『通行人が次々と襲われる事件があり、警察は―――』
リビングのテレビ画面には、神妙な面持ちでマイクを握るニュースキャスターと、その背後で黄色い規制線に囲まれた薄暗い路地裏の映像が映し出されていた。
私のスマホら漏れ聞こえるテレビの音声に反応したのか、通話口の向こうで美穂ちゃんの声が小さく震える。
『また出たんだ。連続通り魔』
「通り魔?」
『知らない?最近話題になってたの。無差別に人を襲うんだって』
「物騒だね」
(現世も物騒な世の中だな〜……)
「今日、遊びに行く予定だったけど、どうする?延期にする?」
『大丈夫だよ。今回は人出の少ないとこじゃないから大丈夫だと思うけど』
「そら危機感なさすぎでしょ」
低い呆れ声がして振り返ると、リビングのソファで完全に寝落ちしていたはずの変成くんが、毛布をミノムシのように巻き付けながら頭だけをひょっこり出して呟いていた。
腕時計を確認すると、そろそろ家を出ないと美穂ちゃんとの待ち合わせ時間に遅れてしまう。私は「じゃあ後でね〜!」と美穂ちゃんとの通話を切り、お気に入りのリュックを背負う。
「あ、おはよー。変成くん」
「はいはい、おはよー」
ボサボサの頭を掻きながら、もぞもそと毛布の防壁から這い出てきた変成くんは、まだ眠そうに大きな欠伸を噛み殺している。
「殺人鬼がうろついてる街中をスイーツの為だけに出歩くの?流石だね。それともただ頭が悪いだけの馬鹿なの?」
「だ、だだ大丈夫!もし亡者だった場合は地獄に堕としたら良いだけだから!」
「他人だった場合は?亡者じゃない場合はどうするの?ねぇ?」
出掛け際にぐちぐちと正論で小言を言ってくる変成くんの声を背中で振り払い、「行ってきます!」と勢いよくドアを閉めて待ち合わせ場所へと急いだ。
***
「おはよー!ごめん、遅れた」
「良いよ良いよ。私もさっき来たから」
休日の駅のホーム。大勢の利用客で賑わう中、約束のベンチで待っていた美穂ちゃんを見つけて大きく手を振りながら駆け寄る。
今日の美穂ちゃんは、学校で見せるいつもの制服姿とはガラリと雰囲気が違う、パステルカラーの春らしいお洒落な私服姿。お気に入りの赤いリボンも髪のボブカットにバッチリ決まっていて、いつも以上に一段と可愛い。
それに比べて、私は冥府で着ていた服のまま……というわけにはいかないから、一応現世に馴染みそうな普通の私服を着てはいるけれど、やっぱり美穂ちゃんの洗練されたお洒落さには敵わない気がする。
「スイパラ、楽しみだね!」
「うん!」
今日、私と美穂ちゃんはスイパラというスイーツ食べ放題のお店に行く。地獄にはなかったから、楽しみっ!
ホームを通過し、電車に乗る。
「ふわぁ……朝の電車って、眠くなるよねー」
吊り革を握りながら欠伸をかみ殺す。
「あはは、確かに!そういや、朝ご飯抜いてきた?」
「もちろん!」
周りは私達みたいに遊びに行く人達でいっぱい。
スーツの人、スマホいじる人、イヤホンつけてる人。
なんてことのない、普通の朝。
―――の、はずだった。
ガタン、と電車が大きく揺れた。
ざわざわと周囲が騒ぎ出す。
車内放送が入るかと思ったけれど、何も流れない。
そのとき、ドアの前に立っていた男がゆっくりと顔を上げた。
フードを深くかぶり、目の下にはクマ。手には―――黒い金属の筒。
「全員、動くな」
低く乾いた声が響いた瞬間、車内の空気が完全に凍りついた。
嘘でしょ。よりにもよって、待ちに待ったスイパラの日にこんな大事件に巻き込まれるなんて!?
「スマホは出すな。警察にも通報するな」
男の声は驚くほど落ち着いていて、その感情の欠落したトーンが余計に恐怖を煽る。乗客たちが息を呑み、怯えたように身を縮めた。犯人の男はギラついた目で車内を見回し、私の目の前でピタリと動きを止める。
「人質は……お前で良いか」
言うが早いか、男は私の腕を乱暴に掴み、冷たい黒い筒の銃口を私の頭に容赦なく突き付けてきた。
「え……?」
「あぁ、その恐怖に染まった顔、まさに絶望の色ですねぇ」
「ま、待って!何でそんなことするの……?」
「どうせまた地獄に戻るくらいなら、少しでも人を殺したいじゃないですか!」
犯人は狂ったように「アーハハハ!」と勝ちを確信した高笑いを上げた。
……って、ちょっと待って。今、この男の口から信じられない単語が出たぞ。地獄に戻るって言った?
「っ……!やっぱり、亡者じゃん!」
思わず声が出た瞬間、男―――いや、亡者の目がギロリと光った。
「おや?分かるんですか、私が『こちら側』の人間だと」
「そ、そりゃまぁ……十王だし」
「あははっ、良いですねぇ。貴方は冥府の王ですか。良いですねぇ、もっと怯えてください。もっと、もっと……」
ぞわり、と背筋を氷の指で直接撫でられたような嫌な感覚が走る。
黒い金属の筒がぐっと額に力任せに押し付けられた。金属の異常な冷たさが、肌を通して生々しい現実を突きつけてくる。隣では、美穂ちゃんが完全に顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。
……と、その瞬間。
凄まじい風切り音と共に、一振りの鋭い刀が亡者の胸元を寸分の狂いもなく貫き、背後の床へと突き刺さった。
視線を動かすと、いつの間にか車両の隅に青年が一人立っていた。
黒を貴重に赤を差した道服を身にまとい、肩より短く切り揃えた赤髪の下から鋭い瞳が覗いていた。
「全く……何をノロノロしている」
低く呆れた、でも聞き慣れたその声の主は―――
「しょーくん!」
「はぁ……またお前か」
呆れながら私を見て呟く初江王こと、しょーくん。
彼もまた、私と同じ十王の一人だ。自分にも他人にも厳格な刀の達人だけど、実は大の動物好きというギャップを持つ男。この超次元の刀を投げたのも、間違いなく彼だ。
「地獄は怖くないです。何百年もいましたから。だからこそ、あの地獄に戻るなら何か大きなことをやっておかないと、もったいないでしょう?」
胸を貫かれたはずの亡者は、じわじわと黒い霧を噴き出しながら、狂気に満ちた笑みを崩さない。
「さぁ!この電車はあの世まで止まらない特急車なのです!」
完全に勝利を確信して狂笑する亡者。だが、しょーくんは眉一つ動かさず、冷徹に言い放った。
「そうか。だが」
「地獄に還るのは、アンタだけだよ」
その声と同時に、電車の分厚い窓ガラスがガシャアァァン!!!と凄まじい音を立てて内側へと蹴破られた。
ガラスの破片がキラキラと飛び散る中、その強烈な蹴りは驚異的な勢いのまま亡者の顔面に直撃した。
あまりの衝撃に、亡者の身体が吹き飛び、私はその拘束からガバッと解放される。
爆音と共に車内に乱入してきたのは、変成くん。
「楓くん!何で!?」
「私が呼んだ」
しょーくんはスマホをひらひらと振ってみせた。そして小さく「楓……?」と呟いている。
「……あのさ、本当にフラグ立てるのやめてくれる?」
変成くんは額を押さえながら、ため息をついた。
「まさか本当に事件に巻き込まれるとは思わなかったけど……いや、むしろ『トラブルメーカー』というか」
「そんな亡者ホイホイみたいに言わないで!?」
「事実を言っただけだけど」
「あのねぇ……」
緊迫した車内でいつものように言い合う私たちを他所に、しょーくんは床に倒れて悶絶している亡者を冷酷に見下ろした。
「まぁそんなことはさておき、お前に衆合地獄は軽すぎたようだ。だから今回は特別に、もっと重いところに堕としてやろう」
しょーくんがそう厳かに宣告した瞬間、彼の懐から現れた閻魔帳が淡く発光し、そこから伸びた金色に輝く細い紐が、生き物のように亡者の身体へ巻き付いてぎゅうぎゅうに縛り上げた。
亡者の喉から、苦悶のうめき声が漏れた。
人間には紐が見えないので、突然苦しみだしたように見えることだろう。
「叫喚地獄は嫌か?ならば、地獄での刑期を終えて、来世では真人間になることだな」
「真人間じゃない奴が真人間て……」
「うるさい!ばーか!!」
横から茶化した変成くんが声を押し殺して吹き出し、しょーくんが顔を真っ赤にして言い返す。
「―――はいはい、静かにしなよ。審判中に騒ぐなんて、珍しいね」
「お前が笑うからだろ!」
しょーくんは咳払いをすると、空中を舞う閻魔帳のページをめくる手を止め、彼の白い指先が一枚の古い札の上で止まった。そこには、禍々しい墨で書かれた亡者の罪状が浮かび上がっている。
「……快楽無差別殺人鬼だったらしいな。被害者は二十七名。死因は事故死か......」
背筋が寒くなるような罪状を聞きながら、変成くんはいつの間にか、恐怖のあまり完全に気絶してしまっていた美穂ちゃんを優しく抱き上げ、近くの座席へとそっと横たえさせていた。流れるような手際の良さである。
私は亡者に聞こえるように叫んだ。
「大人しく地獄に戻るか、変成くんにボコボコにされて地獄に行くか、どっちか選んで。答えなかったら強制的に変成くんにボコられるよ!」
笑顔で亡者に近付く変成くん。
亡者は変成くんに余程トラウマを植え付けられたのか、「ひぃ……」と声にならない悲鳴を上げている。
変成くんの靴音が一歩近づく度、壁際へと這うように下がっていった。
(一体、この亡者に何をしたんだろう……?)
めちゃくちゃ気になるけれど、聞いてはいけない闇の深さを感じたので、考えることを放棄した。
「判決を下す。第四の地獄、叫喚地獄」
バチン!!!と空間が弾けるような高い音が響いたかと思うと、次の瞬間、亡者の身体は黒い霧となって一瞬で消え去り、跡形もなく霧散した。
「あ、美味しいとこ取られた」
「うるさいぞ、秦広王!」
そんな風に私たちが軽口を叩き合っていると、ようやくパニックから我に返った周囲の乗客たちの、ヒソヒソとした困惑の声が耳に飛び込んできた。
「え、何が起こったの?」
「マジック的な?急に消えたし……」
「怖すぎん?通報しちゃったんやけど……」
「まぁ、人体切断マジックとかあるもんね……」
何それ。現世の人たちって、目の前で人間が消えたら『マジック』で納得しちゃうの!?そっちの方が怖すぎん!?というか、現代の大人はパニックを通り越して逆にめちゃくちゃ冷静だ。地獄の亡者よりよっぽど肝が据わっている。
ガガガガ、とブレーキの重々しい音が響き、電車はゆっくりと減速しながら、ようやく目的の駅のホームへと滑り込んだ。プシューと大きな音を立ててドアが開く。
待ってましたとばかりに、外からは盾を持った警察官や駅員が血相を変えてドタドタと車内へ駆け込んできた。
「大丈夫ですか!?怪我人は!?」
警官は、すでに何事もなかったかのように普通にお喋りを楽しんでいる私達三人の姿を見て、口をあんぐりと開けて固まった。他の乗客の人たちは、腰を抜かして失神しているか、安堵で泣き出しているというのに、温度差が酷い。
「えっと……犯人は?」
「あー……」
(地獄に還したなんて、言えないからなぁ……どうしよ)
私が冷や汗を流しながら目を泳がせていると、しょーくんが気まずそうに目を逸らしながら、ガチの真顔で言った。
「もう逃げた」
「逃げた!?」
「……あそこの窓を派手に蹴破って、外へと飛び降りていきました」
しょーくんは、変成くんがダイナミックに侵入してきた、蜘蛛の巣状に盛大に割れた窓ガラスを平然と指差す。
警官の一人が声を上げ、慌てて無線に手を伸ばした。
「犯人逃走!近隣駅に―――」
別の警官が私達のところに来て、「もう大丈夫だよ」と言ってくれた。
気絶した美穂ちゃんは頭を押えながら起き上がり、「う〜ん……夢?なんか変な夢見て……」と寝ぼけている。
よし!
電車立てこもり事件の記憶が、恐怖のあまり脳内で勝手に『悪い夢』に変換されてくれたようだ。その方が精神衛生上めちゃくちゃ都合が良いので、私は話を合わせることにした。
人間、覚えている必要のない恐怖の記憶なんて、忘れてしまうのが一番だからね。
その時、救急隊や駅員たちが続々と駆けつけてきて、車内の負傷者の確認や誘導を始めた。私は邪魔にならないように少し壁際へと下がって、まだ少しぽやぽやしている美穂ちゃんに話しかけた。
「おはよ〜」
「ねぇ、真宵」
「ん?」
「スイパラ、どうする?」
「あ……ふぅ、やっと落ち着いた」
私は深呼吸しながら、美穂ちゃんを見た。
「スイパラ、行こうか」
リビングのテレビ画面には、神妙な面持ちでマイクを握るニュースキャスターと、その背後で黄色い規制線に囲まれた薄暗い路地裏の映像が映し出されていた。
私のスマホら漏れ聞こえるテレビの音声に反応したのか、通話口の向こうで美穂ちゃんの声が小さく震える。
『また出たんだ。連続通り魔』
「通り魔?」
『知らない?最近話題になってたの。無差別に人を襲うんだって』
「物騒だね」
(現世も物騒な世の中だな〜……)
「今日、遊びに行く予定だったけど、どうする?延期にする?」
『大丈夫だよ。今回は人出の少ないとこじゃないから大丈夫だと思うけど』
「そら危機感なさすぎでしょ」
低い呆れ声がして振り返ると、リビングのソファで完全に寝落ちしていたはずの変成くんが、毛布をミノムシのように巻き付けながら頭だけをひょっこり出して呟いていた。
腕時計を確認すると、そろそろ家を出ないと美穂ちゃんとの待ち合わせ時間に遅れてしまう。私は「じゃあ後でね〜!」と美穂ちゃんとの通話を切り、お気に入りのリュックを背負う。
「あ、おはよー。変成くん」
「はいはい、おはよー」
ボサボサの頭を掻きながら、もぞもそと毛布の防壁から這い出てきた変成くんは、まだ眠そうに大きな欠伸を噛み殺している。
「殺人鬼がうろついてる街中をスイーツの為だけに出歩くの?流石だね。それともただ頭が悪いだけの馬鹿なの?」
「だ、だだ大丈夫!もし亡者だった場合は地獄に堕としたら良いだけだから!」
「他人だった場合は?亡者じゃない場合はどうするの?ねぇ?」
出掛け際にぐちぐちと正論で小言を言ってくる変成くんの声を背中で振り払い、「行ってきます!」と勢いよくドアを閉めて待ち合わせ場所へと急いだ。
***
「おはよー!ごめん、遅れた」
「良いよ良いよ。私もさっき来たから」
休日の駅のホーム。大勢の利用客で賑わう中、約束のベンチで待っていた美穂ちゃんを見つけて大きく手を振りながら駆け寄る。
今日の美穂ちゃんは、学校で見せるいつもの制服姿とはガラリと雰囲気が違う、パステルカラーの春らしいお洒落な私服姿。お気に入りの赤いリボンも髪のボブカットにバッチリ決まっていて、いつも以上に一段と可愛い。
それに比べて、私は冥府で着ていた服のまま……というわけにはいかないから、一応現世に馴染みそうな普通の私服を着てはいるけれど、やっぱり美穂ちゃんの洗練されたお洒落さには敵わない気がする。
「スイパラ、楽しみだね!」
「うん!」
今日、私と美穂ちゃんはスイパラというスイーツ食べ放題のお店に行く。地獄にはなかったから、楽しみっ!
ホームを通過し、電車に乗る。
「ふわぁ……朝の電車って、眠くなるよねー」
吊り革を握りながら欠伸をかみ殺す。
「あはは、確かに!そういや、朝ご飯抜いてきた?」
「もちろん!」
周りは私達みたいに遊びに行く人達でいっぱい。
スーツの人、スマホいじる人、イヤホンつけてる人。
なんてことのない、普通の朝。
―――の、はずだった。
ガタン、と電車が大きく揺れた。
ざわざわと周囲が騒ぎ出す。
車内放送が入るかと思ったけれど、何も流れない。
そのとき、ドアの前に立っていた男がゆっくりと顔を上げた。
フードを深くかぶり、目の下にはクマ。手には―――黒い金属の筒。
「全員、動くな」
低く乾いた声が響いた瞬間、車内の空気が完全に凍りついた。
嘘でしょ。よりにもよって、待ちに待ったスイパラの日にこんな大事件に巻き込まれるなんて!?
「スマホは出すな。警察にも通報するな」
男の声は驚くほど落ち着いていて、その感情の欠落したトーンが余計に恐怖を煽る。乗客たちが息を呑み、怯えたように身を縮めた。犯人の男はギラついた目で車内を見回し、私の目の前でピタリと動きを止める。
「人質は……お前で良いか」
言うが早いか、男は私の腕を乱暴に掴み、冷たい黒い筒の銃口を私の頭に容赦なく突き付けてきた。
「え……?」
「あぁ、その恐怖に染まった顔、まさに絶望の色ですねぇ」
「ま、待って!何でそんなことするの……?」
「どうせまた地獄に戻るくらいなら、少しでも人を殺したいじゃないですか!」
犯人は狂ったように「アーハハハ!」と勝ちを確信した高笑いを上げた。
……って、ちょっと待って。今、この男の口から信じられない単語が出たぞ。地獄に戻るって言った?
「っ……!やっぱり、亡者じゃん!」
思わず声が出た瞬間、男―――いや、亡者の目がギロリと光った。
「おや?分かるんですか、私が『こちら側』の人間だと」
「そ、そりゃまぁ……十王だし」
「あははっ、良いですねぇ。貴方は冥府の王ですか。良いですねぇ、もっと怯えてください。もっと、もっと……」
ぞわり、と背筋を氷の指で直接撫でられたような嫌な感覚が走る。
黒い金属の筒がぐっと額に力任せに押し付けられた。金属の異常な冷たさが、肌を通して生々しい現実を突きつけてくる。隣では、美穂ちゃんが完全に顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。
……と、その瞬間。
凄まじい風切り音と共に、一振りの鋭い刀が亡者の胸元を寸分の狂いもなく貫き、背後の床へと突き刺さった。
視線を動かすと、いつの間にか車両の隅に青年が一人立っていた。
黒を貴重に赤を差した道服を身にまとい、肩より短く切り揃えた赤髪の下から鋭い瞳が覗いていた。
「全く……何をノロノロしている」
低く呆れた、でも聞き慣れたその声の主は―――
「しょーくん!」
「はぁ……またお前か」
呆れながら私を見て呟く初江王こと、しょーくん。
彼もまた、私と同じ十王の一人だ。自分にも他人にも厳格な刀の達人だけど、実は大の動物好きというギャップを持つ男。この超次元の刀を投げたのも、間違いなく彼だ。
「地獄は怖くないです。何百年もいましたから。だからこそ、あの地獄に戻るなら何か大きなことをやっておかないと、もったいないでしょう?」
胸を貫かれたはずの亡者は、じわじわと黒い霧を噴き出しながら、狂気に満ちた笑みを崩さない。
「さぁ!この電車はあの世まで止まらない特急車なのです!」
完全に勝利を確信して狂笑する亡者。だが、しょーくんは眉一つ動かさず、冷徹に言い放った。
「そうか。だが」
「地獄に還るのは、アンタだけだよ」
その声と同時に、電車の分厚い窓ガラスがガシャアァァン!!!と凄まじい音を立てて内側へと蹴破られた。
ガラスの破片がキラキラと飛び散る中、その強烈な蹴りは驚異的な勢いのまま亡者の顔面に直撃した。
あまりの衝撃に、亡者の身体が吹き飛び、私はその拘束からガバッと解放される。
爆音と共に車内に乱入してきたのは、変成くん。
「楓くん!何で!?」
「私が呼んだ」
しょーくんはスマホをひらひらと振ってみせた。そして小さく「楓……?」と呟いている。
「……あのさ、本当にフラグ立てるのやめてくれる?」
変成くんは額を押さえながら、ため息をついた。
「まさか本当に事件に巻き込まれるとは思わなかったけど……いや、むしろ『トラブルメーカー』というか」
「そんな亡者ホイホイみたいに言わないで!?」
「事実を言っただけだけど」
「あのねぇ……」
緊迫した車内でいつものように言い合う私たちを他所に、しょーくんは床に倒れて悶絶している亡者を冷酷に見下ろした。
「まぁそんなことはさておき、お前に衆合地獄は軽すぎたようだ。だから今回は特別に、もっと重いところに堕としてやろう」
しょーくんがそう厳かに宣告した瞬間、彼の懐から現れた閻魔帳が淡く発光し、そこから伸びた金色に輝く細い紐が、生き物のように亡者の身体へ巻き付いてぎゅうぎゅうに縛り上げた。
亡者の喉から、苦悶のうめき声が漏れた。
人間には紐が見えないので、突然苦しみだしたように見えることだろう。
「叫喚地獄は嫌か?ならば、地獄での刑期を終えて、来世では真人間になることだな」
「真人間じゃない奴が真人間て……」
「うるさい!ばーか!!」
横から茶化した変成くんが声を押し殺して吹き出し、しょーくんが顔を真っ赤にして言い返す。
「―――はいはい、静かにしなよ。審判中に騒ぐなんて、珍しいね」
「お前が笑うからだろ!」
しょーくんは咳払いをすると、空中を舞う閻魔帳のページをめくる手を止め、彼の白い指先が一枚の古い札の上で止まった。そこには、禍々しい墨で書かれた亡者の罪状が浮かび上がっている。
「……快楽無差別殺人鬼だったらしいな。被害者は二十七名。死因は事故死か......」
背筋が寒くなるような罪状を聞きながら、変成くんはいつの間にか、恐怖のあまり完全に気絶してしまっていた美穂ちゃんを優しく抱き上げ、近くの座席へとそっと横たえさせていた。流れるような手際の良さである。
私は亡者に聞こえるように叫んだ。
「大人しく地獄に戻るか、変成くんにボコボコにされて地獄に行くか、どっちか選んで。答えなかったら強制的に変成くんにボコられるよ!」
笑顔で亡者に近付く変成くん。
亡者は変成くんに余程トラウマを植え付けられたのか、「ひぃ……」と声にならない悲鳴を上げている。
変成くんの靴音が一歩近づく度、壁際へと這うように下がっていった。
(一体、この亡者に何をしたんだろう……?)
めちゃくちゃ気になるけれど、聞いてはいけない闇の深さを感じたので、考えることを放棄した。
「判決を下す。第四の地獄、叫喚地獄」
バチン!!!と空間が弾けるような高い音が響いたかと思うと、次の瞬間、亡者の身体は黒い霧となって一瞬で消え去り、跡形もなく霧散した。
「あ、美味しいとこ取られた」
「うるさいぞ、秦広王!」
そんな風に私たちが軽口を叩き合っていると、ようやくパニックから我に返った周囲の乗客たちの、ヒソヒソとした困惑の声が耳に飛び込んできた。
「え、何が起こったの?」
「マジック的な?急に消えたし……」
「怖すぎん?通報しちゃったんやけど……」
「まぁ、人体切断マジックとかあるもんね……」
何それ。現世の人たちって、目の前で人間が消えたら『マジック』で納得しちゃうの!?そっちの方が怖すぎん!?というか、現代の大人はパニックを通り越して逆にめちゃくちゃ冷静だ。地獄の亡者よりよっぽど肝が据わっている。
ガガガガ、とブレーキの重々しい音が響き、電車はゆっくりと減速しながら、ようやく目的の駅のホームへと滑り込んだ。プシューと大きな音を立ててドアが開く。
待ってましたとばかりに、外からは盾を持った警察官や駅員が血相を変えてドタドタと車内へ駆け込んできた。
「大丈夫ですか!?怪我人は!?」
警官は、すでに何事もなかったかのように普通にお喋りを楽しんでいる私達三人の姿を見て、口をあんぐりと開けて固まった。他の乗客の人たちは、腰を抜かして失神しているか、安堵で泣き出しているというのに、温度差が酷い。
「えっと……犯人は?」
「あー……」
(地獄に還したなんて、言えないからなぁ……どうしよ)
私が冷や汗を流しながら目を泳がせていると、しょーくんが気まずそうに目を逸らしながら、ガチの真顔で言った。
「もう逃げた」
「逃げた!?」
「……あそこの窓を派手に蹴破って、外へと飛び降りていきました」
しょーくんは、変成くんがダイナミックに侵入してきた、蜘蛛の巣状に盛大に割れた窓ガラスを平然と指差す。
警官の一人が声を上げ、慌てて無線に手を伸ばした。
「犯人逃走!近隣駅に―――」
別の警官が私達のところに来て、「もう大丈夫だよ」と言ってくれた。
気絶した美穂ちゃんは頭を押えながら起き上がり、「う〜ん……夢?なんか変な夢見て……」と寝ぼけている。
よし!
電車立てこもり事件の記憶が、恐怖のあまり脳内で勝手に『悪い夢』に変換されてくれたようだ。その方が精神衛生上めちゃくちゃ都合が良いので、私は話を合わせることにした。
人間、覚えている必要のない恐怖の記憶なんて、忘れてしまうのが一番だからね。
その時、救急隊や駅員たちが続々と駆けつけてきて、車内の負傷者の確認や誘導を始めた。私は邪魔にならないように少し壁際へと下がって、まだ少しぽやぽやしている美穂ちゃんに話しかけた。
「おはよ〜」
「ねぇ、真宵」
「ん?」
「スイパラ、どうする?」
「あ……ふぅ、やっと落ち着いた」
私は深呼吸しながら、美穂ちゃんを見た。
「スイパラ、行こうか」



