梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第13話 冬の入口、怖さが形になる

 合唱の発表が終わって、教室の空気が一度ふっと軽くなった日から、まばたきの回数だけ時間が進んだ。廊下の窓を開けると、湿った匂いじゃなく、冷たい乾いた匂いが入ってくる。望愛の吐く息は、まだ白くならないのに、指先だけが先に冬を知っていた。

 朝のホームルームで、担任が黒板に小さく書いた。
「今日で、結衣が転校します。最後の一日、みんなで送り出そう」

 ざわり、と椅子の脚が鳴った。望愛は反射みたいに、机の端を指で押さえた。耳の奥で、雨樋の打音が遠ざかる代わりに、別の音が近づく。自分の心臓の、こつ、こつ。

 隣の席の結衣は、いつものように前髪を耳にかけた。笑う練習をしたみたいな口元で、教卓の前に立つ。
「お父さんの仕事でね。来週から、向こうの学校」

 言い方が、軽い。軽く言えるように、何度も繰り返したんだろうと、望愛は思った。結衣は話し終えると、望愛のほうへ視線を送って、小さくウインクをした。大丈夫、って合図みたいに。

 寿樹がすぐに手を挙げた。
「寄せ書き、やる。今日中に全員から集める。俺、まとめる」
「お前は勢いでまとめるから、紙が破れる」
 明乃が、ほとんど声を上げずに突っ込んだ。
「破れない。俺、丁寧だって言われる」
「その言葉、誰が言ったの」
「……自分」
 寿樹が胸を張った瞬間、クラスの数人が笑った。笑いの輪の端っこに、望愛はそっと手を伸ばせないまま、指先を握り直した。

 昼休み、寿樹は学級文庫の横に色紙を置き、太いペンを何本も並べた。色の種類が多すぎて、まるで文房具売り場の見本みたいだった。
「好きなの選べ! 気持ちが色に乗る!」
「色に乗るのはインクだけ」
 明乃が、また針みたいな一言を落とす。寿樹は「そこは黙って」と言いながら、早速ペンのキャップを落として転がした。

 望愛は色紙の前に立った。結衣の名前の上に、みんなの文字が増えていく。丸い字、角ばった字、絵が得意な子の小さなイラスト。ひとつひとつが、結衣に触れる指みたいに見えた。

 望愛は空いている白い場所を探した。探しているうちに、胸の奥がきゅっと縮む。白い場所は、今の結衣と似ている。今日で、ここが空く。

 背中で、寿樹の声がした。
「おい、もう俺のところ、名前書く欄も作っといたぞ! 後でみんなの名前も書くからな!」
「それ、要らない」
「要る! ほら、望愛も……」
「要らないってば」

 言い合いが始まったと思ったら、次の瞬間、寿樹が色紙を抱えて固まった。
「……やばい。俺、やった」
「何を」
 明乃が覗き込む。寿樹は、色紙の下のほうを指さした。

「全員の名前、先に書いとこうと思って。場所の目印に」
「で」
「……間違えた」

 色紙の端に、寿樹の太字で「望藍」「惣」「明野」「結依」と並んでいる。望愛の名前は青くないし、想は“惣”じゃない。明乃は野原じゃないし、結衣は依頼した覚えもない。

 望愛は一瞬だけ、声が出そうになって、出なかった。かわりに肩が揺れて、喉の奥から小さな息が漏れた。笑いなのか、ため息なのか、自分でも区別がつかない。

「寿樹、ちょっと来て」
 明乃は色紙を奪い取ると、ペンの束から白の修正ペンを一本引き抜いた。まるで手術道具を選ぶみたいに迷いがない。
「一文字ずつ直す。逃げたら、次は顔に書く」
「顔はやめて!」
「じゃあ座る。そこ。正座」
「正座!?」
「正座」

 寿樹は素直に座った。床が冷たいのか、膝を小刻みに震わせながら、両手を前に置く。明乃は一文字ずつ、淡々と塗りつぶしては書き直す。望愛は、その様子を見ているうちに、胸の縮みが少しずつほどけていくのを感じた。怖さの形が、笑いに押されて角が丸くなる。

 想が、いつの間にかそこにいた。理科室の匂いがまだ服に残っているみたいで、近づくだけで金属の冷えた気配がした。
「……結衣の字、望愛が書く?」
 想は色紙の空きスペースを、指で示さない。視線だけで示す。覗き込まれない距離。
「うん」
 望愛は頷いて、ペンを握った。

 白い場所に、二行だけ書く。昨日、木箱に書いた言葉が頭に浮かぶ。二行でいい、って。望愛は一度息を吸って、ゆっくり書いた。

 ――向こうでも、雨の匂いを見つけたら教えて。
 ――私の分まで、笑って。

 書き終えて顔を上げると、結衣がそこに立っていた。色紙を見て、目を細める。泣かない代わりに、笑う練習をしてきた顔のまま、望愛の手首を指先で軽く叩いた。
「了解。雨の匂い、採取して送る」
「理科みたいに言うな」
 望愛が言うと、結衣は小さく肩をすくめた。笑い方が、いつもと同じで、逆に胸が痛い。

 放課後、昇降口は靴箱の金具が冷たく鳴った。結衣の上履きは、今日で最後だ。結衣は靴を履き替えながら、望愛のほうを見ずに言った。
「望愛、図書室の木箱、まだ?」
「……まだ」
「そっか。じゃあ、鳴ったら、私にも聞かせて」
「うん。……聞かせる」

 約束の言葉が、喉の上で引っかかった。言った瞬間に、失くす気がしたから。望愛は結衣の背中を見送って、手を振るタイミングを遅らせた。遅らせた分だけ、結衣の姿が遠くなる。

 帰り道、空はもう薄い鉛色で、街灯が早く点いた。望愛は木箱を胸に抱えていた。今日は学校から持ち帰ってきた。鍵付きケースに戻す前に、抱きしめたくなったからだ。木の角が制服の上からでもわかる。硬いのに、熱が移る。

 想は隣を歩き、たまに足元の落ち葉を踏んで音を確かめるみたいに歩いた。寿樹は少し前で、まだ反省しているのか、ペンのキャップを指で回し続けている。明乃は後ろで、「転がすな」とだけ言って、転がっていくキャップを拾っていた。

 分かれ道で、寿樹が振り返った。
「明日、色紙の写真、結衣に送るからな! 間違えた名前のやつも!」
「送るな」
「送る! 戒め!」
「戒めを人に渡すな」
 明乃の声に、寿樹は両手を上げて走り去った。明乃はその背中を見て、笑うでもなく、でも口角だけがわずかに上がった。

 望愛と想だけが、同じ方向に残った。街灯の下、影が二つ、長く伸びる。望愛は足を止めて、木箱を抱え直した。
「……結衣、いなくなるね」
「うん」
 想は短く答えて、望愛の横顔を見ない。見ないまま、呼吸を合わせる。

 望愛は口を開いて、閉じた。喉の奥が、合唱の前みたいに空っぽになる。言葉を出したら、風に持っていかれそうだった。だから望愛は、木箱に顔を近づけた。金具の冷たさが頬に触れて、ぞくりとする。

「……私、失うのが怖かった」

 声にした瞬間、胸の奥の固まりが、少しだけ形を変えた。怖さは消えない。ただ、握れる大きさになる。望愛は木箱の角を指でなぞった。そこにあるのは、鳴らないままの仕組みと、戻らないものの重さ。

 想が、足を止めた。しばらく黙って、街灯の明かりの中で、自分の指先を見つめていた。冷えて赤くなった指。
「……俺も怖い」
 小さな声だった。望愛の耳にだけ届くくらいの。
「何が?」
 望愛が聞くと、想は一拍置いた。答えを選ぶ時間。
「直せないものがあるのが。……それでも、直そうって言うのが」

 望愛は、木箱を抱えたまま、想の言葉を受け取った。想はいつも、手が先に動く。言葉は後から、必要な分だけ。そんな想が、怖いって言った。それだけで、胸の奥が少し温かくなる。

「怖いって言えたら、少しは動く?」
 望愛が言うと、想は頷いた。
「動く。……たぶん」
「たぶん、って」
「確実って言うと、怖くなるから」

 望愛は笑った。冷たい空気の中で、笑うと息が白くなりそうな気がした。まだ白くならない。でも、確かに温かいものが喉の奥に戻ってきている。

 想が、木箱の金具のあたりに手を伸ばした。触れる直前で止める。望愛に許可を求めるみたいに。
「今日、抱えて帰ってきたんだ」
「うん。……戻したくなかった」
「戻すのは、失うのと違う」
 想は言い切らずに、そう置いた。

 望愛は黙って、木箱を少しだけ持ち上げた。想の手が、金具にそっと触れる。冷たさが、二人の間を渡る。渡った冷たさの向こうに、約束の形が見えた気がした。

「結衣に、鳴ったら聞かせるって言った」
 望愛が言うと、想は小さく頷いた。
「聞かせよう。……その日まで、ここに置いておこう」

 “その日”がいつか、二人とも今は言わない。言うと、逃げそうだから。でも、言わなくても、同じ方向を見ているのが分かった。

 望愛は木箱を胸に戻した。怖さはまだある。冬の入口の冷たさみたいに、指先に残る。でも、握ったまま歩ける。
 街灯の光が、二人の影をもう一度長く伸ばした。

【続】