳴るほどおいしい青葉焼きです! 僕のお腹が証明しています!」
「それはお前が空腹なだけだ」
智が鉄板の前から突っ込むと、列の客が笑った。
英利子は看板を掲げ、通りの向こうへ声を張る。
「灯食堂の青葉焼き、復活です! 黒猫も推しています!」
その黒猫は、本当にポスターの下に座っていた。人が近づくと、尻尾をゆっくり振る。まるで店番だ。
昼過ぎ、依茉の母親が到着した。
スーツ姿で、少し息を切らしている。依茉は最初、言葉を探していた。智は鉄板の前から見ていたが、口を出さなかった。
依茉は黄色い傘を手に取り、母親の前に立った。
「これ、傘の中に手紙があった」
母親は目を見開いた。
「見つけたの」
「うん。みんなで」
「ごめんね。あのころ、ちゃんと言えなくて」
「寂しかった」
依茉の声は震えた。でも、消えなかった。
「ずっと、言ったら困らせると思ってた。でも寂しかった。あと、傘に隠すのは反則」
母親は泣きながら笑った。
「本当に反則だったね」
「でも、ありがとう。私、見つけられた」
依茉は智たちのほうを見た。
「一人じゃなかったから」
智は焦がし梅の量を間違えそうになり、賢多に「手元」と注意された。
母親は青葉焼きを一枚買い、依茉と半分ずつ食べた。
依茉は端っこを先に食べた。母親も同じところから食べた。二人は同時に笑った。
その瞬間、灯食堂の前にあった時間の結び目が、少しほどけた気がした。
夕方、屋台は完売した。
啓信は最後の一枚を見つめ、両手を合わせた。
「売り物として旅立つ君を、僕は誇りに思う」
「買った人が食べるだけだ」
賢多が言う。
「僕も食べたかった」
「本音が出た」
文乃さんは完売の札を見て、深く頭を下げた。
「ありがとう。みんなのおかげで、灯りが消えずにすんだ」
智は首を横に振った。
「俺たちだけじゃありません。思い出カードを書いた人、買ってくれた人、店の味を覚えていた人、全員です」
依茉が続ける。
「文乃さんが、みんなに『おかえり』って言ってきたからです」
文乃さんは何度もうなずき、声を詰まらせた。
透明な電球が、夕暮れの中で点いた。その下で、黄色い傘が少しだけ揺れた。
灯食堂の前には、英利子のポスターが貼られている。黒猫はまつ毛七本で青葉焼きを見つめ、黄色い傘は背景で光っている。隣には思い出カードの板があり、最初の一枚には「青葉焼きは、私がその日に初めて受け取る返事でした」と書かれていた。
智は作業表を胸ポケットに入れ、全員の配置を確認した。
「調理補助は俺と賢多。会計は恵利。呼び込みは啓信と英利子。思い出カード案内は依茉。文乃さんは味の監督」
「監督って偉そうだねえ」
文乃さんが笑う。
「一番偉いです」
智が真面目に言うと、文乃さんはさらに笑った。
啓信は法被を着て、すでに腹を鳴らしていた。
「開店前の味見係、まだ空いてます」
「空いてない」
「僕の胃袋は町の安全を守る」
「守らなくていい」
英利子は呼び込み用の看板を持ち、髪をきゅっと結んでいた。重い看板を片手で持ち上げる姿に、啓信が「男前」と言いかけ、すぐに「いや、美術前」と言い直して、賢多に首をかしげられていた。
「今日は美少女より青葉焼きを前に出すわ」
「その宣言で自分も前に出てる」
賢多が言う。
「いいの。才能は隠しても漏れるから」
「漏れる才能は修理が必要だな」
恵利は会計箱の中を整えていた。硬貨の種類ごとに仕切り、釣り銭表を貼る。表情は変わらないが、手元に迷いがない。
依茉は黄色い傘を畳み、屋台の横に立てた。雨はもう降っていないが、傘は目印としてそこにある。
十一時。
灯食堂の青葉焼き屋台が開いた。
最初の客は、商店街の金物屋の夫婦だった。
「文乃さんの味、戻ってきたかい」
「戻ってきたかどうか、食べて決めてください」
智が一枚目を渡す。依茉が思い出カードの説明をする。
金物屋の夫婦は一口食べ、顔を見合わせた。
「……これだ」
「焦げたところが、これだね」
文乃さんの目が潤む。
そこから列が伸び始めた。部活帰りの高校生、買い物途中の親子、昔の常連、青葉焼きを知らない小学生。賢多の説明台本は役に立ち、依茉の案内で思い出カードにも人が集まった。
啓信は呼び込みながら、自分の腹の音まで宣伝に使った。
「お腹が鳴るほどおいしい青葉焼きです! 僕のお腹が証明しています!」
「それはお前が空腹なだけだ」
智が鉄板の前から突っ込むと、列の客が笑った。
英利子は看板を掲げ、通りの向こうへ声を張る。
「灯食堂の青葉焼き、復活です! 黒猫も推しています!」
その黒猫は、本当にポスターの下に座っていた。人が近づくと、尻尾をゆっくり振る。まるで店番だ。
昼過ぎ、依茉の母親が到着した。
スーツ姿で、少し息を切らしている。依茉は最初、言葉を探していた。智は鉄板の前から見ていたが、口を出さなかった。
依茉は黄色い傘を手に取り、母親の前に立った。
「これ、傘の中に手紙があった」
母親は目を見開いた。
「見つけたの」
「うん。みんなで」
「ごめんね。あのころ、ちゃんと言えなくて」
「寂しかった」
依茉の声は震えた。でも、消えなかった。
「ずっと、言ったら困らせると思ってた。でも寂しかった。あと、傘に隠すのは反則」
母親は泣きながら笑った。
「本当に反則だったね」
「でも、ありがとう。私、見つけられた」
依茉は智たちのほうを見た。
「一人じゃなかったから」
智は焦がし梅の量を間違えそうになり、賢多に「手元」と注意された。
母親は青葉焼きを一枚買い、依茉と半分ずつ食べた。
依茉は端っこを先に食べた。母親も同じところから食べた。二人は同時に笑った。
その瞬間、灯食堂の前にあった時間の結び目が、少しほどけた気がした。
夕方、屋台は完売した。
啓信は最後の一枚を見つめ、両手を合わせた。
「売り物として旅立つ君を、僕は誇りに思う」
「買った人が食べるだけだ」
賢多が言う。
「僕も食べたかった」
「本音が出た」
文乃さんは完売の札を見て、深く頭を下げた。
「ありがとう。みんなのおかげで、灯りが消えずにすんだ」
智は首を横に振った。
「俺たちだけじゃありません。思い出カードを書いた人、買ってくれた人、店の味を覚えていた人、全員です」
依茉が続ける。
「文乃さんが、みんなに『おかえり』って言ってきたからです」
文乃さんは何度もうなずき、声を詰まらせた。
透明な電球が、夕暮れの中で点いた。その下で、黄色い傘が少しだけ揺れた。


