第17話 ありがとうカード、渡す練習
三月の教室は、窓を閉めてもどこか隙間風が入る。暖房の風が黒板の粉をわずかに舞わせ、机の上のカード用紙に白い粒が落ちた。廊下では、卒業式の練習で鳴らすパイプ椅子の音が、金属の乾いた響きでこだましている。
帰りの会の前、担任が小さな束を掲げた。
「今日は“ありがとうカード”。出しても出さなくてもいい。誰に書いてもいい。家の人でも、先生でも、友だちでも。書いたら封筒に入れて、廊下の箱に。明日の朝、配るからね」
寿樹が「自由って一番むずい!」と叫び、同時に机の引き出しから太い油性ペンを引っ張り出した。インクの匂いが近くまで届く。
「先生! 俺、十枚くらい書いていいですか!」
「……十枚“くらい”って言い方が怖い。多すぎると配る人が大変だから、ほどほどにね」
「ほどほど、了解!」
ほどほどを聞き違えた顔で、寿樹は配られた五枚を一瞬で使い切った。隣のクラスの先生にまで書きに行き、戻ってくると、頬がもう赤い。
「先生、あの……体育館の床をいつもピカピカにしてくれてありがとうございます! って、書いたら……目が、しょっぱくなってきた……」
「泣くの早い」
明乃が言い、肘で寿樹の腕を軽くつつく。つついた手の甲が、なぜか少し濡れている。
「当たっちゃった? 自分も、目が赤い」
「違う! これは、粉! 黒板の粉!」
寿樹は言い張りながら、ポケットからティッシュを二枚出して明乃に押しつけた。明乃は受け取り、顔を背けて一回だけ鼻をすすった。振り向いたときには、何事もなかったみたいに口角だけ上がっている。
望愛の机の上にも、白いカードが一枚置かれた。手のひらに乗せると、紙が意外としっかりしていて、指先に少しだけざらりと当たる。鉛筆じゃない。消しゴムで消せない。そう思っただけで、望愛の肩がわずかに固くなった。
カードを見ていると、鍵の冷たさが思い出される。木箱の内側に書いた自分の名前。消えない線。そこへ落ちそうになった涙。落ちないで、と頼んだ自分の小ささ。
望愛は、ペンケースを開いた。いつもなら、消せるペンを選ぶ。けれど今日は、先生が配ったカードの端に「油性で」と書いてある。逃げ道が最初から塞がれている。
先に、書ける人から書こう。
望愛は、図書室の先生の顔を思い浮かべ、「いつも静かにしてくれてありがとうございます」と一行だけ書いた。次に、施設で写真を探してくれた職員へ――と思った瞬間、紙が急に遠くなる。胸の奥が、梅雨の雨雲みたいに重くなり、息が浅くなった。
「望愛」
名前を呼ばれて、顔を上げる。想が、机の横に立っていた。大げさに覗き込まない。肩をすくめもしない。必要な距離だけ残して、手だけ伸ばしてくる。
机の角に、シャープペンの芯ケースが置かれた。中身は、前より少し増えている。いつ補充したのか分からない。
想は何も言わず、ただ、カードの白さから視線を外して、窓の外を見た。雨は降っていないのに、空は薄い灰色だ。
望愛は、芯ケースを指でなぞった。カチ、と小さな音がして蓋が開く。黒い細い芯が並んでいる。それだけで、不思議と呼吸が戻る。
想の背中が、少しだけ緩む。見ていないふりをして、見ている。そういう動きだった。
望愛はカードをもう一枚取り、油性ペンの先端を当てた。書き出しの二文字が、どうしても出ない。
想へ。
ありがとう。
言葉は簡単なのに、紙に乗せる瞬間、勝手に重くなる。書いたら、渡す。渡したら、手元から離れる。離れたら、戻らない。頭の中で、紙が勝手に未来まで走ってしまう。
「おーい! 俺、配り役の人の負担を減らすために、先に配ってきた!」
寿樹が、カードの束を抱えて戻ってきた。束の半分がすでに減っている。
「配るのは明日の朝って言ったでしょ」
担任が呆れた声を出す。
「明日って、待てないんすよ! 今、感謝があふれてるんすよ! あ、先生にも書いた! ほら!」
寿樹は自分の胸ポケットから一枚取り出し、両手で差し出した。差し出した瞬間、鼻の頭が赤くなる。
「……泣くの早い」
今度は担任が言い、教室のあちこちで笑いが起きた。寿樹は笑われているのに、なぜか嬉しそうに頷き、涙を袖で拭いた。
その笑いの波に、望愛の胸の重さが少しだけ浮いた。浮いた瞬間、言葉の形が見えた気がする。望愛は油性ペンを持ち直し、カードの左上に小さく、宛名を書いた。
『想へ』
たった二文字で、指先が震えた。震えを隠そうとすると、余計に線が乱れる。望愛は深呼吸し、乱れた線のままにした。直さない。直せないからじゃない。乱れたままでもいい、と言ってみたかった。
続きの一行目に、望愛はこう書いた。
『怖さより先に、渡したい言葉があります』
書き終えた瞬間、肩の力が抜けた。想がこちらを見ないまま、胸の前で小さく息を吐く。聞こえないはずの吐息が、なぜか望愛には分かった。
明乃が、寿樹の背中越しに、望愛のカードをちらりと見た。
「お、書けた」
「……見ないで」
「見てない。空気を見てる」
明乃は言いながら、机の端に自分のカードを置いた。宛名は「寿樹へ」。文字が妙に大きい。
「先に渡す練習、してみたら?」
「今?」
「今」
明乃は、寿樹が先生に追加でカードをねだっている隙に、さっとそのカードを寿樹の机に滑らせた。紙が机の上をすべり、ぴたりと止まる。
寿樹が振り向き、カードを見つけた瞬間、目がさらに赤くなった。
「うわ……俺、今日、最速で泣く日……!」
「ほら、泣くの早い」
「明乃が言うな! 明乃も赤い!」
教室は、笑いと鼻をすする音で、変なあたたかさに包まれた。望愛はカードを封筒に入れ、指で封を押さえた。紙の端が指の腹に当たり、軽い痛みが残る。その痛みが、今は怖くない。
帰り支度の音が増える中、望愛は封筒を胸の前で握った。握る力が強すぎると、紙が折れる。折れたら、元には戻らない。だから、ほどほどに握った。
想が立ち上がり、鞄の肩紐を持ち上げた。帰る気配だ。望愛は椅子から半分だけ腰を浮かせ、声を探した。
口を開くと、心臓が先に鳴る。
「……想」
呼んだ声は、小さかった。けれど想は、振り向いた。大げさに驚かない。笑いもしない。ただ、待つ顔で立っている。
望愛は封筒の角を指で押さえ、うなずいた。
「明日、渡す。……逃げない」
想は答えを急がず、机の上に残った芯ケースを指で閉じた。カチ、と小さな音がして、約束みたいに響いた。
【続】
三月の教室は、窓を閉めてもどこか隙間風が入る。暖房の風が黒板の粉をわずかに舞わせ、机の上のカード用紙に白い粒が落ちた。廊下では、卒業式の練習で鳴らすパイプ椅子の音が、金属の乾いた響きでこだましている。
帰りの会の前、担任が小さな束を掲げた。
「今日は“ありがとうカード”。出しても出さなくてもいい。誰に書いてもいい。家の人でも、先生でも、友だちでも。書いたら封筒に入れて、廊下の箱に。明日の朝、配るからね」
寿樹が「自由って一番むずい!」と叫び、同時に机の引き出しから太い油性ペンを引っ張り出した。インクの匂いが近くまで届く。
「先生! 俺、十枚くらい書いていいですか!」
「……十枚“くらい”って言い方が怖い。多すぎると配る人が大変だから、ほどほどにね」
「ほどほど、了解!」
ほどほどを聞き違えた顔で、寿樹は配られた五枚を一瞬で使い切った。隣のクラスの先生にまで書きに行き、戻ってくると、頬がもう赤い。
「先生、あの……体育館の床をいつもピカピカにしてくれてありがとうございます! って、書いたら……目が、しょっぱくなってきた……」
「泣くの早い」
明乃が言い、肘で寿樹の腕を軽くつつく。つついた手の甲が、なぜか少し濡れている。
「当たっちゃった? 自分も、目が赤い」
「違う! これは、粉! 黒板の粉!」
寿樹は言い張りながら、ポケットからティッシュを二枚出して明乃に押しつけた。明乃は受け取り、顔を背けて一回だけ鼻をすすった。振り向いたときには、何事もなかったみたいに口角だけ上がっている。
望愛の机の上にも、白いカードが一枚置かれた。手のひらに乗せると、紙が意外としっかりしていて、指先に少しだけざらりと当たる。鉛筆じゃない。消しゴムで消せない。そう思っただけで、望愛の肩がわずかに固くなった。
カードを見ていると、鍵の冷たさが思い出される。木箱の内側に書いた自分の名前。消えない線。そこへ落ちそうになった涙。落ちないで、と頼んだ自分の小ささ。
望愛は、ペンケースを開いた。いつもなら、消せるペンを選ぶ。けれど今日は、先生が配ったカードの端に「油性で」と書いてある。逃げ道が最初から塞がれている。
先に、書ける人から書こう。
望愛は、図書室の先生の顔を思い浮かべ、「いつも静かにしてくれてありがとうございます」と一行だけ書いた。次に、施設で写真を探してくれた職員へ――と思った瞬間、紙が急に遠くなる。胸の奥が、梅雨の雨雲みたいに重くなり、息が浅くなった。
「望愛」
名前を呼ばれて、顔を上げる。想が、机の横に立っていた。大げさに覗き込まない。肩をすくめもしない。必要な距離だけ残して、手だけ伸ばしてくる。
机の角に、シャープペンの芯ケースが置かれた。中身は、前より少し増えている。いつ補充したのか分からない。
想は何も言わず、ただ、カードの白さから視線を外して、窓の外を見た。雨は降っていないのに、空は薄い灰色だ。
望愛は、芯ケースを指でなぞった。カチ、と小さな音がして蓋が開く。黒い細い芯が並んでいる。それだけで、不思議と呼吸が戻る。
想の背中が、少しだけ緩む。見ていないふりをして、見ている。そういう動きだった。
望愛はカードをもう一枚取り、油性ペンの先端を当てた。書き出しの二文字が、どうしても出ない。
想へ。
ありがとう。
言葉は簡単なのに、紙に乗せる瞬間、勝手に重くなる。書いたら、渡す。渡したら、手元から離れる。離れたら、戻らない。頭の中で、紙が勝手に未来まで走ってしまう。
「おーい! 俺、配り役の人の負担を減らすために、先に配ってきた!」
寿樹が、カードの束を抱えて戻ってきた。束の半分がすでに減っている。
「配るのは明日の朝って言ったでしょ」
担任が呆れた声を出す。
「明日って、待てないんすよ! 今、感謝があふれてるんすよ! あ、先生にも書いた! ほら!」
寿樹は自分の胸ポケットから一枚取り出し、両手で差し出した。差し出した瞬間、鼻の頭が赤くなる。
「……泣くの早い」
今度は担任が言い、教室のあちこちで笑いが起きた。寿樹は笑われているのに、なぜか嬉しそうに頷き、涙を袖で拭いた。
その笑いの波に、望愛の胸の重さが少しだけ浮いた。浮いた瞬間、言葉の形が見えた気がする。望愛は油性ペンを持ち直し、カードの左上に小さく、宛名を書いた。
『想へ』
たった二文字で、指先が震えた。震えを隠そうとすると、余計に線が乱れる。望愛は深呼吸し、乱れた線のままにした。直さない。直せないからじゃない。乱れたままでもいい、と言ってみたかった。
続きの一行目に、望愛はこう書いた。
『怖さより先に、渡したい言葉があります』
書き終えた瞬間、肩の力が抜けた。想がこちらを見ないまま、胸の前で小さく息を吐く。聞こえないはずの吐息が、なぜか望愛には分かった。
明乃が、寿樹の背中越しに、望愛のカードをちらりと見た。
「お、書けた」
「……見ないで」
「見てない。空気を見てる」
明乃は言いながら、机の端に自分のカードを置いた。宛名は「寿樹へ」。文字が妙に大きい。
「先に渡す練習、してみたら?」
「今?」
「今」
明乃は、寿樹が先生に追加でカードをねだっている隙に、さっとそのカードを寿樹の机に滑らせた。紙が机の上をすべり、ぴたりと止まる。
寿樹が振り向き、カードを見つけた瞬間、目がさらに赤くなった。
「うわ……俺、今日、最速で泣く日……!」
「ほら、泣くの早い」
「明乃が言うな! 明乃も赤い!」
教室は、笑いと鼻をすする音で、変なあたたかさに包まれた。望愛はカードを封筒に入れ、指で封を押さえた。紙の端が指の腹に当たり、軽い痛みが残る。その痛みが、今は怖くない。
帰り支度の音が増える中、望愛は封筒を胸の前で握った。握る力が強すぎると、紙が折れる。折れたら、元には戻らない。だから、ほどほどに握った。
想が立ち上がり、鞄の肩紐を持ち上げた。帰る気配だ。望愛は椅子から半分だけ腰を浮かせ、声を探した。
口を開くと、心臓が先に鳴る。
「……想」
呼んだ声は、小さかった。けれど想は、振り向いた。大げさに驚かない。笑いもしない。ただ、待つ顔で立っている。
望愛は封筒の角を指で押さえ、うなずいた。
「明日、渡す。……逃げない」
想は答えを急がず、机の上に残った芯ケースを指で閉じた。カチ、と小さな音がして、約束みたいに響いた。
【続】


