梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第16話 春、ノートの一番古いページ

 立春を過ぎても、校舎の廊下はまだ冷えた。放課後の西日が差しているのに、窓際の水たまりは、薄い膜を張ったまま動かない。誰かの上履きが通るたび、ぱき、と小さく割れて、また静かになる。

 図書室のカウンター脇で、望愛はノートを抱えて待っていた。表紙の角は丸くなり、何度も指で擦った跡が白く光る。ページを開く指先が、今日に限って進まない。書き直せるはずの言葉が、喉の奥で引っかかっている。

「来た。……というか、抱えてるね、相変わらず」

 明乃が入ってきて、鞄を椅子に置いた。視線は望愛の腕の中のノートに一瞬だけ留まり、すぐに外れた。外れたのに、当たっている。

「今日は、見ないで」
「見るよ。目はついてる」

 望愛が言い返すと、明乃は口の端だけ上げて、机の上を空けるように書類の山をどけた。

 理科室から来た想は、先に木箱の鍵を指先で確かめてから、ケースを抱えて入ってきた。鍵穴に鍵を差し込む動きが、いつもよりゆっくりだ。寿樹は遅れて飛び込んできて、息を切らしながら手を挙げた。

「すみません! ……いや、違う。謝る日じゃない。今日は、えっと、えーと……」
「謝る日でも、謝らない日でも、声でかい」

 明乃が即座に突っ込むと、寿樹は喉の奥で「ぐっ」と小さく縮んだ。

 そのとき、カウンターの向こうの扉が開いた。図書室の職員が、昨日の分厚いファイルに加えて、さらに古い台帳を二冊抱えて現れた。紙の匂いが、湿った木棚の匂いに混ざって、急に「昔」の匂いになる。

「待たせてごめんね。……あったよ。六月十六日の記録」

 職員は机の上に台帳を置き、指で背表紙を撫でた。茶色い紙が柔らかくへこみ、戻らない。望愛は、そのへこみを見ただけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 ページを開く音は、乾いた「ぱらん」だった。職員が読み上げる。

「『図書室寄贈 木製オルゴール一基 提供 いちごの家 受領 六月十六日』……ほら、ここ。担当は当時の司書さんの名前」

 想が視線を落とし、寿樹が身を乗り出す。明乃は腕を組んだまま、望愛の指先だけ見ていた。望愛の指先は、ノートの端をぎゅっと掴んで白くなっている。

「寄贈のときの写真も、探してみたの。個人情報があるから全部は見せられないけど……これは、図書室に残す用に撮ったものだから」

 職員が写真を一枚、透明な袋に入れたまま差し出した。四人の間に、雨の日の空気みたいな静けさが落ちる。

 写真の中には、低い本棚と、まだ新しい木箱が写っていた。手前に、小学生の女の子が一人。胸元の名札に、ひらがなで「のあ」と書いてある。字は少し曲がっていて、でも大きい。

 望愛は、息を吸ったのに入ってこなかった。目の奥が熱くなり、まぶたが勝手に瞬きをする。

「……同じ、だ」

 声がかすれたのは、冬の乾いた空気のせいじゃない。寿樹が「え」と言いかけて、途中で舌を噛んだ。想は写真から目を逸らさず、ただ、ケースの取っ手を握り直した。明乃は「当たっちゃった?」と言いそうな口元を、ぎゅっと閉じた。

 職員は少し迷ってから、別の紙を一枚取り出した。表には、短い記録。

「これは……当時、いちごの家にいた子どもの、図書室利用の記録の控え。名前は伏せてあるけど、貸し出しカードの番号だけ残ってた。番号が一致してる。望愛さん、あなたが今使ってる図書カードの……最初の番号と」

 望愛は、咄嗟にポケットを探した。カードケースの中の図書カード。何度も使ってきた番号が、紙の番号と同じ桁で並んでいる。偶然、と言い切れない形で、そこにある。

「……私、ここに、いたの?」

 問いは、誰に向けたものでもなく、床に落ちた。床は、寿樹が磨きすぎて滑るような床じゃなく、ただの木の床だったのに、望愛の足元が少し揺れた。

「短い間だけ。小学校に上がる前の、数か月。台帳の端にメモがある。『六月十六日 雨 退所前の記念に』って」

 職員の声は淡々としていた。淡々としているのに、望愛の胸の中だけ、梅雨の雨雲みたいに重くなっていく。

 寿樹が、空気を持ち上げようとして、両手をぱんと打った。

「よし! 気まずい感じになったら、俺がやるやつ! 即席クイズ大会! 第一問! 六月十六日は――」

「終了」
 明乃が一秒で言った。

「え、まだ問題言ってない!」
「言わなくていい。今、答え合わせの前に泣きそうな人がいる」

 寿樹は口を開けたまま、そっと閉じた。代わりに、机の端に置いたティッシュ箱を、望愛の近くに押して寄せた。昨日と同じ動きなのに、今日は少しだけ慎重だ。

 望愛はティッシュに手を伸ばせず、ノートを開いた。いつものページじゃない。今日の自分を書くページでもない。指が勝手に、もっと前、もっと前とめくっていく。紙が薄くなり、鉛筆の跡が濃い昔のページが出てきた。

 幼い字が、そこにあった。

『あめのひは おとが いる』
『六月十六日 やくそく』

 望愛の喉の奥で、ずっと詰まっていたものが、音もなく崩れた。忘れていたのに、見た瞬間に「知ってる」と体が言う。胸の奥が痛いのに、指先だけが温かい。

「……忘れたかったんじゃない」

 声が漏れた。望愛は、字の上に指を置いた。紙が少し波打ち、指の腹にざらりと当たる。

「思い出すのが、怖かったんだ」

 想が、椅子を引く音を立てないように近づき、机の上にシャープペンの芯ケースを置いた。中身は一本だけ残っている。言葉の代わりみたいに、静かに置かれた。

 明乃は、望愛のノートから目を離さずに言った。
「怖いって言えるようになった。前より、進んでる」
「進んでるの、今だけでいい……いや、違う。今だけじゃ、だめ」

 望愛は自分で自分の言い直しに笑って、すぐに鼻の奥がつんとした。寿樹が「笑った!」と叫びそうになり、想に肩を軽く押されて声を飲み込む。

 望愛はケースに手を伸ばし、鍵を受け取った。金属が指に冷たい。鍵穴に差し込む瞬間、息が止まった。自分で止めた。

 かちり、と小さく音がして、蓋が開く。

 木箱の中は、変わらない。金属の歯車も、板バネも、昨日のままだ。昨日鳴った一音の余韻だけが、どこかに残っている気がする。

 望愛はノートを閉じ、ペンケースを開いた。いつもは消せるペンを使う。書き直せるから。でも今日は、消えないペンを探した。見つけたのは、明乃が差し出した油性ペンだった。いつの間に出したのか分からない。明乃は何も言わず、ただ頷いた。

 望愛はペンの蓋を外し、木箱の内側の、平らな場所に先端を当てた。心臓が、耳のすぐ近くで鳴る。

 ゆっくり、字を書く。

『望愛(のあ)』

 最後の一画を引き終えた瞬間、肩の力が抜けた。涙が一滴、木箱の縁に落ちそうになって、望愛は慌てて頬を拭いた。落ちないで、と木箱に頼んだ自分がおかしくて、また少し笑ってしまう。

「……よし。俺、今ならクイズ二問目いける」
「いらない」
「はい」

 寿樹の肩が落ち、明乃の口元が少し緩む。想は木箱を見て、ほんのわずかに息を吐いた。声は出さない。けれど、望愛の背中の硬さが、少しだけ減ったのを、望愛自身が感じた。

 望愛は蓋を閉じ、ケースに戻した。ゼンマイには触れなかった。鳴らすのは、まだ先がいい。鳴った音を、誰かに渡すときにしたい。

 窓の外では、雪解けの水が雨樋を伝って落ちている。音は小さく、でも途切れない。

 望愛はノートを胸に当て、職員に頭を下げた。
「探してくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ。……続き、見届けたいね」

 帰り支度をしながら、寿樹が急に真面目な顔をした。
「なあ、卒業の前ってさ……なんか、書く時間あるじゃん。ありがとうってやつ。あれ、今年もやるのかな」
 明乃が「やるでしょ」と言い、想が小さく頷いた。

 望愛は、うなずけなかった。うなずけないのに、机の上のペン芯ケースが目に入る。渡したいものが、怖さより先に浮かんでくる。

 望愛は一度だけ、ケースの中の木箱に視線を落とした。
 消えない名前が、そこにある。
【続】