梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第9話 夏の匂いと、空き家の郵便受け

 梅雨明けの空は、色が強い。雲のふちが白く光って、校舎の屋根がじりじりと熱を返してくる。図書室の窓を開けると、雨の匂いの代わりに、乾いた土と草の匂いが入ってきた。

 望愛は、資料室で写し取った日誌の一行を、ノートの端にもう一度書いていた。
「六月十六日 図書室 寄付受け取り 木箱 一点」
 その下に、先生が小さくメモしてくれた送り主の欄――住所が続く。番地の数字が、湿気じゃなく汗でにじみそうだった。

「行くなら、今日だよね」
 明乃が、扇子代わりにプリントをぱたぱたさせながら言う。ぱたぱたの風が、望愛の前髪を少しだけ動かした。

「土曜だし。商店街より先の住宅地だって」
 寿樹が地図アプリみたいに紙を広げる。地図の向きが上下逆で、想が黙って回転させた。

「……こう」
「え、今の、俺が間違ってたってこと!?」
「うん」

 寿樹が「うぉぉ」と悔しそうに声を出し、すぐに自分の声の大きさに気づいて口を押さえる。図書室には、涼しい顔の本たちが並んでいた。

 昼過ぎ、四人は商店街を抜け、川沿いの細い道へ入った。アスファルトの上で、空気が揺れている。風が吹くたび、どこかの家のカレーの匂いが流れてきて、寿樹が「腹減った」とつぶやく。明乃が「匂いに負けるな」と、慰めにならない応援をした。

「負けてない。勝ってる。……何に?」
 寿樹が自分で迷子になり、望愛は笑いかけて、途中で口を閉じた。笑うと同時に、胸の奥がきゅっとなる。笑いのすぐ隣に、数字がいつもいる。

 目的の住所は、白い塀の向こうにあった。
 門扉は閉じたまま、表札は外され、庭は草が伸びている。玄関前のタイルだけが、誰かが最後に一度水を撒いたみたいに、少しだけ色が濃かった。

「……空き家?」
 寿樹が言いかけて、蚊が飛んできた。次の瞬間、寿樹は全力で腕を振り回しながら走り出した。

「うわっ、刺すな! 刺すなって! 俺、血、薄くない!?」
「薄いかどうか、今そこで測れない」
 明乃が冷静に言う。寿樹は「測らなくていい!」と叫び、段差に足を取られて、見事に転んだ。

 どさっ、と音がして、土埃がふわっと上がる。望愛は思わず一歩出て、寿樹の腕を掴みかけ、途中で止まった。手を出すと、転んだ痛みが自分にも移る気がした。

「だ、大丈夫……? 膝……」
「大丈夫! 俺、今、地面と仲良くなっただけ!」
 寿樹が立ち上がり、膝を見てから「仲良くなりすぎた」と顔をしかめる。明乃がポケットから絆創膏を出し、迷いなく貼った。

「蚊も頑張ってる」
「頑張らなくていい!」

 想は、門扉の隙間から郵便受けを見つけ、手を伸ばした。金属が熱で温まっていて、触ると指先がじんとした。想が一度だけ息を吐き、鍵のない蓋をそっと開ける。

 中は、空っぽ――のはずだった。
 紙の角が、奥でひっかかっている。古い封筒が一通、くしゃりと折れたまま残っていた。

「……あった」

 想が封筒を引き出す。紙は薄く、汗で濡らしたら破れてしまいそうだ。望愛は、自分の指先が勝手に震えないよう、制服の裾を握った。封筒の表に、赤いスタンプがかすれて残っている。小さないちごの形。

 差出人の欄に、印刷された文字が見えた。

 ――いちごの家。

 望愛の喉が、熱いのに乾く。夏の匂いの中に、雨の日の紙の匂いが混ざった気がした。封筒を持つ想の手が、望愛の視界に入る。強く握っていない。落とさない程度に、丁寧に支えているだけだ。

「これ、ここに残ってたってことは……」
 望愛が言いかけると、明乃が封筒の裏を指さした。宛名のところに、手書きで「○○中学校 図書室」と書いてある。字の癖が、封筒の角の丸さと一緒に、時間の長さを伝えてきた。

「届かなかったんじゃなくて、届いたけど……戻ってきたのかも」
 明乃の声は軽くない。軽くしようともしない。寿樹が珍しく、黙って頷いた。膝をさすりながら、封筒から目を離さない。

 望愛は、封筒の紙に指を近づけ、触れないまま止めた。触れたら、何かが確定してしまう気がする。確定すると、もう「分からないまま」にしておけない。

「いちごの家、今もあるのかな」

 望愛が言うと、想は封筒を少しだけ傾け、裏側の小さな住所印を見せた。今の地図に照らすと、そこは「子育て支援センター」と書かれている場所だった。

「建物は、残ってる」
「じゃあ、行ける」
 寿樹が即答し、次に小さく言い直した。
「……行っていいのかな」

 その言い直しが、望愛の胸に落ちた。行くって言葉は簡単なのに、歩く足は、自分の怖さを連れていく。

 想が封筒を望愛の前に差し出す。押しつけない距離で。
「読むのは、あとでもいい。行くだけでもいい」

 望愛は頷いた。頷きながら、胸の奥の数字に、そっと指を当てるみたいに息を吸った。
 六月十六日。その日に、誰が何を渡そうとしたのか。
 それを確かめるために、夏の道を歩くことだけは、今日できる。

 四人は、空き家の前で一度だけ振り返った。草の揺れが、誰もいない庭で小さく手を振っているみたいに見えた。

【続】