梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第12話 合唱の前日、声が出ない日

 文化祭の片づけが終わった翌週、音楽室は急に忙しくなった。窓の外の木々はまだ青さを残しているのに、夕方の風だけが先に冬の匂いを混ぜてくる。明日の放課後、体育館で合唱発表がある。クラス全員で歌う、ただそれだけのはずなのに、楽譜の角が折れたり、椅子がきしんだりする音まで、今日は妙に大きく聞こえた。

 望愛は、いつもより早く音楽室に入って、黒板の前に貼られた歌詞を見上げた。自分の担当は二番の出だし。たった二行。けれど「ここから曲の景色が変わる」と先生が言ってから、その二行は、机の上の消しゴムみたいにころころ転がって落ち着かない。

「じゃ、発声いくぞ。あえいうえおあお!」

 寿樹が率先して声を出した。率先しすぎて、窓ガラスがびりっと震えた気がした。男子数人がつられて声を張り、女子は笑いながら口を動かす。先生が譜面台をぱちんと叩いた。

「寿樹、腹からじゃなくて耳から! 聞いて合わせて!」

「耳から!? どうやって!?」

 寿樹が本気で耳を引っぱるので、音楽室が一斉に噴き出した。先生は笑うのをこらえながら、指先でテンポを刻む。笑い声が落ち着いて、ピアノの一音が鳴った。全員の息がそろって、歌が始まる。

 望愛も口を開いた。いつもなら、そこから自然に音が出る。けれど今日は、喉の奥が乾いた紙みたいに張りついて、息だけが空回りした。声が、出ない。焦って吸い込んだ空気が咳になり、肩が跳ねた。

「望愛、無理しない。水飲んで。今日は歌わなくていい」

 先生の声は早口だった。けれど怒鳴らない。その落ち着いた調子が、かえって胸をきゅっと締めた。歌わなくていい、が「いなくても曲は進む」に聞こえてしまう。望愛は頷いたつもりで、首の角度だけ動かした。声が出ないのは、悪いことじゃない。たぶん。そう考えようとして、考えるほど喉が固くなる。

 練習は続いた。寿樹は「耳から」を気にしすぎて、今度は耳を澄ませすぎて歌い出しを一拍遅らせ、明乃に肘でつつかれていた。想は列の端で、譜面を持つ手だけが静かに動く。歌っているのに、必要以上に前へ出ない。望愛はその横顔を見て、息を整えようとした。

 終礼のチャイムが鳴り、クラスはばたばたと帰っていった。机の下に落ちた鉛筆を拾う音、椅子を戻す音、廊下へ出ていく足音。それらが遠ざかっても、望愛は音楽室に残った。冷たいピアノの蓋に指先を置く。指先だけが、今日の自分を先に理解している気がした。

 背後で、扉が静かに開いた。

 想だった。楽譜を一枚、譜面台に戻している。望愛は「帰っていいよ」と言いたかったが、唇が空気を撫でただけで、音にならない。想はそれを見て、何も聞かなかった。代わりに、カバンから小さな袋を出し、机の端にそっと置いた。のど飴。袋の上には、購買のレシートが半分だけはみ出している。

 望愛は袋を見つめ、手のひらで「ありがとう」を作るみたいに軽く押した。想は頷くだけで、音楽室の片隅へ歩いた。文化祭のあと、想が運び込んだ鍵付きの透明ケースがそこにある。中の木箱は、相変わらず鳴らないまま、静かに収まっていた。

 望愛はケースの前へ行った。鍵穴は閉じたまま。開けられるのに、開けない。文化祭の日に一度揺れたことが、まだ胸に残っている。揺れたのに、何も起きなかったことも。

 望愛は、アクリル越しに木箱へ顔を近づけた。自分の息が白くならない季節なのに、なぜかガラスが少し曇る。

「……明日だけでいい、鳴いて」

 声は出ないはずなのに、囁きだけは落ちた。音というより、胸の内側から滑り落ちた気配。望愛は自分でも驚いて、喉に手を当てた。痛くない。ただ、空っぽみたいだ。

 そのとき、音楽室の外、廊下側の扉がこつんと鳴った。

「鳴かせるのは、あなた」

 明乃の声だった。姿は見えない。ドア越しの声は、いつもみたいに針を立てないのに、逃げ道をふさぐみたいに真っすぐだった。

 望愛は振り向けなかった。振り向いたら、今の囁きが嘘になる気がしたから。代わりに、ケースの下に置かれた小さな紙片を見つけた。文化祭で使った説明文の残り。望愛はペンを取り、紙の端に一行だけ書いた。

 ――明日は、二行だけでいい。

 想が、望愛の書いた文字を覗き込まない距離で立った。代わりに、ケースの上に手のひらを置く。木箱ではなく、望愛の息が落ちた場所を守るみたいに。

 廊下で、明乃がくすっと笑った気配がした。

「寿樹には言わないでね。明日、“耳から”がまた増えるから」

 望愛は声の代わりに、肩を小さく揺らした。笑うと、胸が少しだけ軽くなる。軽くなるぶん、明日の怖さが形になる。それでも望愛は、のど飴の袋を握りしめて、ケースの中の木箱を見つめた。

 鳴らない箱と、声の出ない自分が、少しだけ似ている。
 でも、似ているなら、同じように変われるかもしれない。

【続】