梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第6話 分解しないと決めた人が、分解する夜

 その日の放課後、雨はやむ気配を見せなかった。窓の外の灰色が、校舎の廊下まで染み込んでいる。図書室の鍵付きケースは、想が昼休みに取り付けたばかりなのに、もう前からそこにあったみたいに馴染んでいた。

 望愛がカウンターの内側で返却本を並べていると、想が一枚の紙を差し出した。四角いマス目のある理科ノート。そこに細い線で、木箱の裏面が描かれている。ネジの位置が、星座みたいに点で打たれていた。

「今夜、少しだけ開ける」
 想は、声を小さくして言った。断言というより、決めたことを机に置くみたいな言い方だった。

「分解しないって……言ってたよね」
 望愛は、紙を受け取りながら眉を寄せた。昨日までの望愛なら、そこでもう話を終わらせていた。けれど、今日は言葉が続いた。
「壊れたら、もう……」

 想はケースの錠前に指を置き、鍵穴を見たまま答えた。
「壊さない。壊さないために開ける。……最小限」

 その「最小限」が、望愛にはまだ怖い。それでも、想が工具を握る手が震えていないことが、怖さの中に細い足場を作ってくれる気がした。

 理科室は、雨の日の匂いが濃い。薬品棚のアルコールと、湿った木の床の匂いが混ざって、鼻の奥が少しつんとする。寿樹は、黒板の前でチョークを持ち、真面目な顔で図を描き始めた。

「えーっと、ここがゼンマイで……ここが、えっと、シュート決めるやつ!」
「それ、歯車」
 明乃が即座に訂正する。寿樹の図は、いつの間にか丸が並んでいて、矢印が何本も引かれていた。サッカーの作戦ボードみたいだった。

「違う! ここがフォワードで、ここが守備……」
「守備はあなた。だって雑巾で守ってる」
「俺、ディフェンダーだったのか……!」
 寿樹が妙に納得して頷くと、明乃が「そこだけ納得するんだ」と笑った。笑い声が、雨音に負けずに理科室に残る。望愛は、その軽さに救われる自分を、少しだけ許した。

 想は机の上に、柔らかい布を敷いた。ケースから木箱を取り出すときの手つきは、濡れた紙を乾かすときみたいに慎重だ。小さなドライバーで、裏面のネジを一本ずつ緩める。金属が擦れる音が、雨の「しとしと」に重なって、耳にひっかかる。

 望愛は、椅子に座ったまま、指先を膝の上で握った。見ていられないのに、目を逸らすのも怖い。壊れたら、と考えると喉が乾く。でも、想の指先は、壊す指先ではない。そこにあるのは、壊れない形を探す動きだった。

「望愛、見なくていい」
 想が言った。視線は木箱に落ちたまま。

「……見たい」
 望愛は、自分でも驚くほどはっきり言えた。声が揺れない。その代わり、胸の内側がゆっくり痛んだ。

 裏板が、ほんの少し持ち上がる。想は一度止まって、息を整えるみたいに指を離した。寿樹のチョークが止まり、明乃も口を閉じた。雨音だけが、しばらく四人の間を通り過ぎる。

「部品、足りない」
 想が静かに言った。内側を覗き込み、指先で空いた部分を示す。
「板バネ。ここに、本来は……」

 望愛は、覗き込む勇気が出なくて、机の端を見つめた。机の木目が、川の流れみたいに見える。目を上げれば現実に戻らなきゃいけない気がした。

「ねえ、望愛」
 明乃が、椅子の背に肘を乗せたまま言う。
「怖いときって、手が止まる。止まるなら、別の手を動かすといいよ」
 明乃は、望愛のノートを顎で示した。図書室でいつも書いている、あの小さなノート。

 望愛は鞄からノートを取り出し、鉛筆を握った。ページを開くと、紙の手触りがいつもより頼りなく感じる。雨の日は、紙まで湿っている気がする。

 理科室の机の端で、望愛はゆっくり書き始めた。今日の自分。今日の怖さ。書き直せることと、書き直せないこと。その境目を、言葉の線でなぞる。

 鉛筆の先が、最後の一文字をつくる。
「失うことが怖かった」

 その瞬間、雨音が途切れた。誰かが蛇口を閉めたみたいに、外の世界が急に静かになる。窓の外を見なくても分かる。雨が止んだのだ、と。

 望愛の肩の力が、少しだけ抜けた。抜けた隙間に、温かいものが流れ込む前に、想の声がした。

「……これ」
 想が、指先で小さな紙をつまんでいた。木箱の内側の隙間に挟まっていたらしい。紙は薄く、角が丸まっている。何度も開かれたことのある折り目が、細い線で残っていた。

 望愛は、紙を受け取る手が震えそうになって、いったん握り拳にした。深呼吸を一つしてから、そっと受け取る。紙は冷たくない。意外なほど、体温に馴染む。

 折り目をほどくと、かすれた鉛筆の文字が出てきた。子どもの字だ。大きく、でも急いで書いたような走り書き。

「出会いの記念日 六月十六日」

 望愛の視界が、一瞬だけ白くなる。声が喉の奥で止まり、代わりに心臓が強く打った。自分の中のどこかが、その数字だけに反応してしまう。

 寿樹が顔を覗き込む。
「え、なになに? 記念日? 誰の? 俺の誕生日じゃないよな?」
「あなたの誕生日は、たぶん毎日」
 明乃が言うと、寿樹は「祝われすぎだろ」と笑った。けれど、笑い声の奥で、望愛は紙から目を離せなかった。

 想は、裏板を元に戻す手を止め、望愛の表情だけを見た。何かを聞こうとして、やめたみたいに、口を一度閉じる。

 望愛は紙を胸の前に押さえた。止んだ雨の静けさが、理科室に入り込んでくる。静かなのに、怖くない。怖さの形が、少しだけ言葉になったからだ。

 望愛は、まだ言えない理由を抱えたまま、紙の文字をもう一度なぞった。
 六月十六日。出会いの記念日。

 それが誰の出会いなのか、望愛の答えはまだ出ていない。
 けれど、答えがある場所が、木箱の内側ではなく、自分の中にあることだけは分かってしまった。
【続】