第7話 梅雨と雨恋の本棚
六月の雨は、同じ校舎を毎日ぬらしているのに、図書室だけは別の匂いがした。湿った紙と、乾ききらない木棚の甘さ。その混ざった匂いに、望愛は少しだけ呼吸を浅くする。
前の晩に見つけた小さな紙片は、鍵付きケースの中で静かに丸まっている。「出会いの記念日 六月十六日」。文字の筆圧が、書いた人の慌ただしさを残していた。望愛は今朝、その文字を思い出すたびに、指先が勝手に木箱の角を探してしまう。
昼休み。雨脚が強くなり、窓の外が白く煙った。寿樹はいつもどおり、雑巾とビニール袋を持って現れ、床の水たまりを見つけると、さっと膝をついた。
「今日は滑りません。昨日で学びました」
宣言する声は自信満々なのに、膝の下に敷いたビニールがきゅっと鳴っていて、すでに危うい。
想は机の端で、厚紙と紐を揃えていた。工具ではなく、文房具。望愛が驚くと、想は視線だけで棚の一角を示した。
「先生が、雨の日に読む棚を作れって言ってた」
「……雨の日に読む棚」
望愛が言い返すと、言葉が口の中で柔らかく転がった。雨は嫌いじゃない。嫌いだと言い切れない。ただ、雨と一緒に思い出が濡れてくる気がして、怖いだけだ。
「望愛が札、作る?」
明乃が、返却口の陰から顔を出す。声は軽いのに、望愛の手元を見ている目だけが真剣だった。
「……うん。作る」
望愛は頷き、ノートの切れ端を出した。いつもは「今日の自分」を書き直すページに使う紙だ。けれど今日は、誰かに見せるための紙にする。
望愛はまず、棚札の文字を丁寧に下書きした。梅雨、と書くときだけ、ペン先がわずかに止まる。止まったのは一瞬。けれど、その一瞬を、想は見逃さなかったのか、定規をそっと机に置いた。紙がずれないように、ただ重しになる位置で。
寿樹は、空いているスペースを見つけると、すぐに手を挙げた。
「俺も札書く! 字、得意だから!」
明乃が即座に首を振った。
「あなたの“得意”は、勢いが得意って意味だよね」
「え、勢いは大事! 棚札は、勢い!」
寿樹は反論しながら、太いマジックを握った。握り方がもう、看板職人のそれだ。
望愛が「梅雨と雨恋」と清書している横で、寿樹は大きく書き始めた。最初の二文字が、もう太い。
「梅雨と雨……」
そこで寿樹の眉がきゅっと寄り、次の字が迷いなく走った。
――梅雨と雨濃い。
望愛は声が出なかった。明乃が一拍遅れて文字を見つけ、肩を震わせる。
「……雨、濃いって。味の話?」
「え? 違うの? 雨、濃い日あるじゃん!」
「あるけど、棚札にしない」
明乃は腹を抱え、笑いがこぼれた音で図書室の静けさが少しだけゆるむ。寿樹は赤くなり、慌てて消しゴムでこすろうとしたが、油性マジックはびくともしない。
「ごめん、俺、濃いのほうが好きで……って何言ってんだ俺!」
望愛はようやく息を吐いて、小さく笑った。笑うと、胸の硬さが少しだけほどけるのが分かる。
「上から貼ればいい」
想が、何事もなかったように、新しい短冊を寿樹の札の上に重ねた。両面テープの角がぴたりと揃っている。寿樹は感動して、両手を合わせた。
「想、神……!」
「図書室で神って言うな」
想の声は低い。けれど、寿樹の札を否定するのではなく、直し方だけを差し出す。そのやり方に、望愛は少しだけ救われる。
棚は窓際の低い本棚に決まった。雨の日に読む本は、濡れた制服のままでも手が伸ばせる場所がいい、と明乃が言ったからだ。望愛は司書の先生に許可をもらい、貸出カードの古い箱を棚の横に置いた。そこに「雨の日のおすすめ」を入れる。
最初に並べたのは、詩集と短編集。文字が少なくて、雨音の間に読み終わる本。望愛は背表紙を指でなぞりながら、題名の硬さや柔らかさを確かめた。想は無言で、棚板の傾きを直す。寿樹は雑巾で棚の上を拭きすぎて、また木目が光った。
「見て! 雨でも反射してる!」
「反射はいいけど、滑らせないでね」
明乃が笑いながら注意し、寿樹は「了解!」と敬礼した。敬礼の勢いで、棚の上のしおりがひらひらと落ちる。望愛はそれを拾い、しおりの裏に鉛筆で小さく書かれた文字を見つけた。
鳴らない日も、誰かのために回る。
望愛の喉が、きゅっと縮んだ。文字は古く、鉛筆の芯が少し薄い。けれど「誰かのために」という部分だけ、何度もなぞった跡がある。望愛はしおりを握りしめ、木箱の冷たさを思い出す。
「……それ、いい言葉」
口に出すと、声が震えそうだった。望愛は誤魔化すように、棚札の端を整えた。
想が近づき、しおりをのぞき込む。眉がわずかに動く。明乃も寄り、寿樹は背伸びして覗いた。
「鳴らない日も、回る。……俺の扇風機みたい」
「それは掃除してないから回らないだけ」
明乃が即答し、寿樹が「今週末やる!」と胸を張る。望愛は笑いかけてから、しおりの文字をもう一度見た。
鳴らない日も。回る。
望愛の頭の中で、昨日の紙片の数字が重なった。六月十六日。出会いの記念日。数字だけなのに、そこだけ雨音が大きく聞こえる。
「望愛?」
明乃が呼ぶ。望愛は返事をしようとして、息が詰まった。視界の端で、鍵付きケースの角が見える気がする。誰も触っていないのに、そこだけ冷えているみたいだ。
望愛は棚札の裏に、鉛筆で小さく書いた。梅雨と雨恋。文字の横に、数字を書きそうになって、手が止まる。止まった手首を、想がそっと押さえた。押さえたのは強さじゃなく、紙を傷めない程度の重さ。
「無理に書かなくていい」
想の声は、雨音に紛れても届くくらい、必要な分だけはっきりしていた。
望愛は頷いた。頷いたのに、胸の奥で数字がまだ鳴っている。
六月十六日。そこだけ、反射した棚板みたいに、目立つ。
【続】
六月の雨は、同じ校舎を毎日ぬらしているのに、図書室だけは別の匂いがした。湿った紙と、乾ききらない木棚の甘さ。その混ざった匂いに、望愛は少しだけ呼吸を浅くする。
前の晩に見つけた小さな紙片は、鍵付きケースの中で静かに丸まっている。「出会いの記念日 六月十六日」。文字の筆圧が、書いた人の慌ただしさを残していた。望愛は今朝、その文字を思い出すたびに、指先が勝手に木箱の角を探してしまう。
昼休み。雨脚が強くなり、窓の外が白く煙った。寿樹はいつもどおり、雑巾とビニール袋を持って現れ、床の水たまりを見つけると、さっと膝をついた。
「今日は滑りません。昨日で学びました」
宣言する声は自信満々なのに、膝の下に敷いたビニールがきゅっと鳴っていて、すでに危うい。
想は机の端で、厚紙と紐を揃えていた。工具ではなく、文房具。望愛が驚くと、想は視線だけで棚の一角を示した。
「先生が、雨の日に読む棚を作れって言ってた」
「……雨の日に読む棚」
望愛が言い返すと、言葉が口の中で柔らかく転がった。雨は嫌いじゃない。嫌いだと言い切れない。ただ、雨と一緒に思い出が濡れてくる気がして、怖いだけだ。
「望愛が札、作る?」
明乃が、返却口の陰から顔を出す。声は軽いのに、望愛の手元を見ている目だけが真剣だった。
「……うん。作る」
望愛は頷き、ノートの切れ端を出した。いつもは「今日の自分」を書き直すページに使う紙だ。けれど今日は、誰かに見せるための紙にする。
望愛はまず、棚札の文字を丁寧に下書きした。梅雨、と書くときだけ、ペン先がわずかに止まる。止まったのは一瞬。けれど、その一瞬を、想は見逃さなかったのか、定規をそっと机に置いた。紙がずれないように、ただ重しになる位置で。
寿樹は、空いているスペースを見つけると、すぐに手を挙げた。
「俺も札書く! 字、得意だから!」
明乃が即座に首を振った。
「あなたの“得意”は、勢いが得意って意味だよね」
「え、勢いは大事! 棚札は、勢い!」
寿樹は反論しながら、太いマジックを握った。握り方がもう、看板職人のそれだ。
望愛が「梅雨と雨恋」と清書している横で、寿樹は大きく書き始めた。最初の二文字が、もう太い。
「梅雨と雨……」
そこで寿樹の眉がきゅっと寄り、次の字が迷いなく走った。
――梅雨と雨濃い。
望愛は声が出なかった。明乃が一拍遅れて文字を見つけ、肩を震わせる。
「……雨、濃いって。味の話?」
「え? 違うの? 雨、濃い日あるじゃん!」
「あるけど、棚札にしない」
明乃は腹を抱え、笑いがこぼれた音で図書室の静けさが少しだけゆるむ。寿樹は赤くなり、慌てて消しゴムでこすろうとしたが、油性マジックはびくともしない。
「ごめん、俺、濃いのほうが好きで……って何言ってんだ俺!」
望愛はようやく息を吐いて、小さく笑った。笑うと、胸の硬さが少しだけほどけるのが分かる。
「上から貼ればいい」
想が、何事もなかったように、新しい短冊を寿樹の札の上に重ねた。両面テープの角がぴたりと揃っている。寿樹は感動して、両手を合わせた。
「想、神……!」
「図書室で神って言うな」
想の声は低い。けれど、寿樹の札を否定するのではなく、直し方だけを差し出す。そのやり方に、望愛は少しだけ救われる。
棚は窓際の低い本棚に決まった。雨の日に読む本は、濡れた制服のままでも手が伸ばせる場所がいい、と明乃が言ったからだ。望愛は司書の先生に許可をもらい、貸出カードの古い箱を棚の横に置いた。そこに「雨の日のおすすめ」を入れる。
最初に並べたのは、詩集と短編集。文字が少なくて、雨音の間に読み終わる本。望愛は背表紙を指でなぞりながら、題名の硬さや柔らかさを確かめた。想は無言で、棚板の傾きを直す。寿樹は雑巾で棚の上を拭きすぎて、また木目が光った。
「見て! 雨でも反射してる!」
「反射はいいけど、滑らせないでね」
明乃が笑いながら注意し、寿樹は「了解!」と敬礼した。敬礼の勢いで、棚の上のしおりがひらひらと落ちる。望愛はそれを拾い、しおりの裏に鉛筆で小さく書かれた文字を見つけた。
鳴らない日も、誰かのために回る。
望愛の喉が、きゅっと縮んだ。文字は古く、鉛筆の芯が少し薄い。けれど「誰かのために」という部分だけ、何度もなぞった跡がある。望愛はしおりを握りしめ、木箱の冷たさを思い出す。
「……それ、いい言葉」
口に出すと、声が震えそうだった。望愛は誤魔化すように、棚札の端を整えた。
想が近づき、しおりをのぞき込む。眉がわずかに動く。明乃も寄り、寿樹は背伸びして覗いた。
「鳴らない日も、回る。……俺の扇風機みたい」
「それは掃除してないから回らないだけ」
明乃が即答し、寿樹が「今週末やる!」と胸を張る。望愛は笑いかけてから、しおりの文字をもう一度見た。
鳴らない日も。回る。
望愛の頭の中で、昨日の紙片の数字が重なった。六月十六日。出会いの記念日。数字だけなのに、そこだけ雨音が大きく聞こえる。
「望愛?」
明乃が呼ぶ。望愛は返事をしようとして、息が詰まった。視界の端で、鍵付きケースの角が見える気がする。誰も触っていないのに、そこだけ冷えているみたいだ。
望愛は棚札の裏に、鉛筆で小さく書いた。梅雨と雨恋。文字の横に、数字を書きそうになって、手が止まる。止まった手首を、想がそっと押さえた。押さえたのは強さじゃなく、紙を傷めない程度の重さ。
「無理に書かなくていい」
想の声は、雨音に紛れても届くくらい、必要な分だけはっきりしていた。
望愛は頷いた。頷いたのに、胸の奥で数字がまだ鳴っている。
六月十六日。そこだけ、反射した棚板みたいに、目立つ。
【続】


