梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第1話 雨音の図書室と、鳴らない箱

 六月のはじめ。梅雨前線が居座り、校舎の窓ガラスに細い雨筋がいくつも走っていた。昼休みの図書室は、ページをめくる音より、雨樋の「とん、とん」という控えめな打音のほうがよく聞こえる。湿った紙の匂いと、古い木棚の甘い埃が混ざって、鼻の奥が少しだけむずがゆい。

 望愛は、貸出カウンター脇の作業机に、古い段ボールを積み上げていた。図書委員の当番表には「備品整理」と書いてある。朝の職員室で先生に言われた言葉が、まだ耳の端に残っている。
「今週中に、使ってないものは処分するからね。手伝って」

 棚の奥から出てくる箱や束を見ていると、胸の奥がわずかにざらつく。捨てる、と口にされるだけで、指先が一瞬だけ止まるのを、望愛は自分でも気づいていた。止まる理由を説明しようとすると、言葉が足りなくなる。だから今日は、黙って手を動かすことにしている。

 段ボールの底で、木箱が鳴らずに待っていた。
 手のひらに乗せると、ひんやりして重い。金具は錆び、蓋の隙間に紙が一枚、挟まっている。木肌に残る傷の並びが、何度も持ち運ばれた感じを伝えてきた。

「それ、図書室の備品? なんか、宝箱っぽい」

 背後から聞こえた声に、望愛は肩をすくめた。寿樹が、雑巾とビニール袋をぶら下げて入ってくる。雨の日は床が濡れるから、と言いながら、いつも誰より先に拭き始める。今もカウンター前の水たまりに、迷いなく雑巾を押し当てた。

「宝箱なら、もう少しキラキラしてると思う」
 望愛がそう返すと、寿樹は雑巾を持ち上げて得意げに言った。
「じゃあ、俺がキラキラ担当。床、キラッキラにする」

 次の瞬間、寿樹は自分で作った“キラッキラ”に足を取られた。
 ツルン、と音がしそうなほど見事に滑り、両手の雑巾が空を舞う。本人は必死に踏ん張ったつもりらしいが、ついでに椅子の脚を押してしまい、椅子が「ぎぃ」と鳴った。

「……床、磨きすぎ」
 望愛が言うと、寿樹は床に座ったまま、雑巾を胸に抱えた。
「俺、今、図書室に負けた」
「負ける相手、床でいいの?」
 望愛が小さく笑うと、寿樹は「今日は床が強い」と真面目な顔で答える。笑ってしまったせいで、望愛の胸のざらつきが、ほんの少しだけ薄くなった。

 そこへ、濡れた傘を畳みながら想が入ってきた。傘の水滴をきちんと振り落とし、床に一滴も落とさないように立ち回る。その手つきだけで、雨の日の面倒を知っているのが伝わる。理科室の時計が止まったときも、誰に言われるでもなく直していたのを、望愛は思い出す。

「先生、あと十分で次の授業って言ってた」
 想は時間を告げ、机に置かれた木箱に視線を落とした。
「それ、何?」

「段ボールの底にあった。……捨てるの、かな」
 望愛が言い終える前に、想は「まず聴く」と短く言った。想は大げさな表情を作らない。けれど、必要なときだけ、手が迷わない。木箱をそっと受け取り、蓋を開けずに、耳を寄せる。

 雨音が、すぐ隣に来たみたいに近づいた。
 それ以外は――無音。

 望愛は、息を止めてしまっていたことに気づく。想が顔を上げ、木箱の表面を指でなぞった。古い木目の凹凸が指先に引っかかる。

「鳴らない。オルゴールだと思うけど」
「鳴らないオルゴールって、逆にすごい。芸術点、高い」
 寿樹が床から立ち上がりながら言い、もう一度滑りかけて慌てて壁に手をついた。
「寿樹、歩くのに集中」
 想が淡々と言うと、寿樹は「はいっ」とやけに良い返事をする。

 そのとき、明乃が図書室の入口で足を止めた。廊下側の空気が一瞬だけ冷たい。明乃は、傘を立てかけ、濡れた袖口を軽く絞ると、机の上を覗き込み、紙片に目を留めた。

「挟まってる、それ。読んでいい?」
 望愛が紙を取って渡すと、明乃は一度だけ眉を動かし、読み上げた。
「……『梅雨と雨恋』。題名みたい」
「本のタイトル?」
 寿樹が首をかしげる。明乃は「棚札にしたら人気出そう」とさらっと言い、想は紙の裏側をひっくり返した。

 走り書きの数字が、湿気で少しにじんでいる。
 ――「六月十六日」。

 望愛の指先が、木箱の縁を強く押した。冷たいはずの金具が、なぜか熱い。誰の数字か、何の数字か、分からないのに、胸の奥のざらつきだけが、具体的な形を持ち始める。言葉にすると壊れそうで、望愛は視線を紙から外せなかった。

「六月十六日……来週?」
 寿樹が、当たり前のようにカレンダーを思い浮かべる声で言った。
 明乃は寿樹の顔を見てから、望愛を見る。
「望愛、今、手が止まった」
「止まってないよ」
 望愛は否定しながら、指先をそっと動かした。動くのに、少しだけ力が要る。

 想は頷かず、否定もしない。ただ木箱を閉じ、鍵もないのに、守るみたいに両手で包んだ。
「捨てる前に、確かめよう」
 想の声は小さかったが、雨音の中でもはっきり届いた。

 望愛は、うまく言えないまま頷いた。言葉にならない「やめて」が、喉の奥でほどけていく。机の上の木箱は、鳴らないくせに、みんなの視線を集め続ける。

 帰りのチャイムが鳴る直前、望愛は自分のノートを開き、空いた行に一行だけ書いた。
 ――「今日、捨てなかった」。

 雨は止まない。けれど、図書室の空気だけが、少しだけ前へ動いた気がした。
【続】