梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第3話 商店街、傘の骨、口に出せないお願い

 土曜の午前。雨は小降りになったり、急に強くなったりを繰り返して、空が「今日はやめない」と決めているみたいだった。
 校門の前で四人が落ち合うと、寿樹はビニール袋を両手に提げていた。片方から、傘の骨が飛び出している。

「それ、なに」
 明乃が袋の先を指でつまみ、顔だけしかめた。
「傘の骨。昨日、家で折れたやつ。あとこれ、道で拾ったやつ」
「拾ったの!?」
「落ちてたんだって。かわいそうだろ」
 寿樹は真剣に言い、望愛は笑うか迷って口元を手で隠した。

 想は木箱をリュックの奥に入れたまま、雨粒を見て傘を開いた。黒い傘の下に、望愛が一歩入る。ふたりの肩が少しだけ近づき、次の瞬間、寿樹が大きく傘を振ったせいで、水しぶきが飛んだ。

「ごめん! 俺、今、水の気持ちになってた!」
「水の気持ちは、こっちが困る」
 明乃が淡々と返し、寿樹は「はい」と背筋を伸ばした。

 商店街のアーケードは雨を弾き、足元の石畳は濡れて黒く光っていた。揚げたてのコロッケの匂いが漂い、傘の布の湿り気と混ざって、腹の奥が反射的に鳴る。
 望愛は、胸の前でリュックのベルトを握り直した。木箱の重さが背中にあるだけで、呼吸が少し浅くなる。けれど今日は、行き先がはっきりしている。

 店の看板は小さく、古い文字が雨で滲みかけていた。
『岸本時計店』
 ガラス戸の内側から、細い「チク、チク」という音が聞こえる。望愛はその音に、勝手に安心してしまう自分を見つけた。一定のリズムは、迷子を連れて行かない。

 ドアベルが「からん」と鳴り、暖かい空気と金属の匂いが流れてきた。壁に掛けられた振り子時計が何台も揺れ、丸い目でこちらを見ているように感じる。
 カウンターの奥から、白いシャツの袖をまくった店主が顔を出した。髪は薄いが、目はよく動く。

「いらっしゃい。……ん? 中学生か」
 想が一歩前に出て、リュックから新聞紙に包んだ木箱を取り出した。店主の視線が、箱の角の欠けたところに止まる。
 想は言葉を飾らず、状況だけを置くみたいに話した。
「図書室で見つけました。刻印がここに。鳴りません。直せますか」

 店主は「見せて」と手を出し、箱を受け取ると、指先で蓋の金具を軽く押した。力を入れずに、確かめる。
 寿樹が横から身を乗り出す。
「あと、傘も直せます? 骨が――」
「ここは時計だ」
 店主が即答した。
 寿樹の動きが止まり、袋の傘の骨が、間の悪い拍子で「かしゃ」と鳴った。

 明乃が口元を押さえた。
「傘の骨も、チクチク言うなら時計扱いしてもらえるかも」
「言わないよ!」
 寿樹が小声で反論し、店主は苦笑いを浮かべた。

 店主はカウンターの明かりの下で、木箱の内側を覗き込んだ。工具箱を開け、細いピンセットで錆びた部品をそっと動かす。
 望愛はその手元から目を離せない。乱暴に扱われないことが、こんなに落ち着くなんて知らなかった。木箱が、少しだけ息をしているように見える。

「……これ、オルゴールか。古いな。ゼンマイは生きてるが……」
 店主は眼鏡を上げ、想と望愛を交互に見た。
「板バネが欠けとる。薄い金属のバネだ。これがないと、爪が引っかからん。回しても空回りする」

 想がうなずく。
「板バネ。作れますか」
「今の材料じゃ硬さが合わん。下手に作ると、歯車を削る。……昔の型のやつが要る」
 店主は引き出しから古いカタログを出し、指で紙をめくった。ページの端が茶色い。
「廃番だな。問屋に頼む。……時間がかかるぞ」

 寿樹が口を開きかけ、すぐ閉じた。明乃が代わりに聞く。
「どのくらい」
「順調なら、冬。年を越すかもしれん」
 店主はさらりと言ったが、望愛の胸の奥が「すとん」と落ちた。冬。遠い。雨より遠い。

 店主が木箱の底をひっくり返し、刻印を確かめた。
「岸本、って焼いてあるな。うちの刻印だ。……昔、商店街で、寄付用にまとめて出したことがある。施設の子どもたちに、って」
 その言葉で、望愛の指先が無意識に、リュックの肩紐を強く握った。強く握りすぎて、爪が食い込む。
 店主は続ける。
「梅雨どきだったか。雨の日は、箱の木が湿って音が狂うから、ひとつひとつ調整して――」

 望愛は、店主の口の動きだけが遠くに見えた。施設。寄付。雨の日。言葉が胸の中でばらばらに散って、拾えない。
 想が望愛のほうへ少しだけ体を向け、傘の柄を握る手を持ち替えた。声は大きくない。
「無理に話さなくていい。今日は、直すための話だけでいい」

 望愛は、息を吐いた。自分の中で、何かが「戻らない」と決めつけていた場所に、別の選択肢が置かれた気がした。
 明乃が、店主の手元を見ながら言う。
「冬まで待つなら、その間、うちで預かる? ……望愛が抱えたままだと、肩こる」
「こる! 俺、肩、揉む!」
 寿樹が勢いよく言い、明乃が即座に言葉を切った。
「揉まない。寿樹は骨を拾わない」

 店主が笑い、紙に何かを書いた。
「取り寄せを頼むなら、名前と連絡先が要る。学校か、保護者か」
 想は迷わず、学校名と担当の先生の名前を告げた。望愛は横で聞きながら、想の声の落ち着きに、また呼吸を合わせる。

 記入を終えると、店主は木箱を新聞紙で丁寧に包み直し、カウンターの上に置いた。
「部品が来たら連絡する。それまで、箱は持って帰れ。湿気を避けろ。……乾かしすぎもだめだ。生き物みたいなもんだ」
 望愛は「はい」と答え、新聞紙の上からそっと触れた。冷たいはずの箱が、今日は少しだけ温かく感じる。

 店を出ると、雨はまた細くなっていた。アーケードの外に出る手前で、寿樹が袋の傘の骨を見つめ、ため息をついた。
「骨だけは……置いていけないよな」
「置いていってもいいよ。拾ったんだし」
 明乃が真顔で言い、寿樹は「うぐ」と喉を鳴らす。望愛は思わず笑ってしまい、笑った自分に驚いた。

 笑い声のあと、望愛は小さくつぶやいた。
「冬まで……待てるかな」
 想が傘を少しだけ寄せて、雨粒の音を間に落とした。
「待てる。待つって決めたら、待てる。……来たら、鳴らそう」
 その「来たら」が、部品のことだけを指しているのか、望愛には分からなかった。分からないまま、頷いた。

 四人は、濡れた石畳の上を歩き出した。木箱は望愛の背中で静かに揺れ、商店街の時計の音が、遠くでチクチクと追いかけてきた。
【続】