第20話 六月十六日、次の雨へ
旋律は、雨の音に負けなかった。
窓ガラスを伝う雫が、ひとつ落ちるたびに小さく光って、面会スペースの白い床に淡い影を作る。さっきまで重たく見えた灰色の空が、今は薄いレースみたいにやわらかい。
最初に動いたのは、さっき「ほな」と笑っていた男の子の指だった。
膝の上で、指先がそっと拍を刻む。次の子が真似をして、もう一人が真似をする。点滴の管が揺れないように気をつけながら、手拍子はだんだん揃っていった。
「この曲、なまえある?」
女の子が、頬に貼った小さな絆創膏を指で押さえながら訊いた。
望愛は、箱の蓋に視線を落とした。梅雨の図書室で見つけた紙片の文字が、ふいに胸の中でほどける。
「……『梅雨と雨恋』って、書いてあった」
「雨こい? 雨、こいこい?」
男の子が笑って、手拍子が少し速くなる。
「雨こいって言うと、雨が来るの?」
「今日は、もう来てる」
明乃が窓を指さすと、子どもたちが一斉に外を見て、「ほんとだ」と声を揃えた。
寿樹は、笑いながら首の後ろをこすった。さっきまでの赤い顔が、今は別の赤さに変わっている。
「……やばい。俺、また、目から水……」
「泣くと思った」
明乃が、何事もないみたいにポケットからハンカチを二枚出した。
「二枚!?」
「一枚はあなた用。もう一枚は、次に泣く人用」
明乃の視線が、望愛のほうへふわりと来て、すぐに外れた。
寿樹が驚きながらハンカチを受け取り、鼻をすすって子どもたちに頭を下げる。
「……ごめん。俺、泣くの、うるさいかも」
「うるさくないよ。おもしろい」
男の子が即答し、面会スペースに笑いが弾けた。
望愛は、オルゴールの音を聴きながら、自分の手のひらを見た。
去年は、この冷たさを握りしめて、なくならないように、隠すみたいに抱えていた。今日は違う。ここに置いていく、と言ったのは、投げ捨てるためじゃない。誰かが触れられる場所にするためだ。
看護師の佐伯さんが、そっと膝をつき、箱に顔を近づけた。
「……きれいな音。来てくれて、ありがとうございます」
佐伯さんの声は小さいのに、望愛の胸の奥まで届いた。
窓際の椅子に座っていた小さな子が、手拍子を止めて、箱を見つめた。髪は短く、耳の後ろが少し見える。望愛は、その横顔に、どこか覚えのある静けさを見た。
名前を聞く代わりに、望愛は箱の横へ、紙を一枚添えた。図書室のノートから切り取った、端の揃った紙。
ペン先が震えないように、想が机の角にそっと手を添える。望愛は短い言葉だけを書いた。
『六月十六日 雨の日 ここで鳴った』
書き終えると、望愛は紙を折り、蓋の内側へ差し込んだ。大事なものを隠すみたいにではなく、次の人が見つけやすい場所へ置くみたいに。
「これ、ここに置いていっていい?」
望愛が佐伯さんへ尋ねると、佐伯さんは頷いた。
「ええ。みんなが集まれる時間に、回しましょう。雨の日でも、晴れの日でも」
望愛は、胸の奥で何かがほどけて、代わりにあたたかいものが残るのを感じた。
手放すことは、失うことじゃない。渡すことだ。誰かの手の中で、音が続くことだ。
想が、望愛の濡れた袖を見て、静かに自分のハンカチを差し出した。白い布の角が、きちんと折られている。
「……使う?」
「ありがとう」
望愛が受け取ると、想は言葉を続けず、代わりに傘の骨を一本直すみたいに、望愛の手元を整えた。大げさじゃないのに、ちゃんと「ここにいる」が伝わってくる。
旋律が最後の音に近づくと、子どもたちの手拍子も小さくなった。雨の音が戻ってきて、でもさっきより少しだけ明るく聞こえる。
箱の中の歯車が止まり、部屋に静けさが落ちる。その静けさは、怖い無音じゃなかった。
「来年も、雨だったら」
想が、面会スペースの床の点々を見ながら言った。
「また歩こう。……今日みたいに」
望愛は、うなずいた。うなずく前に笑ってしまって、笑いながら頷いた。
「じゃあ、俺も歩く!」
寿樹が勢いよく手を挙げ、点滴台に肘をぶつけそうになって、明乃に襟をつかまれる。
「歩く前に、周りを見る」
「はいっ!」
帰り道、四人の傘が並ぶ。病院の自動ドアが閉まると、雨の匂いがもう一度、肌に触れた。
望愛のポケットには、もうケースの鍵はない。鍵は図書室へ返した。代わりに、ハンカチの柔らかさが手に残っている。
学校へ戻ると、図書室の棚札が目に入った。
『梅雨と雨恋』
墨の濃い文字が、雨の日の匂いに溶けず、まっすぐ立っている。
新入生が一人、濡れた前髪を指で払って入ってきて、棚札を見上げた。
「……ここ、雨の日に読む棚?」
望愛は、去年の自分より少しだけ軽い息で答えた。
「そう。雨の日に、よく聴こえる本がある」
想が、カウンターの角にスタンプを置き直す。寿樹が、床の水たまりへ雑巾を持って走り、明乃が「走るな」と言いながらハンカチをもう一枚取り出す。
笑い声が、図書室の天井へ上がっていく。
望愛は、雨音に耳を澄ませた。
鳴らない箱は、もうここにはない。けれど、雨の日の中に、確かに続く音がある。
六月十六日は、終わりじゃなくて、次の雨へつながる日だ。
【終】 【完】
旋律は、雨の音に負けなかった。
窓ガラスを伝う雫が、ひとつ落ちるたびに小さく光って、面会スペースの白い床に淡い影を作る。さっきまで重たく見えた灰色の空が、今は薄いレースみたいにやわらかい。
最初に動いたのは、さっき「ほな」と笑っていた男の子の指だった。
膝の上で、指先がそっと拍を刻む。次の子が真似をして、もう一人が真似をする。点滴の管が揺れないように気をつけながら、手拍子はだんだん揃っていった。
「この曲、なまえある?」
女の子が、頬に貼った小さな絆創膏を指で押さえながら訊いた。
望愛は、箱の蓋に視線を落とした。梅雨の図書室で見つけた紙片の文字が、ふいに胸の中でほどける。
「……『梅雨と雨恋』って、書いてあった」
「雨こい? 雨、こいこい?」
男の子が笑って、手拍子が少し速くなる。
「雨こいって言うと、雨が来るの?」
「今日は、もう来てる」
明乃が窓を指さすと、子どもたちが一斉に外を見て、「ほんとだ」と声を揃えた。
寿樹は、笑いながら首の後ろをこすった。さっきまでの赤い顔が、今は別の赤さに変わっている。
「……やばい。俺、また、目から水……」
「泣くと思った」
明乃が、何事もないみたいにポケットからハンカチを二枚出した。
「二枚!?」
「一枚はあなた用。もう一枚は、次に泣く人用」
明乃の視線が、望愛のほうへふわりと来て、すぐに外れた。
寿樹が驚きながらハンカチを受け取り、鼻をすすって子どもたちに頭を下げる。
「……ごめん。俺、泣くの、うるさいかも」
「うるさくないよ。おもしろい」
男の子が即答し、面会スペースに笑いが弾けた。
望愛は、オルゴールの音を聴きながら、自分の手のひらを見た。
去年は、この冷たさを握りしめて、なくならないように、隠すみたいに抱えていた。今日は違う。ここに置いていく、と言ったのは、投げ捨てるためじゃない。誰かが触れられる場所にするためだ。
看護師の佐伯さんが、そっと膝をつき、箱に顔を近づけた。
「……きれいな音。来てくれて、ありがとうございます」
佐伯さんの声は小さいのに、望愛の胸の奥まで届いた。
窓際の椅子に座っていた小さな子が、手拍子を止めて、箱を見つめた。髪は短く、耳の後ろが少し見える。望愛は、その横顔に、どこか覚えのある静けさを見た。
名前を聞く代わりに、望愛は箱の横へ、紙を一枚添えた。図書室のノートから切り取った、端の揃った紙。
ペン先が震えないように、想が机の角にそっと手を添える。望愛は短い言葉だけを書いた。
『六月十六日 雨の日 ここで鳴った』
書き終えると、望愛は紙を折り、蓋の内側へ差し込んだ。大事なものを隠すみたいにではなく、次の人が見つけやすい場所へ置くみたいに。
「これ、ここに置いていっていい?」
望愛が佐伯さんへ尋ねると、佐伯さんは頷いた。
「ええ。みんなが集まれる時間に、回しましょう。雨の日でも、晴れの日でも」
望愛は、胸の奥で何かがほどけて、代わりにあたたかいものが残るのを感じた。
手放すことは、失うことじゃない。渡すことだ。誰かの手の中で、音が続くことだ。
想が、望愛の濡れた袖を見て、静かに自分のハンカチを差し出した。白い布の角が、きちんと折られている。
「……使う?」
「ありがとう」
望愛が受け取ると、想は言葉を続けず、代わりに傘の骨を一本直すみたいに、望愛の手元を整えた。大げさじゃないのに、ちゃんと「ここにいる」が伝わってくる。
旋律が最後の音に近づくと、子どもたちの手拍子も小さくなった。雨の音が戻ってきて、でもさっきより少しだけ明るく聞こえる。
箱の中の歯車が止まり、部屋に静けさが落ちる。その静けさは、怖い無音じゃなかった。
「来年も、雨だったら」
想が、面会スペースの床の点々を見ながら言った。
「また歩こう。……今日みたいに」
望愛は、うなずいた。うなずく前に笑ってしまって、笑いながら頷いた。
「じゃあ、俺も歩く!」
寿樹が勢いよく手を挙げ、点滴台に肘をぶつけそうになって、明乃に襟をつかまれる。
「歩く前に、周りを見る」
「はいっ!」
帰り道、四人の傘が並ぶ。病院の自動ドアが閉まると、雨の匂いがもう一度、肌に触れた。
望愛のポケットには、もうケースの鍵はない。鍵は図書室へ返した。代わりに、ハンカチの柔らかさが手に残っている。
学校へ戻ると、図書室の棚札が目に入った。
『梅雨と雨恋』
墨の濃い文字が、雨の日の匂いに溶けず、まっすぐ立っている。
新入生が一人、濡れた前髪を指で払って入ってきて、棚札を見上げた。
「……ここ、雨の日に読む棚?」
望愛は、去年の自分より少しだけ軽い息で答えた。
「そう。雨の日に、よく聴こえる本がある」
想が、カウンターの角にスタンプを置き直す。寿樹が、床の水たまりへ雑巾を持って走り、明乃が「走るな」と言いながらハンカチをもう一枚取り出す。
笑い声が、図書室の天井へ上がっていく。
望愛は、雨音に耳を澄ませた。
鳴らない箱は、もうここにはない。けれど、雨の日の中に、確かに続く音がある。
六月十六日は、終わりじゃなくて、次の雨へつながる日だ。
【終】 【完】


