梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第15話 最初の一音、笑ってから泣く

 かすれた一音が消えると、理科室は急に「音がない場所」になった。ストーブの唸りも、時計の秒針も、さっきまでよりずっと大きく聞こえる。

 寿樹は両手で口を押さえたまま、目だけで叫んでいた。「鳴った!」と「続かない!」が同時に詰まって、頬がぷるぷる震えている。明乃はそれを見て、笑いそうになってから、すぐに口をまっすぐにした。

 想は蓋の中を覗き込み、ゼンマイの戻り方を確かめるように指先を止めた。望愛はその指が離れるのを待てず、木箱に顔を近づけた。金属の匂いが少しだけする。雨の匂いじゃない。冬の乾いた匂いだ。

「……もう一回、回せば?」

 寿樹が囁いた。囁きのはずなのに、緊張で声が裏返っている。

 想は首を振る。否定の動きは小さく、でも迷いがない。
「同じことをしても、同じとこで止まる」

 望愛は胸の中で「止まる」という言葉を転がした。止まる。止まってしまう。止まらないでほしい。全部、同じ方向に向かう言葉なのに、意味だけが違って、喉の奥に引っかかった。

 明乃が机の上の木箱に視線を落とし、手のひらを軽く当てた。
「欠けてるんだと思う。音じゃなくて……記憶」

「記憶なら俺、昨日の宿題も欠けてる!」

 寿樹が反射で叫んだ瞬間、理科室のドアがガラッと開いた。

「今の声、誰だ」

 入ってきたのは理科の先生だった。白衣のポケットが片方だけふくらんでいて、そこからチョークが一本、斜めに飛び出している。寿樹は自分の口を押さえ直し、目だけで「俺じゃない」と訴えた。訴える相手が先生だから、当然、通じない。

「……寿樹」

 名前を呼ばれて、寿樹の肩が落ちた。
「はい。欠けてます。いろいろ」

「欠けてるなら、埋めろ。まず宿題」

 先生はため息をつきながら、流し台の方へ歩いた。薬品棚の鍵を確認し、白衣のポケットのチョークを押し込む。小さな作業だけで怒りを分散させているのが分かった。想が「すみません」と短く言い、寿樹は「今から埋めます!」と意味の分からない宣言をした。

 先生が出て行くまでの十秒が、望愛には一分に感じられた。先生の足音が遠のいた途端、寿樹は椅子に崩れ落ちた。

「やばい、俺、鳴った感動で宿題思い出した」

「それは良いことなのか悪いことなのか、判断に困る」

 明乃がさらっと言うと、寿樹は机に額をつけた。
「感動って、こういう方面でも人を変えるんだな……」

 望愛は笑ってしまった。笑い声が出た瞬間、胸のあたりがふわっと軽くなる。軽くなった分だけ、次に来るものが重いことも分かってしまう。笑いをしまいこむ場所が見つからず、望愛は唇を噛んだ。

 想は木箱の中の円筒をルーペで見た。小さな突起の並びが途中で途切れている場所がある。そこに指は触れない。ただ、視線だけが止まった。
「ここ……曲が続くはずの並びが、ない」

「ない、って……壊れた?」

 望愛が聞くと、想は「削れた」と言いかけて、言葉を飲んだ。代わりに、工具箱から細い刷毛を出し、埃を払う。やさしい動きだった。直す前に、傷を確かめる動き。

 明乃は望愛の顔を見て、目元を少しだけ寄せた。
「写真の子。名前が“のあ”の子。あのページ、望愛だけ、呼吸してなかった」

 望愛は反射で「してた」と言いかけて、やめた。息はしていた。でも、胸の中に入ってこなかった。写真の女の子が抱えていた木箱と、今、膝の上にある木箱が、同じ重さで来てしまったから。

 寿樹が顔を上げた。さっきまでの騒がしさが、一枚薄くなっている。
「……望愛。無理に言わなくていい。けど、俺、あの写真、ずっと気になってた」

 望愛は笑おうとした。笑えば、この空気を軽くできる。明乃が言う「凍る前に冗談へ」のやり方を、望愛だって知っている。でも、笑う前に、喉が勝手にひくっと鳴った。

「……あの子、私かも」

 絞り出した声は、想像よりも小さかった。言った瞬間に、理科室のストーブの音が遠くなる。寿樹が「え」と言って、次の言葉を探して口を閉じた。明乃は頷きも否定もしない。ただ、望愛の机の上に、ティッシュの箱をそっと置いた。

 望愛はティッシュを取らずに、指先で木箱の角をなぞった。冬の冷たさに、少しだけ雨の日の湿り気が混ざる気がする。笑いたかった。鳴ったんだよって、寿樹みたいに跳ねたかった。でも、続かなかった一音が、胸の奥でずっと鳴っていた。

 想が何も言わずに、望愛の手元にハンカチを差し出した。白い布で、角がきれいに折られている。望愛は受け取って、鼻に当てた。布の匂いは洗剤の匂いで、雨の匂いじゃないのに、なぜか安心した。

「続けるには、足りないものを探す」

 想が言う。望愛に向けた言葉でもあり、木箱に向けた言葉でもあった。

 そのとき、廊下から軽いノックがして、図書室の職員の声がした。
「理科室、まだ使ってる? さっきの整理の件で、ちょっと」

 明乃がドアを開けると、職員は分厚いファイルを抱えて立っていた。背表紙に「寄贈品・保管」と手書きのラベルが貼ってある。職員は木箱を見て、目を細めた。
「それ、やっぱり……ね。昔、ここに預けられたものだと思うの。校内の記録を探したら、名前が出てきそう。今日すぐは無理だけど、明日、古い台帳も見てみる。約束する」

 寿樹が立ち上がって、勢いで椅子を鳴らし、すぐに静かに戻した。
「お願いします! 俺、宿題も埋めます!」

「そっちは自分でね」

 職員が笑った。笑い方は小さくて、でも本物だった。

 望愛はファイルの角を見つめた。紙の束の重さが、見えない穴を少しだけ埋めてくれる気がした。雨の日の図書室で見つけた紙片の「六月十六日」が、胸の奥でひっそり光る。まだ冬なのに、雨の音が近づいてくる。

 望愛は息を吸って、吐いた。今度は、胸の中に入ってきた。
【続】