梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第8話 相合い傘の取り扱い説明書

 六月の中旬。放課後のチャイムが鳴ったのに、空はまだ明るくならない。雲が低く垂れて、校門の外の道が、薄い灰色に溶けていた。図書室で棚札を整えていた望愛は、鍵付きケースを抱えたまま靴箱へ向かう。ケースの角が、制服の脇に当たって、かすかに冷たい。

 昇降口で傘を開いた瞬間、いやな音がした。
 骨が一本、くしゃりと曲がり、布がねじれて雨を受け止められなくなる。望愛は傘を持ったまま固まって、雨粒が手首を伝うのを見ていた。

「それ、もう傘じゃないな」

 背中から、必要な分だけの声が届く。振り返ると、想が自分の傘を閉じたまま立っていた。濡れないように傘の先を下に向け、望愛の壊れた傘を一度だけ見て、すぐ手を伸ばす。

「貸して」

 言われるままに渡すと、想は骨の曲がった部分を指先で確かめ、折れた金具を外さない程度に戻そうとした。けれど、傘は頑固にねじれたまま、元の形を拒む。

 望愛は、傘の柄を握っていた手を、空中に残したままになっているのに気づいて、そっと下ろした。雨音が、さっきより大きい。

「……直る?」
「今日は無理。帰るだけなら、こう」

 想は自分の傘を開いた。黒い布の下が、雨の匂いで少し暗くなる。次に、傘を望愛のほうへ半分だけ差し出した。肩幅の境目が、きちんと計ったみたいに真ん中で止まる。

 望愛は一歩、傘の中へ入る。制服の袖が触れない距離。近いのに、ぶつからない距離。雨の世界が、傘の縁で切り取られて、二人の足音だけがはっきりする。

「……相合い傘って、こういう持ち方で合ってるのかな」

 望愛が小さく言うと、想は視線だけで傘の角度を確認し、少しだけ持ち手をずらした。雨が肩に落ちなくなる。

「濡れないなら合ってる」

 それだけ。言い切りすぎない言い方が、望愛の胸を少しだけ軽くした。

「待ってー!」

 後ろから、雨の中を走る足音がどたどた近づいてきた。寿樹が、ビニール袋を頭にかぶっている。袋の端が風でめくれ、顔の半分が見えたり消えたりしている。

「二人とも! 相合い傘するなら! 取扱説明書いる!?」
「いらない」

 即答が、右横から飛んだ。明乃だ。傘を差しながら、寿樹の袋を見て、眉がわずかに動く。次の瞬間、明乃は自分のポケットから輪ゴムを二本出し、寿樹の袋の首元をきゅっと留めた。

「これで視界、確保」
「明乃、すご……! いや、俺、元から視界あったし!」
「今のは視界じゃなくて、袋の内側見てた」

 寿樹が言い返そうとして、袋の内側をもう一度見てしまい、悔しそうに口をむぐむ。望愛は笑いそうになって、でも笑う前に、胸の奥で数字が鳴った。

 六月十六日。

 棚札の裏に書きかけて止めた数字。しおりの言葉に重なった数字。雨音が強くなるたびに、そこだけ浮き上がる。

 望愛は、傘の中の暗さに紛れるように、口を開いた。

「……六月十六日って、誰の?」

 言った瞬間、喉の奥が乾く。自分で聞いたのに、答えが怖い。望愛は前を向いたまま、靴の先だけを見た。

 想の歩幅が、ほんの少しだけ緩くなる。傘の持ち手が、望愛側へわずかに寄る。答えはすぐには出ない。それでも、想は立ち止まらなかった。

「分からない。だから確かめる」

 短い言葉が、雨より先に届いた。

 寿樹が「俺の誕生日……?」と冗談を挟もうとして、明乃の視線に飲み込まれた。代わりに寿樹は、指を折りながらぶつぶつ数える。

「六月十六日……って、もうすぐじゃん。来週?」
「今週」

 明乃が言い直す。寿樹が「今週!?」と声を裏返し、袋の中で息が曇る。

 四人は校門を出たところで足を止めた。帰り道の分かれ道。雨の線が、アスファルトの上で跳ねている。望愛は鍵付きケースを抱え直した。抱え直すたびに、守るみたいに腕に力が入る。

「学校に、昔の記録って残ってるよね」

 明乃が言いながら、靴先で水たまりを避ける。避け方が迷いなくて、いつも誰よりも雨に慣れているみたいだ。

「図書室の寄付なら、日誌。職員室か、資料室」
 想が、言葉を選ぶみたいに言う。

「じゃあ行こう。今すぐ行こう。俺、濡れても平気だから」

 寿樹が前に出て、勢いよく戻ろうとして、ぬるっと滑った。さっきまで床を拭いていた本人が、外でも滑る。明乃が「床じゃないのに」と笑い、寿樹は「雨も俺を狙ってる!」と言いかけて、明乃の眉に気づいて言い直した。

「雨も俺を……えっと、俺を……見守ってる!」

 誰も見守っていない、と言いそうになって、望愛は飲み込んだ。代わりに、寿樹の腕を支える。支えた手が温かい。傘の中の暗さが、少しだけ和らぐ。

 職員室の前で、四人は濡れた靴下のまま、スリッパに履き替えた。寿樹は袋を外し、頭から雨水をぽたぽた落とす。先生が顔を上げ、「また何か壊した?」と聞く。寿樹が即座に首を振りすぎて、首の水滴が飛ぶ。

「図書室の寄付の記録、見たいんです。六月十六日って書いてあって」
「日誌なら、資料室の棚。重いぞ」

 先生が鍵を渡してくれた。想が受け取り、明乃が「重いって言われた瞬間に、寿樹の腕が震える」と呟く。寿樹は「震えてない!」と反論しながら、自分の腕を見てしまい、やっぱり震えた。

 資料室の棚は、紙の匂いが濃い。背表紙に年度が並び、埃が雨の湿気で少しだけ固まっている。寿樹が一番大きい日誌を引き抜こうとして、腰を落としても持ち上がらない。想が無言で反対側を持ち、二人で机の上に載せた。どすん、と音がして、望愛の胸まで響いた。

「ほら、これ。六月、十六……」

 明乃がページをめくる。紙が厚く、指が少し沈む。雨音の代わりに、ページの擦れる音が部屋に広がる。望愛は息を止めて、行間の文字を追った。

 その日付のところに、短く書かれていた。
 図書室 寄付受け取り。木箱 一点。

 望愛の指先が、紙の上で止まる。言葉は少ないのに、胸の奥で数字が形になる。想が横から覗き込み、指で行をなぞる。寿樹が「木箱って、うちの木箱!?」と声を上げ、明乃が「声、資料室」と肩を押す。

 望愛は、やっと息を吐いた。
 守っていたつもりの箱が、最初から「誰かが届けたもの」だった。届けた人がいる。受け取った日がある。その日が、六月十六日。

 望愛は、日誌の文字から目を離せないまま、ぽつりと聞いた。

「……送り主って、どこに書いてある?」

 想は答えず、ページの端をめくる。次の欄に、小さく「送り主:〇〇」と続きがある気配がした。
 雨音が、扉の向こうで一段強くなった。

【続】