第11話 文化祭、鳴らないままの主役
十月の風は、九月より少しだけ意地悪になっていた。校門の前の銀杏はまだ青いのに、落ち葉だけ先に勝手に増える。文化祭まであと三日。放課後の廊下は、段ボールとガムテープと、どこかのクラスの絵の具の匂いが混ざって、鼻が忙しい。
図書室も例外じゃなかった。「雨の日の本棚」を文化祭で紹介する、と決めたのは望愛だ。梅雨のころ、棚札を作ったときの自分は、もう少し軽かった気がする。今は、胸の中に写真が一枚、貼りついて離れない。
――木箱を抱えた、名札が「のあ」の子。
望愛は、作業机の上に色紙を広げていた。棚札の追加を作るためだ。黒のサインペンを握る指先が、時々、変なところで止まる。止まるたびに、紙の上に小さな点ができる。
「点、多いね」
明乃が言った。カウンターの向こうで、チラシをホチキスで留めながら、視線だけこちらに寄せる。
「雨粒ってことにしとく」
望愛が答えると、明乃はホチキスを一度止めて、口の端を少し上げた。
「じゃあ、梅雨に戻ったね」
笑いそうになって、望愛は笑わなかった。笑うと、そのまま崩れそうで怖い。怖い、という言葉を自分の中で使うと、もっと怖くなるから、代わりに「忙しい」と言い換える癖がついた。
ドアが勢いよく開いた。
「木材、確保! ついでに釘も確保! ついでに俺のやる気も確保!」
寿樹が板を抱えて入ってくる。板の角に肩が押されて、制服の襟が少し曲がっているのに気づいていない。
「それ、図書室の床に傷がつく確保」
想が、すぐ後ろから入ってきて、寿樹の板の下に古い毛布をさっと敷いた。毛布はどこから出したのか分からない。いつも、必要なものが必要なときに出てくる。
「おお、気が利く! 毛布担当も確保!」
「担当じゃない。敷いただけ」
寿樹は作業机の横に板を置き、胸を張った。
「文化祭、俺たちの図書室が一番目立つようにする。雨の日の棚、看板つけて、照明も当てて、――」
そこで寿樹の視線が、鍵付きのケースに止まった。棚の奥の定位置に置かれている、あの木箱が入ったケースだ。鍵はいつも想が持っている。
「……あれも展示する?」
寿樹が声を落とした。さっきまでの勢いが、急に畳の上のスリッパみたいに静かになる。
望愛の喉が、きゅっと鳴った。鳴ったのは喉で、木箱じゃない。木箱は今日も鳴らない。
「展示って……置く、だけだよね」
言いながら、自分の手が色紙の端をぎゅっと掴んでいるのが分かった。紙が少し波打つ。
想は答えずに、ケースの鍵穴を見た。見ているだけなのに、空気が落ち着く。望愛は、その視線の落ち着きに、こっそり息を合わせる。
「置く、だけって言うけどさ」
明乃がホチキスを打ち終えて、椅子から立った。「置く」って言うと、軽い。けど、そこに置いた瞬間から、誰の目にも入る。
「見られる、ってことだよ」
明乃は、わざと怖がらせるような声は出さない。ただ、事実みたいに言う。
望愛は頷いた。頷いたら確定する、と前は思った。でも、今日は頷かないと、いまの気持ちが宙ぶらりんで、もっと苦しい気がした。
「見られたくない?」
寿樹が聞いた。聞き方が、不器用なくせに丁寧だった。
望愛は首を横に振りかけて、途中で止めた。横に振りきると嘘になる。縦に振りきると、また怖くなる。
「……見られても平気なふり、はできる」
それが精一杯の答えだった。
想が、ポケットから鍵を出した。銀色が、蛍光灯の光を受けて小さく光る。
「ふり、でいいなら」
想は鍵を握ったまま、ケースに近づいた。開けない。開けないまま、ケースの上に手のひらを置く。木箱を撫でるみたいに。
「展示する場所、俺が決める。人が触れられない位置。説明も付ける」
「説明?」
寿樹が首を傾げる。
「“触らないでください”って書く」
「それ、文化祭で一番大事な文章じゃん」
明乃が言い、寿樹が真剣な顔で頷いた。
準備は、予想どおり寿樹の勢いで進んだ。寿樹は板を組んで、棚の前に小さな台を作り始めた。釘を打つ音が、図書室の静けさを、文化祭仕様に塗り替えていく。
「うおっ」
突然、寿樹が手を引っ込めた。金槌が、指ではなく空気を叩いた音がした。
「やった?」
望愛が立ち上がるより早く、明乃の手が動いた。ポケットから絆創膏が二枚、出てきた。しかも柄付きだ。なぜポケットに、二枚も、柄付きが。
「……いつから持ってたの」
寿樹が指を押さえながら聞くと、明乃はさらっと言った。
「文化祭の準備は、指が叩かれる日がある。昨日、予感した」
「予感って……」
寿樹が呆れる前に、想が冷静に言った。
「出血してないなら、その柄、もったいない」
「もったいないって言うな! かわいいだろ!」
寿樹が反論し、望愛は思わず小さく笑った。笑った瞬間、胸の重さが一ミリだけ動いた気がする。
文化祭当日。図書室の入り口に「梅雨と雨恋」の札が吊られ、棚には雨にまつわる本が並んだ。窓際の台の上に、鍵付きのケースが置かれている。透明なアクリル板で囲われ、手が伸びても届かない位置。想の字で、白い紙が貼られていた。
――触らないでください。中の木箱は、雨の日にだけ開けます。
「雨の日にだけって、いつ雨なんだよ」
寿樹が小声で突っ込み、明乃が同じくらい小声で返す。
「天気予報に聞いて」
「予報、当たらないことあるじゃん」
「じゃあ、寿樹が走って雲を集める」
「俺、雲係かよ」
来場者は、予想以上に多かった。特に小学生の親子が、「雨の日の本棚」に足を止める。子どもが絵本を抱えて笑う声を聞くたび、望愛の胸の奥で、写真の女の子が少しだけ動く。
午後、図書室の隅で、望愛は一人になった瞬間があった。人の波が切れた、ほんの数分。ケースの前に立つ。アクリル越しの木箱は、相変わらず静かだった。
望愛は、声を出さずに唇だけ動かした。
――見つけたよ。
言葉にしたら、本当に戻れなくなる気がして、音にしない。
そのとき、ケースが、ほんのわずかに震えた。机が揺れたのか、風が当たったのか、どちらでも説明できそうなほど小さい。でも望愛の目は、その揺れを見逃さなかった。
背後で、想の足音が止まる。
望愛は振り向かない。振り向いたら、涙が落ちそうだから。
「今、揺れた」
望愛が言うと、想は否定しなかった。
「うん。揺れた」
想は、それだけ言って、望愛の隣に立つ。ケースと同じ方向を見て、同じ距離で息をする。
図書室の外から、廊下のざわめきが届く。文化祭の熱気はまだ続いている。だけど、ここだけ少し雨の日みたいに静かだった。
望愛は、アクリル越しに木箱を見つめた。
鳴らないまま、主役みたいにそこにいる。
望愛は胸の中で、もう一度だけ言った。
――見つけたよ。今度は、置いていかない。
【続】
十月の風は、九月より少しだけ意地悪になっていた。校門の前の銀杏はまだ青いのに、落ち葉だけ先に勝手に増える。文化祭まであと三日。放課後の廊下は、段ボールとガムテープと、どこかのクラスの絵の具の匂いが混ざって、鼻が忙しい。
図書室も例外じゃなかった。「雨の日の本棚」を文化祭で紹介する、と決めたのは望愛だ。梅雨のころ、棚札を作ったときの自分は、もう少し軽かった気がする。今は、胸の中に写真が一枚、貼りついて離れない。
――木箱を抱えた、名札が「のあ」の子。
望愛は、作業机の上に色紙を広げていた。棚札の追加を作るためだ。黒のサインペンを握る指先が、時々、変なところで止まる。止まるたびに、紙の上に小さな点ができる。
「点、多いね」
明乃が言った。カウンターの向こうで、チラシをホチキスで留めながら、視線だけこちらに寄せる。
「雨粒ってことにしとく」
望愛が答えると、明乃はホチキスを一度止めて、口の端を少し上げた。
「じゃあ、梅雨に戻ったね」
笑いそうになって、望愛は笑わなかった。笑うと、そのまま崩れそうで怖い。怖い、という言葉を自分の中で使うと、もっと怖くなるから、代わりに「忙しい」と言い換える癖がついた。
ドアが勢いよく開いた。
「木材、確保! ついでに釘も確保! ついでに俺のやる気も確保!」
寿樹が板を抱えて入ってくる。板の角に肩が押されて、制服の襟が少し曲がっているのに気づいていない。
「それ、図書室の床に傷がつく確保」
想が、すぐ後ろから入ってきて、寿樹の板の下に古い毛布をさっと敷いた。毛布はどこから出したのか分からない。いつも、必要なものが必要なときに出てくる。
「おお、気が利く! 毛布担当も確保!」
「担当じゃない。敷いただけ」
寿樹は作業机の横に板を置き、胸を張った。
「文化祭、俺たちの図書室が一番目立つようにする。雨の日の棚、看板つけて、照明も当てて、――」
そこで寿樹の視線が、鍵付きのケースに止まった。棚の奥の定位置に置かれている、あの木箱が入ったケースだ。鍵はいつも想が持っている。
「……あれも展示する?」
寿樹が声を落とした。さっきまでの勢いが、急に畳の上のスリッパみたいに静かになる。
望愛の喉が、きゅっと鳴った。鳴ったのは喉で、木箱じゃない。木箱は今日も鳴らない。
「展示って……置く、だけだよね」
言いながら、自分の手が色紙の端をぎゅっと掴んでいるのが分かった。紙が少し波打つ。
想は答えずに、ケースの鍵穴を見た。見ているだけなのに、空気が落ち着く。望愛は、その視線の落ち着きに、こっそり息を合わせる。
「置く、だけって言うけどさ」
明乃がホチキスを打ち終えて、椅子から立った。「置く」って言うと、軽い。けど、そこに置いた瞬間から、誰の目にも入る。
「見られる、ってことだよ」
明乃は、わざと怖がらせるような声は出さない。ただ、事実みたいに言う。
望愛は頷いた。頷いたら確定する、と前は思った。でも、今日は頷かないと、いまの気持ちが宙ぶらりんで、もっと苦しい気がした。
「見られたくない?」
寿樹が聞いた。聞き方が、不器用なくせに丁寧だった。
望愛は首を横に振りかけて、途中で止めた。横に振りきると嘘になる。縦に振りきると、また怖くなる。
「……見られても平気なふり、はできる」
それが精一杯の答えだった。
想が、ポケットから鍵を出した。銀色が、蛍光灯の光を受けて小さく光る。
「ふり、でいいなら」
想は鍵を握ったまま、ケースに近づいた。開けない。開けないまま、ケースの上に手のひらを置く。木箱を撫でるみたいに。
「展示する場所、俺が決める。人が触れられない位置。説明も付ける」
「説明?」
寿樹が首を傾げる。
「“触らないでください”って書く」
「それ、文化祭で一番大事な文章じゃん」
明乃が言い、寿樹が真剣な顔で頷いた。
準備は、予想どおり寿樹の勢いで進んだ。寿樹は板を組んで、棚の前に小さな台を作り始めた。釘を打つ音が、図書室の静けさを、文化祭仕様に塗り替えていく。
「うおっ」
突然、寿樹が手を引っ込めた。金槌が、指ではなく空気を叩いた音がした。
「やった?」
望愛が立ち上がるより早く、明乃の手が動いた。ポケットから絆創膏が二枚、出てきた。しかも柄付きだ。なぜポケットに、二枚も、柄付きが。
「……いつから持ってたの」
寿樹が指を押さえながら聞くと、明乃はさらっと言った。
「文化祭の準備は、指が叩かれる日がある。昨日、予感した」
「予感って……」
寿樹が呆れる前に、想が冷静に言った。
「出血してないなら、その柄、もったいない」
「もったいないって言うな! かわいいだろ!」
寿樹が反論し、望愛は思わず小さく笑った。笑った瞬間、胸の重さが一ミリだけ動いた気がする。
文化祭当日。図書室の入り口に「梅雨と雨恋」の札が吊られ、棚には雨にまつわる本が並んだ。窓際の台の上に、鍵付きのケースが置かれている。透明なアクリル板で囲われ、手が伸びても届かない位置。想の字で、白い紙が貼られていた。
――触らないでください。中の木箱は、雨の日にだけ開けます。
「雨の日にだけって、いつ雨なんだよ」
寿樹が小声で突っ込み、明乃が同じくらい小声で返す。
「天気予報に聞いて」
「予報、当たらないことあるじゃん」
「じゃあ、寿樹が走って雲を集める」
「俺、雲係かよ」
来場者は、予想以上に多かった。特に小学生の親子が、「雨の日の本棚」に足を止める。子どもが絵本を抱えて笑う声を聞くたび、望愛の胸の奥で、写真の女の子が少しだけ動く。
午後、図書室の隅で、望愛は一人になった瞬間があった。人の波が切れた、ほんの数分。ケースの前に立つ。アクリル越しの木箱は、相変わらず静かだった。
望愛は、声を出さずに唇だけ動かした。
――見つけたよ。
言葉にしたら、本当に戻れなくなる気がして、音にしない。
そのとき、ケースが、ほんのわずかに震えた。机が揺れたのか、風が当たったのか、どちらでも説明できそうなほど小さい。でも望愛の目は、その揺れを見逃さなかった。
背後で、想の足音が止まる。
望愛は振り向かない。振り向いたら、涙が落ちそうだから。
「今、揺れた」
望愛が言うと、想は否定しなかった。
「うん。揺れた」
想は、それだけ言って、望愛の隣に立つ。ケースと同じ方向を見て、同じ距離で息をする。
図書室の外から、廊下のざわめきが届く。文化祭の熱気はまだ続いている。だけど、ここだけ少し雨の日みたいに静かだった。
望愛は、アクリル越しに木箱を見つめた。
鳴らないまま、主役みたいにそこにいる。
望愛は胸の中で、もう一度だけ言った。
――見つけたよ。今度は、置いていかない。
【続】


