第18話 進級、守る係から渡す係へ
卒業式の前日。教室の窓は半分だけ開けられていて、春の風がカーテンをふわりと持ち上げた。黒板の隅に残ったチョークの粉が舞い、白い点が光ってから床に落ちる。誰かが笑うたび、椅子の脚がきゅ、と鳴った。
望愛は、封筒を鞄のいちばん奥から取り出して、机の上にそっと置いた。置いた瞬間に、指の腹がじん、とした。紙一枚なのに、木箱の重さと同じくらいに感じるのが不思議だった。
想は、席を立ったまま、まるで理科室の時計を直すときみたいに周りを見ていた。騒いでいる人にぶつからない位置を選び、近くの机の角を指で軽く押して、通り道を作る。望愛が封筒を差し出すと、想は受け取って、すぐには開けなかった。宛名の文字を一度だけ指でなぞり、息を整えるみたいに肩を落とした。
寿樹が横から覗き込もうとして、明乃に襟元をつかまれた。
「覗くな。今、空気が薄い」
「空気って薄くなるの!?」
「なる。あなたが近づくと」
寿樹が「えぇ……」と顔をしかめ、明乃は手を離さずに一歩後ろへ引いた。教室のざわめきが、そこだけ少し静かになる。
想が封筒の中のカードを取り出し、読んだ。表情は大きく動かない。ただ、目が一度だけ、瞬きより遅く閉じた。カードを戻すと、想はペン芯ケースを鞄から出し、机の上に置いた。前みたいに「どうぞ」とは言わない。代わりに、ケースの横に小さな鍵を並べた。
鍵は、図書室のケースの鍵だった。銀色の先端に、細い傷が一本走っている。望愛の視線がそこに吸い寄せられると、想は短く言った。
「持ってて」
「……私が?」
「うん。必要なとき、迷わないように」
望愛は鍵を指でつまんだ。冷たいはずなのに、手のひらが熱い。握りしめると折れそうで、ほどほどに握った。折れないように、でも落とさないように。
寿樹が鼻をすすりながら、急に胸を張った。
「よし! 俺も明日、鍵みたいな人になる!」
「鍵じゃなくて、ドアになりそう」
「開けっぱなし!?」
明乃の一言で寿樹が自分の口を両手で塞ぎ、笑いが小さく広がった。望愛は笑いながら、鍵の重さを確かめた。守るのは、想だけじゃない。守り方も、ひとつじゃない。
それから数日。校庭の桜がほころび、学年がひとつ上がった。四月の図書室は、窓を開けると紙の匂いが軽くなる。湿った梅雨とは違い、ページがさらりとめくれる音がする。
新しい当番表に、四人の名前が並んだ。図書室の担当。望愛は鍵をポケットで確かめ、ケースの前で深呼吸した。隠す手は、もう出なかった。代わりに、棚札を貼り直す指が動く。
「『雨の日の棚』、ここでいい?」
寿樹が棚の前で、札を十枚くらい抱えていた。紙が腕からはみ出し、まるで本の山が歩いている。
「十枚もいらない」
明乃が即答し、寿樹の腕から札を二、三枚引き抜いた。
「えっ、必要でしょ! 『雨の日の棚』、『雨の日の棚・続』、『雨の日の棚・その二』……」
「その二は、あなたの気分で増えるやつ」
「気分は大事!」
望愛は笑いながら、いちばん上の札だけを受け取った。そこに、丁寧な字で書く。
『梅雨と雨恋』
墨の匂いに似たペンの匂いが、鼻の奥に残った。棚札を貼り終えると、ちょうど新入生らしい子たちが、濡れた傘を畳みながら入ってきた。制服の袖が少しだけ濃い色で、まだ大きい。手が本棚へ伸びる前に、視線が棚札に止まった。
「『うれい』って……読むんですか?」
「『つゆ』。梅雨」
望愛が答えると、その子がぱっと笑った。
「じゃあ、雨の日に読む棚だ!」
その一言で、棚の前に小さな輪ができた。誰かが詩集を取り、誰かが絵本を開き、ページをめくる音が重なる。望愛は、ケースの中の木箱を思った。あれは、抱えて隠すためのものじゃない。誰かが手を伸ばせる場所へ運ぶためのものだ。
想がカウンターの裏で、返却スタンプの位置を静かに整えていた。寿樹がスタンプを勢いよく押してインクを飛ばしそうになると、想が紙を一枚差し込み、飛ぶ前に止める。明乃が「今の、見えない速さ」と呟き、寿樹が「俺も見えない速さで成長する!」と宣言して、すぐに本に頭をぶつけた。
「成長、頭から?」
「いてぇ……!」
笑い声の向こうで、望愛の胸の奥が少しだけ軽くなった。鍵は、まだポケットにある。木箱は、まだケースの中にある。でも、心の置き場所が変わってきているのが分かる。守るのは、なくならないように抱え込むことだけじゃない。渡せる形にしておくことも、守ることだ。
放課後、四人がカウンターを片づけていると、電話が鳴った。図書室の端の、古い電話機。受話器を取ったのは先生で、短く相槌を打ちながら、視線を四人へ向けた。
「いちごの家の職員さんから。……病院の子が、頑張ってるって」
先生の声は抑えているのに、言葉だけがはっきり落ちた。
望愛は、ポケットの鍵を指で押さえた。金属の冷たさが、今は逃げ道じゃなくて、進む方向の印みたいに感じる。想が隣で、ほんの少し頷いた。明乃が息を吸い、寿樹が両手で胸を押さえた。
「……行く?」
寿樹が言うと、望愛は小さくうなずいた。
雨の日の棚の札が、背中に当たっている気がした。
【続】
卒業式の前日。教室の窓は半分だけ開けられていて、春の風がカーテンをふわりと持ち上げた。黒板の隅に残ったチョークの粉が舞い、白い点が光ってから床に落ちる。誰かが笑うたび、椅子の脚がきゅ、と鳴った。
望愛は、封筒を鞄のいちばん奥から取り出して、机の上にそっと置いた。置いた瞬間に、指の腹がじん、とした。紙一枚なのに、木箱の重さと同じくらいに感じるのが不思議だった。
想は、席を立ったまま、まるで理科室の時計を直すときみたいに周りを見ていた。騒いでいる人にぶつからない位置を選び、近くの机の角を指で軽く押して、通り道を作る。望愛が封筒を差し出すと、想は受け取って、すぐには開けなかった。宛名の文字を一度だけ指でなぞり、息を整えるみたいに肩を落とした。
寿樹が横から覗き込もうとして、明乃に襟元をつかまれた。
「覗くな。今、空気が薄い」
「空気って薄くなるの!?」
「なる。あなたが近づくと」
寿樹が「えぇ……」と顔をしかめ、明乃は手を離さずに一歩後ろへ引いた。教室のざわめきが、そこだけ少し静かになる。
想が封筒の中のカードを取り出し、読んだ。表情は大きく動かない。ただ、目が一度だけ、瞬きより遅く閉じた。カードを戻すと、想はペン芯ケースを鞄から出し、机の上に置いた。前みたいに「どうぞ」とは言わない。代わりに、ケースの横に小さな鍵を並べた。
鍵は、図書室のケースの鍵だった。銀色の先端に、細い傷が一本走っている。望愛の視線がそこに吸い寄せられると、想は短く言った。
「持ってて」
「……私が?」
「うん。必要なとき、迷わないように」
望愛は鍵を指でつまんだ。冷たいはずなのに、手のひらが熱い。握りしめると折れそうで、ほどほどに握った。折れないように、でも落とさないように。
寿樹が鼻をすすりながら、急に胸を張った。
「よし! 俺も明日、鍵みたいな人になる!」
「鍵じゃなくて、ドアになりそう」
「開けっぱなし!?」
明乃の一言で寿樹が自分の口を両手で塞ぎ、笑いが小さく広がった。望愛は笑いながら、鍵の重さを確かめた。守るのは、想だけじゃない。守り方も、ひとつじゃない。
それから数日。校庭の桜がほころび、学年がひとつ上がった。四月の図書室は、窓を開けると紙の匂いが軽くなる。湿った梅雨とは違い、ページがさらりとめくれる音がする。
新しい当番表に、四人の名前が並んだ。図書室の担当。望愛は鍵をポケットで確かめ、ケースの前で深呼吸した。隠す手は、もう出なかった。代わりに、棚札を貼り直す指が動く。
「『雨の日の棚』、ここでいい?」
寿樹が棚の前で、札を十枚くらい抱えていた。紙が腕からはみ出し、まるで本の山が歩いている。
「十枚もいらない」
明乃が即答し、寿樹の腕から札を二、三枚引き抜いた。
「えっ、必要でしょ! 『雨の日の棚』、『雨の日の棚・続』、『雨の日の棚・その二』……」
「その二は、あなたの気分で増えるやつ」
「気分は大事!」
望愛は笑いながら、いちばん上の札だけを受け取った。そこに、丁寧な字で書く。
『梅雨と雨恋』
墨の匂いに似たペンの匂いが、鼻の奥に残った。棚札を貼り終えると、ちょうど新入生らしい子たちが、濡れた傘を畳みながら入ってきた。制服の袖が少しだけ濃い色で、まだ大きい。手が本棚へ伸びる前に、視線が棚札に止まった。
「『うれい』って……読むんですか?」
「『つゆ』。梅雨」
望愛が答えると、その子がぱっと笑った。
「じゃあ、雨の日に読む棚だ!」
その一言で、棚の前に小さな輪ができた。誰かが詩集を取り、誰かが絵本を開き、ページをめくる音が重なる。望愛は、ケースの中の木箱を思った。あれは、抱えて隠すためのものじゃない。誰かが手を伸ばせる場所へ運ぶためのものだ。
想がカウンターの裏で、返却スタンプの位置を静かに整えていた。寿樹がスタンプを勢いよく押してインクを飛ばしそうになると、想が紙を一枚差し込み、飛ぶ前に止める。明乃が「今の、見えない速さ」と呟き、寿樹が「俺も見えない速さで成長する!」と宣言して、すぐに本に頭をぶつけた。
「成長、頭から?」
「いてぇ……!」
笑い声の向こうで、望愛の胸の奥が少しだけ軽くなった。鍵は、まだポケットにある。木箱は、まだケースの中にある。でも、心の置き場所が変わってきているのが分かる。守るのは、なくならないように抱え込むことだけじゃない。渡せる形にしておくことも、守ることだ。
放課後、四人がカウンターを片づけていると、電話が鳴った。図書室の端の、古い電話機。受話器を取ったのは先生で、短く相槌を打ちながら、視線を四人へ向けた。
「いちごの家の職員さんから。……病院の子が、頑張ってるって」
先生の声は抑えているのに、言葉だけがはっきり落ちた。
望愛は、ポケットの鍵を指で押さえた。金属の冷たさが、今は逃げ道じゃなくて、進む方向の印みたいに感じる。想が隣で、ほんの少し頷いた。明乃が息を吸い、寿樹が両手で胸を押さえた。
「……行く?」
寿樹が言うと、望愛は小さくうなずいた。
雨の日の棚の札が、背中に当たっている気がした。
【続】


