第4話 明乃のひと言、当たりすぎ問題
土曜の午後。商店街のアーケードを出た瞬間、雨粒がいっせいに肩へ落ちてきた。屋根の外は、別の世界みたいに色が薄い。濡れた車道に街灯がにじみ、点々とした光が、足元で小さな星のように揺れている。
望愛は、リュックの中の木箱が動かないよう、両腕で抱える癖が抜けなかった。さっき店主から聞いた「寄付」の言葉が、耳の内側でまだ鳴っている。鳴らないはずのオルゴールなのに、言葉だけがぐるぐる回り続ける。
「傘、もう一本出す?」
想が、手元の傘を少しだけ外側へ傾けた。自分が濡れるぶんを計算に入れている動きだった。望愛は首を横に振ろうとして、途中で止める。雨に濡れた空気を吸うと、胸の奥のざらつきが、また戻ってくる気がした。
「望愛、雨の日の話が出ると、手が固まる」
明乃の声は、雨音に負けないくらい小さかった。けれど、短い刃物みたいに、すっと入ってくる。望愛は笑って受け流す準備をしたのに、その笑いが、喉の途中でつかえた。
「え、固まる? 俺も固まってる!?」
寿樹が急に立ち止まり、自分の両手を見下ろした。指を一本ずつ動かしてみて、焦っている。
「やばい、動かない。……いや動く。動くけど、なんか俺、今、雨に敗北してる」
「敗北の確認、そこ?」
明乃が片眉をわずかに上げる。寿樹は胸ポケットを探り始めた。
「待って。こういうとき、鏡が必要なんだよ。固まってる顔してないかチェック……」
「鏡は、いらない」
明乃が即答した。想は何も言わないまま、寿樹のポケットから落ちかけた折りたたみ定規を拾い、そっと戻した。寿樹はそれに気づかず、鏡を探す旅を続けている。
望愛は、笑ってしまえば軽くなると分かっている。分かっているのに、指先が木箱の角から離れない。木の感触が、今の自分をつなぎとめる綱みたいで、手放したら雨の中へ溶けてしまいそうだった。
「固まってないよ」
望愛は、できるだけ明るい声を出した。口の端を上げ、いつものようにノートのページをめくる気分で、言葉を整える。
「私、ただ……濡れるのが嫌なだけ」
「濡れるのが嫌で、木箱は抱え込むんだ」
明乃は言い切らず、事実だけ並べる。望愛の腕の力がほんの少しだけ強くなるのを、明乃は見ていた。
交差点の信号が青になり、四人は歩き出した。濡れた横断歩道は白線が光り、靴裏がきゅっと鳴る。寿樹は大きめの水たまりを見つけるたび、望愛の前へ回り込んで避けさせようとして、逆に自分が踏む。
「俺、身代わり担当」
「担当、増やさなくていい」
明乃が言い、寿樹は「じゃあ兼任で」と意味不明な返事をした。望愛は小さく笑った。笑ったのに、胸の奥の固いものは、ほどけない。
学校の門が見えたころ、雨が少しだけ細くなった。雨が弱くなっても、望愛の手はほどけない。想が横に並び、傘の柄を持つ手を持ち替えた。空いた手で、望愛のリュックの肩紐を軽く引き、木箱の位置を安定させる。
「落とさないように」
それだけ言って、すぐ手を引っ込める。触れたのは肩紐だけなのに、望愛の呼吸が一拍遅れた。
図書室に戻ると、窓の外は灰色のままだった。明乃が先に電気をつけ、寿樹は「俺、乾燥担当!」と宣言して、カウンターから古いタオルを探し始める。想は新聞紙を広げ、木箱をそっと置く場所を作った。
「雨、持ち込まない」
想が短く言うと、寿樹は濡れた靴底を慌ててタオルで拭いた。
「俺、雨、連れてきてない。たぶん」
望愛は木箱を抱えたまま、新聞紙の上に置けずにいた。置いたら終わる気がする。何が終わるのかは分からない。分からないから、余計に怖い。
明乃が、望愛の手元を見て、机の端に置かれた文鎮をひょいと取った。新聞紙が風でめくれないよう、四隅を押さえる。無駄のない動きで、望愛の視界から「ふわふわする不安」を一つだけ消した。
「置いていい。滑らないようにした」
望愛は、ゆっくり腕をほどいた。木箱が新聞紙に触れた瞬間、木の底が「とん」と小さく鳴った。望愛はその音に、なぜか胸がきゅっと縮む。寿樹はすぐにタオルで拭き始め、拭きすぎてまた光らせそうな勢いだった。
「ちょ、寿樹。磨きすぎると、また君が負ける」
明乃が言うと、寿樹はタオルを止め、真顔で頷いた。
「了解。今日は負けない。……勝ちって何?」
想は蓋の隙間を覗き、挟まっていた紙片を、湿らせないようピンセットで引き抜いた。前に見た「梅雨と雨恋」の文字。インクが少し滲んで、線が柔らかくなっている。
「これ、紙片じゃない」
想が言い、明乃が覗き込む。紙の端が、折り目に沿って揃っていた。
明乃は指先で紙の厚みを確かめ、木箱の内側を軽く叩いた。コツ、と音が違う場所が一か所だけある。寿樹がすかさず言った。
「隠し部屋! 宝箱っぽい!」
明乃は寿樹の口を手で塞がず、ただ視線だけで静かにさせた。寿樹は「すみません」と小声で謝り、タオルを握り直す。
想が底板の端をそっと持ち上げると、薄い封筒が出てきた。紙は古く、角が丸くなっている。封はすでに開いていて、何度も開け閉めされた跡がある。望愛の喉が、乾いた。
封筒の表に、滲んだ赤いスタンプが押してあった。雨粒の跡みたいにぼやけているのに、形だけは分かる。小さないちご。
「……いちご?」
寿樹が言いかけて、明乃が封筒の左上を指さした。そこに、施設名が印刷されていた。
――いちごの家。
望愛は、声が出なかった。紙の上の文字が、他人のものみたいに見えるのに、胸の奥が勝手に反応して熱くなる。笑いでごまかす準備をしていた口が、今度はきゅっと閉じたまま開かない。
想が封筒を机に置き、望愛の前へそっと滑らせた。押しつけない距離で。
「読む?」
望愛は頷きかけて、途中で手が止まる。止まった指先が、また木箱の角を探していた。
明乃が、雨音のほうへ目を向けた。
「当たりすぎで、ごめん。……でも、当たったままにしておくと、もっと固まる」
望愛は息を吸い、吐いた。封筒の文字を、もう一度だけ見た。いちごの家。そこに続く、薄い日付の跡。六月十六日、と読める気がした。
望愛は、木箱から手を離した。代わりに、封筒の端を、指先でそっと挟んだ。
【続】
土曜の午後。商店街のアーケードを出た瞬間、雨粒がいっせいに肩へ落ちてきた。屋根の外は、別の世界みたいに色が薄い。濡れた車道に街灯がにじみ、点々とした光が、足元で小さな星のように揺れている。
望愛は、リュックの中の木箱が動かないよう、両腕で抱える癖が抜けなかった。さっき店主から聞いた「寄付」の言葉が、耳の内側でまだ鳴っている。鳴らないはずのオルゴールなのに、言葉だけがぐるぐる回り続ける。
「傘、もう一本出す?」
想が、手元の傘を少しだけ外側へ傾けた。自分が濡れるぶんを計算に入れている動きだった。望愛は首を横に振ろうとして、途中で止める。雨に濡れた空気を吸うと、胸の奥のざらつきが、また戻ってくる気がした。
「望愛、雨の日の話が出ると、手が固まる」
明乃の声は、雨音に負けないくらい小さかった。けれど、短い刃物みたいに、すっと入ってくる。望愛は笑って受け流す準備をしたのに、その笑いが、喉の途中でつかえた。
「え、固まる? 俺も固まってる!?」
寿樹が急に立ち止まり、自分の両手を見下ろした。指を一本ずつ動かしてみて、焦っている。
「やばい、動かない。……いや動く。動くけど、なんか俺、今、雨に敗北してる」
「敗北の確認、そこ?」
明乃が片眉をわずかに上げる。寿樹は胸ポケットを探り始めた。
「待って。こういうとき、鏡が必要なんだよ。固まってる顔してないかチェック……」
「鏡は、いらない」
明乃が即答した。想は何も言わないまま、寿樹のポケットから落ちかけた折りたたみ定規を拾い、そっと戻した。寿樹はそれに気づかず、鏡を探す旅を続けている。
望愛は、笑ってしまえば軽くなると分かっている。分かっているのに、指先が木箱の角から離れない。木の感触が、今の自分をつなぎとめる綱みたいで、手放したら雨の中へ溶けてしまいそうだった。
「固まってないよ」
望愛は、できるだけ明るい声を出した。口の端を上げ、いつものようにノートのページをめくる気分で、言葉を整える。
「私、ただ……濡れるのが嫌なだけ」
「濡れるのが嫌で、木箱は抱え込むんだ」
明乃は言い切らず、事実だけ並べる。望愛の腕の力がほんの少しだけ強くなるのを、明乃は見ていた。
交差点の信号が青になり、四人は歩き出した。濡れた横断歩道は白線が光り、靴裏がきゅっと鳴る。寿樹は大きめの水たまりを見つけるたび、望愛の前へ回り込んで避けさせようとして、逆に自分が踏む。
「俺、身代わり担当」
「担当、増やさなくていい」
明乃が言い、寿樹は「じゃあ兼任で」と意味不明な返事をした。望愛は小さく笑った。笑ったのに、胸の奥の固いものは、ほどけない。
学校の門が見えたころ、雨が少しだけ細くなった。雨が弱くなっても、望愛の手はほどけない。想が横に並び、傘の柄を持つ手を持ち替えた。空いた手で、望愛のリュックの肩紐を軽く引き、木箱の位置を安定させる。
「落とさないように」
それだけ言って、すぐ手を引っ込める。触れたのは肩紐だけなのに、望愛の呼吸が一拍遅れた。
図書室に戻ると、窓の外は灰色のままだった。明乃が先に電気をつけ、寿樹は「俺、乾燥担当!」と宣言して、カウンターから古いタオルを探し始める。想は新聞紙を広げ、木箱をそっと置く場所を作った。
「雨、持ち込まない」
想が短く言うと、寿樹は濡れた靴底を慌ててタオルで拭いた。
「俺、雨、連れてきてない。たぶん」
望愛は木箱を抱えたまま、新聞紙の上に置けずにいた。置いたら終わる気がする。何が終わるのかは分からない。分からないから、余計に怖い。
明乃が、望愛の手元を見て、机の端に置かれた文鎮をひょいと取った。新聞紙が風でめくれないよう、四隅を押さえる。無駄のない動きで、望愛の視界から「ふわふわする不安」を一つだけ消した。
「置いていい。滑らないようにした」
望愛は、ゆっくり腕をほどいた。木箱が新聞紙に触れた瞬間、木の底が「とん」と小さく鳴った。望愛はその音に、なぜか胸がきゅっと縮む。寿樹はすぐにタオルで拭き始め、拭きすぎてまた光らせそうな勢いだった。
「ちょ、寿樹。磨きすぎると、また君が負ける」
明乃が言うと、寿樹はタオルを止め、真顔で頷いた。
「了解。今日は負けない。……勝ちって何?」
想は蓋の隙間を覗き、挟まっていた紙片を、湿らせないようピンセットで引き抜いた。前に見た「梅雨と雨恋」の文字。インクが少し滲んで、線が柔らかくなっている。
「これ、紙片じゃない」
想が言い、明乃が覗き込む。紙の端が、折り目に沿って揃っていた。
明乃は指先で紙の厚みを確かめ、木箱の内側を軽く叩いた。コツ、と音が違う場所が一か所だけある。寿樹がすかさず言った。
「隠し部屋! 宝箱っぽい!」
明乃は寿樹の口を手で塞がず、ただ視線だけで静かにさせた。寿樹は「すみません」と小声で謝り、タオルを握り直す。
想が底板の端をそっと持ち上げると、薄い封筒が出てきた。紙は古く、角が丸くなっている。封はすでに開いていて、何度も開け閉めされた跡がある。望愛の喉が、乾いた。
封筒の表に、滲んだ赤いスタンプが押してあった。雨粒の跡みたいにぼやけているのに、形だけは分かる。小さないちご。
「……いちご?」
寿樹が言いかけて、明乃が封筒の左上を指さした。そこに、施設名が印刷されていた。
――いちごの家。
望愛は、声が出なかった。紙の上の文字が、他人のものみたいに見えるのに、胸の奥が勝手に反応して熱くなる。笑いでごまかす準備をしていた口が、今度はきゅっと閉じたまま開かない。
想が封筒を机に置き、望愛の前へそっと滑らせた。押しつけない距離で。
「読む?」
望愛は頷きかけて、途中で手が止まる。止まった指先が、また木箱の角を探していた。
明乃が、雨音のほうへ目を向けた。
「当たりすぎで、ごめん。……でも、当たったままにしておくと、もっと固まる」
望愛は息を吸い、吐いた。封筒の文字を、もう一度だけ見た。いちごの家。そこに続く、薄い日付の跡。六月十六日、と読める気がした。
望愛は、木箱から手を離した。代わりに、封筒の端を、指先でそっと挟んだ。
【続】


