梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第19話 雨の日の病院、鳴ったのは箱だけじゃない

 六月十六日。去年と同じ、雨だった。
 朝の昇降口に立つと、傘の先から落ちた雫が靴箱の前で小さく跳ね、コンクリートに丸い点を増やしていく。梅雨の匂いは、去年より少しだけ軽い。望愛はポケットの鍵を指で確かめてから、図書室へ向かった。

 図書室は、雨の日の音をよく覚えている場所だ。窓の向こうの灰色の空、紙が湿る気配、棚の背に沈んだ木の匂い。その中で、ガラスケースの中の木箱だけが、いつもと同じ顔で待っていた。

「準備、できてる」
 想が先に来て、ケースの前で立っていた。白いシャツの袖口が、いつもよりきちんと折られている。望愛が鍵を差し込むと、錠が軽く鳴った。カチリ。箱の音じゃないのに、胸の奥が反応する。

 寿樹は、両腕にビニール袋を三枚、肩にレインコート、さらに胸にタオルを挟んで現れた。
「ぬ、濡れ対策、完璧です!」
「過剰」
 明乃が即答し、寿樹の腕から袋を一枚抜いた。
「え、これ、必要じゃ……」
「あなたの緊張が、漏れないように包む袋なら必要」
「俺の緊張、液体なの!?」

 笑いが落ち着いたところで、望愛は箱をそっと抱えた。去年は、抱えることが守ることだと思っていた。今日は違う。抱えるのは、渡すためだ。

 四人は、学校から歩いて十五分ほどの総合病院へ向かった。雨は強くない。傘の布に「ぱら、ぱら」と当たる音が、歩幅を揃えやすくする。想は望愛の傘の角度を、無言で少しだけ直した。望愛の肩が濡れない位置へ。自分の肩は、ほんの少し濃い色になっていく。

「想、そこ濡れてる」
「大丈夫」
 言い方は短いのに、足取りはゆっくりになる。望愛が追いつける速さへ落としているのが分かった。

 病院の自動ドアが開くと、消毒液の匂いと、空調の乾いた空気が頬に触れた。受付の前を通り、小児病棟の面会スペースへ。窓際には小さなテーブルが並び、壁には折り紙の傘と、虹の絵が貼られている。雨の日の中に、子どもの色が浮いていた。

 看護師の佐伯さんが、にこりと会釈した。
「待ってました。今日は、みんな楽しみにしてたんです」
「ほ、ほ、ほ、本日はお、お、お世話に……なって……」
 寿樹の敬語が、階段を転げ落ちるみたいに崩れた。

 明乃が小声で言う。
「落ち着いて。息を吸って、息を吐いて」
「す、すぅ……はぁ……えっと……ええと……ほな……」
「ほな?」
 望愛が目を丸くすると、寿樹は自分の口を両手で押さえた。
「今のは違う! 俺、そういう地方の人じゃない!」
 近くの椅子に座っていた男の子が、腹を抱えて笑った。
「ほな、って言った!」
 その笑いにつられて、別の子も笑う。緊張で固まっていた空気が、ふっと柔らかくなった。

 望愛は、箱を膝に置き、布をほどいた。木肌の傷、錆びた金具、蓋の隙間の細い線。去年は、その線が「なくなるかもしれない」に見えた。今日は「開けられる」に見える。

 想が隣に座った。声は出さない。ただ、うなずく。望愛は、それだけで息が通る気がした。

「これ……オルゴール?」
 女の子が、指で空をなぞるように訊いた。点滴の管が揺れないよう、手首をそっと支えながら。

「うん。鳴らない時期が長かったけど……今日、持ってきた」
 望愛は、蓋に手を置いた。冷たい。けれど、その冷たさに、もう逃げたくならない。

 望愛は木箱を両手で差し出し、看護師の佐伯さんと子どもたちの輪の真ん中へ置いた。
「ここにあった怖さを、今日置いていきます」
 言い切った瞬間、喉の奥が少し熱くなった。泣き声に変わる前に、想が隣で静かにうなずく。そのうなずきが、背中を支える手みたいに感じた。

 寿樹が、急に姿勢を正して言った。
「そ、その……みなさまに、えっと……ええと……ほな! じゃなくて! ええと!」
 明乃がポケットからハンカチを出し、寿樹の口元へ差し出す。
「汗。言葉より先に、拭いて」
「拭いたら、言える気がする……!」

 子どもたちが「がんばれー」と囃し、寿樹は顔を真っ赤にしてハンカチを受け取った。望愛は笑って、次に息を吸った。笑いながら呼吸できる。去年の自分には、できなかったことだ。

 想が箱の横に手を添えた。理科室で時計を直すときと同じ、落ち着いた指の置き方。望愛は、ゼンマイのつまみを指先でつかむ。

「回したら、どうなるの?」
「……鳴る。たぶん、ちゃんと」
 望愛が答えると、子どもたちが身を乗り出した。雨が窓を叩く音が一瞬だけ遠のき、部屋の空気が「待つ」で満ちる。

 望愛は、ゆっくり回した。カリ、カリ、と小さな抵抗が指に返ってくる。想の指が、箱の角をそっと押さえ、揺れないように止める。

 次の瞬間――旋律が、途切れず鳴り始める。

 箱の中の小さな歯車が、ようやく自分の居場所を思い出したみたいに滑らかに回る。かすれていたはずの音が、今日は薄いガラスみたいに澄んで、面会スペースの天井へまっすぐ伸びた。

 子どもたちは息を止めたまま、目だけで笑った。
【続】