梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第10話 施設の庭で、雑巾が走る

 七月の終わり、午前十時。雲は薄くて、陽射しだけが妙に元気だった。蝉の声が、校門からバス停までずっと追いかけてくる。望愛は日傘の内側にたまる熱を逃がすみたいに、ゆっくり息を吐いた。手の中には、空き家の郵便受けから出てきた封筒の住所印を写したメモがある。紙が汗で少し柔らかい。

「子育て支援センター……って、保育園の親戚みたいな名前だな」
 寿樹が看板を見上げて言い、隣で明乃が首をかしげた。
「親戚って何。親戚は『お盆』で集まるやつ」
「じゃあ、ここは……平日集会所?」
「集会所は言い方が怖い。お茶会室くらいにしといて」
 明乃の突っ込みに、寿樹は「お茶会室!」と一回だけ嬉しそうに復唱した。

 建物は、昔の施設の面影が残る淡いクリーム色だった。門の横に、小さな花壇。雨で育ったツルが、柵を器用に編んでいる。玄関のガラス扉を開けると、冷房の風が一度だけ顔を撫でた。受付カウンターには、折り紙の飾りと、手形の作品が並んでいる。望愛は、その手形の小ささに、なぜか目を逸らせなかった。

「ご用件は?」
 職員の女性が、優しい声で問う。想が一歩前へ出る。声の量は変えずに、言葉だけを丁寧に置いた。
「昔、ここに寄付された木箱のことを探しています。オルゴールで……学校の図書室にあったものです」
 想が持ってきた写真――木箱の刻印と、封筒の差出人――を見せると、女性は目を細めた。
「あ、懐かしい名前。『いちごの家』のころの……ええと、資料室に写真があるかもしれません。少しお待ちくださいね」
 そう言って奥へ消える背中が、せかせかしていないのに早い。寿樹が小声で言った。
「プロの歩き方だ……」
「何のプロ」
「受付のプロ」
「それは、ただの受付さん」
 明乃が言い切ると、寿樹は「受付さん、すごい」と素直に頷いた。

 待合のソファに腰を下ろすと、壁の掲示板に「今日の相談員」と書かれた紙が貼ってある。望愛は文字を追いかけて、途中で止めた。見てしまうと、名前が増えて、世界が具体的になる。具体的になると、自分のことも逃げられなくなる。木箱の存在が、ただの「古いもの」ではなくなる。

 想が、望愛の手元を見た。封筒の角を握る指先が白い。
「大丈夫?」
 望愛は「うん」と言い、続けて言い直した。
「……うん、じゃない。たぶん、手が勝手に固くなってる」
 言ってしまった瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。自分の状態を言葉にしただけで、ほどける糸がある。

「今の、いいね」
 明乃がさらっと言う。誉めるでも励ますでもなく、事実確認みたいに。寿樹が「俺も言っていい?」と身を乗り出した。
「言う内容による」
「……俺、蚊に刺されると、足が勝手に踊る」
「それは、さっき見た」
 明乃が即答し、望愛の口角が危うく上がりかけた。

 そのとき、廊下の奥から、ちいさな足音が弾むように近づいてきた。よちよち歩きの子が、職員らしき人の手を振りほどいて、廊下を一直線に走ってくる。手には、青い雑巾。
「だめー! それ、おそうじ!」
 追いかける職員の声より、子どもの笑い声のほうが大きい。

 寿樹が反射で立った。
「待って、雑巾は俺の仲間だ!」
「仲間!?」
 職員も明乃も同時に声を出した。望愛は思わず想を見た。想は、眉ひとつ動かさずに、寿樹の背中を避けるように少しだけ横へずれた。避け方が静かすぎて、逆に笑いが来る。

 子どもは玄関の外へ飛び出し、花壇の横をくるりと回った。寿樹が靴を履くのも忘れて追いかけ、途中でスリッパが「ぱたん」と脱げた。
「雑巾、返して!」
「やだー!」
「やだって言われたら……いや、返して!」
 寿樹の叫びは、真剣なのに、肝心なところで声が裏返る。庭の芝生に落ちたスリッパを拾いながら、明乃が淡々と言った。
「寿樹、雑巾に振られてる」
「振られてない! 交渉中だ!」
「交渉相手、三歳以下」
「年齢差の交渉だ!」
「余計だめ」

 望愛は、腹の底で笑いが膨らむのを感じた。笑うと、胸の固さが一瞬だけほどける。だけど、その笑いの向こうに、さっき避けた手形がある。小さな手。雨の日の匂い。六月十六日の数字。自分の中で、違う色の糸が絡まり始める。

 庭の端で、寿樹がついに雑巾を取り返した。勝利のポーズを取った瞬間、子どもが「もういっかい!」と手を伸ばす。寿樹は雑巾を胸に抱え、真顔で答えた。
「それは……洗ってから!」
 職員が額の汗を拭きながら、笑って頭を下げる。
「すみません、いつもこうで。皆さん、見学ですか?」
「見学っていうか……探し物で」
 寿樹が雑巾を持ったまま言うので、職員の目が一瞬だけ雑巾に吸い寄せられた。明乃が小声で「探し物、雑巾じゃない」と補足する。

 そこへ、先ほどの受付の女性がファイルを抱えて戻ってきた。紙の束を大事そうに胸に当て、汗をかかない歩き方で、四人の前に座る。
「ありました。写真だけなんですけど……当時の行事のアルバムです」
 女性は、言葉の中に「昔」を丁寧に入れてから、アルバムを開いた。

 色あせた写真が並ぶ。庭で水遊びをしている子。給食のメニューを持って笑っている子。玄関の前で、職員と一緒に並ぶ子。望愛は、ページをめくるたびに、心臓の位置が少しずつ上にずれていく気がした。

 想が指先で一枚の写真を押さえた。そこには、職員に囲まれて立つ小学生の女の子が写っている。抱えているのは、見覚えのある木箱だった。木の角の丸み。蓋のすり傷。望愛が何度も指でなぞった場所。

 女の子の胸には、紙の名札が安全ピンで留められている。そこに、丸い字で書かれていた。

 ――のあ。

 望愛の喉の奥が、ひゅっと狭くなる。笑いが、途中で止まった。
「……同じ読み」
 声が自分のものじゃないみたいに、薄く震えた。

 寿樹が「え?」と首を傾げ、明乃が言葉を探す前に、想が写真から視線を上げた。望愛の顔を見て、何かを言いそうで、言わなかった。言わない代わりに、アルバムの端から手を離さない。落ちないように、支えるだけ。

 望愛は、写真の女の子の目を見た。こちらを見ていない。誰かの横を見て、少しだけ口を開けている。笑っているのか、泣きそうなのか、判断できない表情。その曖昧さが、望愛の胸をいちばん痛くした。

「望愛?」
 明乃が呼ぶ。いつもより低い声だった。

 望愛は頷こうとして、首がうまく動かなかった。頷いたら、確定してしまう。確定すると、今まで「分からないまま」にしていたものが、全部こちらへ向かって歩き出す。

 庭のほうから、子どもの笑い声がまだ聞こえる。雑巾は走らない。走っているのは、望愛の心臓だ。

【続】