梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第5話 捨てるか残すか、図書室の攻防

 週明けの朝。昇降口のマットに、まだ乾ききらない泥の跡が点々と残っていた。梅雨は休みなく、校舎の空気まで水を含んでいるみたいで、廊下を歩くたびに靴の裏がぺた、と鳴る。

 望愛は早めに登校して、図書室の鍵を借りに職員室へ寄った。昨日の封筒の文字が、目を閉じると浮かぶ。いちごの家。紙の上の印刷なのに、胸の奥にだけ熱が残っている。
 その熱を見せないように、望愛は口角を少しだけ上げて、「おはようございます」と言った。

「図書室、今日ちょっと整理するって言ったよね」
 担任の先生が、書類の山から顔を上げた。
「古い備品、今週で処分。リスト、後で確認して。勝手に残すのはなし。分かった?」

 望愛は「はい」と返してから、返事の音が自分の耳に遅れて届くのを感じた。勝手に残すのはなし。昨日までなら、ただの指示だったはずなのに、今日はその言葉が、木箱の角に引っかかって離れない。

 図書室に入ると、雨の匂いが一段濃くなった。窓の外は白く霞み、グラウンドの水たまりが小さな鏡みたいに揺れている。
 カウンターの下、新聞紙で包んだ木箱と封筒が、昨夜のまま置いてあった。望愛は反射的に抱え上げ、棚の影へ滑り込ませようとする。自分でも、動きが早すぎると分かるのに、止められない。

「おはよ。今日も床、勝負だな」
 寿樹が雑巾を握って入ってきた。昨日の滑りは反省したらしく、歩幅が妙に小さい。
「……床と戦わないで」
 望愛が言うと、寿樹は真面目に頷いた。
「了解。今日は棚と戦う。ぐらぐらしてる棚、俺が直す」

 寿樹は、返事を待たずに棚の背板へ手を伸ばした。棚は確かに少し傾いている。けれど、寿樹の直し方は「とりあえず全部外してみる」に近かった。
 ネジが一本、床に転がる。次に板がずれる。最後に――

 どさっ。

 本が、雪みたいに落ちた。

「うわっ、ほんゆき!」
 寿樹が叫び、両腕で受け止めようとして、逆に自分の顔を本で隠した。表紙に当たった紙の角が頬に当たって、「いたっ」と情けない声が漏れる。
 明乃が入口で傘を畳みながら、ため息と笑いの間みたいな息を吐いた。
「寿樹、棚は直したいんだよね。本を散らかしたいわけじゃないよね」
「ちがう! 棚が俺に来た!」
「棚は歩かない」
 明乃の突っ込みが落ち着いていて、寿樹は「確かに」と納得してしまう。

 想は遅れて入ってきた。濡れた靴底を入口のマットで二回こすり、床に足跡を残さない。落ちた本を見て、眉だけが一ミリ動く。
「……雪崩?」
「ほんゆき! 俺が止めた! 止め切れなかった!」
 寿樹が胸を張ると、想は本を拾いながら短く言った。
「止めたなら、次は戻す」

 四人で本を戻し始めると、図書室の空気が少しずつ落ち着いていった。紙が擦れる音、背表紙を並べる音。雨音に混ざる、手の仕事の音。
 望愛は本を戻しながら、カウンターの下を何度も確認してしまう。木箱と封筒は、見えない場所にあるはずなのに、見られたら終わる気がして、背中がひりひりする。

「望愛、さっきから、同じ棚ばっか見てる」
 明乃が、背表紙を揃えながら言った。
 望愛は笑ってごまかそうとして、口が乾いて音が出なかった。代わりに「なんでもない」と言いかけて、途中で飲み込む。飲み込むと、胸の奥で言葉が重くなる。

 そのとき、廊下から先生の声が聞こえた。
「図書委員、備品リスト見た? 今日は古い箱とか、回収の人が来るからね」

 望愛の指先が、背表紙の文字をなぞったまま止まった。先生の足音が近づく。雨の靴音が、図書室の入口に届く。
 望愛は本を落とさないように、そっと置き、カウンターの陰に体を寄せた。棚の影に隠した木箱を、抱きしめたい衝動が喉まで上がってくる。

 先生が入口に顔を出した。
「今日は片づけ、進んでるね。……ん? あの段ボール、空?」
 先生の視線が、棚の陰へ向きかける。

「捨てないでください」
 望愛の声が、思ったより大きく出た。自分でも驚いて、肩が跳ねる。
 先生が目を丸くした。
「え、何を?」
 望愛は言葉を探した。理由を言えば、戻れない気がする。言わなければ、木箱は運ばれる。頭の中で、二つの恐怖が同時に鳴って、どちらの音も大きい。

 望愛は、腰を折った。頭を下げると、視界が床の木目だけになる。床は、寿樹が磨きすぎないように気をつけたせいか、今日は変に光っていない。
「……捨てないで、ください。お願いします」
 それだけ言って、望愛は顔を上げられなかった。

 空気が固まる前に、寿樹が口を挟んだ。
「先生! あの箱、まだ“確認前”です! 俺が……俺が棚でほんゆき起こしたせいで、確認が遅れてます!」
「棚で、何?」
 先生が眉を寄せる。寿樹は説明に詰まり、明乃が助け舟を出した。
「寿樹が棚に勝とうとして負けたので、本が落ちました。以上です」
「以上って……」

 先生が苦笑した瞬間、想がカウンターの下から、細長いケースを取り出した。透明ではなく、灰色の硬い樹脂でできた箱。側面に小さな錠前が付いている。理科室の器具を入れる箱みたいな形だった。
 想は先生の前に置き、鍵を一つだけ音を立てずに添えた。

「保管します。鍵は先生が持ってていい」
 想はそう言って、ケースの蓋を開けた。中に柔らかい布が敷いてある。濡れた紙を守るときの手つきで、望愛が隠していた木箱と封筒を、そこへ収めた。
 望愛の喉の奥が、熱くなる。隠すのではなく、壊れない形にする。誰かに奪われないようにするのではなく、誰かの目の前で守る。望愛が今まで知らなかった守り方だった。

 先生はケースと望愛を交互に見て、息をついた。
「……分かった。今週の処分リストからは外す。代わりに、図書委員の管理ってことで記録する。勝手に持ち帰ったりしないこと」
「はい」
 望愛は、ようやく顔を上げた。先生の目が、責める色ではなく、様子を見る色になっているのが分かる。

 寿樹が小声で「勝った?」と想に訊くと、想はケースの錠前を確かめながら答えた。
「勝ちじゃない。……守れた」
 明乃が「ほら、言い方」と笑うと、寿樹は頷き、雑巾を握り直した。
「じゃあ俺、床じゃなくて、記録と戦う。先生の記録係、俺に任せて」
「任せない」
 明乃の即答に、望愛の口から、ようやく小さな笑いが漏れた。

 ケースの中で、鳴らないオルゴールは静かに眠っていた。望愛は、その静けさが怖くなくなっていることに気づき、指先をそっと膝の上で握り直した。
【続】