第3話 あなたのストレス解消法
十二月上旬の朝。窓のガラスが白く曇って、教室の空気はストーブの前だけがほんのり甘い。国語の先生が出席簿を閉じて、チョークを黒板に当てた。
ストーブの近くに集まった子たちのマフラーが、教室の空気を毛糸の匂いに変えていた。窓際は冷えて、机の金具に触れた指先が一瞬びくっとする。芽郁は鉛筆の芯を少しだけ折って、気持ちの行き場を作った。
瑞生は発表の紙を作らない。作らない代わりに、ノートの端に小さな丸を一つ描いて、すぐ消した。悟真は背もたれに体重を預けたまま、走り出す前の足だけをぶらぶらさせている。啓恭は先生の赤ペンを見て、笑う準備だけ整えていた。
「今日の課題。『あなたのストレス解消法』。短い文章にして、順番に発表」
黒板に書かれた文字が、いつもより大きく見えた。
悟真が「へぇー」と伸びをして、机に突っ伏す。
「俺は走る! 走ればだいたい解決!」
啓恭がすぐに被せる。
「それ、ストレス解消じゃなくて、ストレスの避難だろ」
「避難、大事だろ!」
芽郁は鉛筆を回しながら、面倒そうに小さく言った。
「どっちも騒がしい」
先生が指名したのは、いきなり啓恭だった。
「啓恭。はい」
啓恭は椅子を少し鳴らして立ち上がり、胸を張る。
「僕のストレス解消法は、先生を見て安心することです。先生はいつも赤ペンで――」
先生が、赤ペンを机に置いた。音が、妙に静かに響く。
「続けて」
啓恭は笑顔のまま、言い方を変えようとして失敗した。
「……赤ペンで、世界を救ってるなぁって」
教室のあちこちから、くすっと笑いが漏れた。先生の目が細くなる。
「救われるのは、採点された答案だけだ。座れ」
「はい! 救われてきます!」
座るときに最後まで余計なことを言って、啓恭は芽郁に足を軽く蹴られた。
順番は流れて、悟真は宣言通り「走る」と言い切って、先生に「授業中は走るな」と言われた。
芽郁は前の席の子が「推しの曲」と言うのを聞いて、内心で「それは分かる」と思いながらも、顔は動かさない。
そして、先生の声が淡く響いた。
「瑞生」
瑞生は立った。ノートの端を一度そろえ、窓のほうへ視線だけ向ける。晴れているのに、冬の光は薄い。
「……月」
それだけ言って、瑞生は座った。
教室が一瞬止まった。
誰かが息を吸って、誰かが言いかける前に、芽郁が小さく笑った。笑い声というより、空気の角を丸くする息みたいな音だった。
「……いいじゃん。月、きれいだし」
芽郁が言うと、からかいの矢じりが、ふっと鈍った。
悟真は「確かに」と大げさにうなずき、啓恭は口を開きかけて、芽郁の目を見て閉じた。珍しく静かだ。
瑞生は、芽郁のほうを見た。目だけで、何かを確かめるみたいに。芽郁は鉛筆の先を机に当てて、視線を戻す。
その短い間に、心の中のざわつきが、少しだけ薄くなるのが分かった。理由は分からない。けれど、今はそれでいい。
次の指名が近づくにつれて、芽郁の手の中で、原稿用紙の角がくしゃりと鳴った。
昨日の夜に書いたのは、たった三行。
「寝る。甘いもの。ひとりになる」
いかにもそれっぽくて、いかにも逃げだ。
先生が名前を呼ぶ。
「芽郁」
芽郁は立ち上がりながら、原稿を握りつぶした。紙のしわが掌に刺さる。恥ずかしい。だからこそ、今ここで変える。
黒板の文字が、目に入る。
『あなたのストレス解消法』
芽郁は紙を広げずに、教壇の前で言った。
「……寝るだけじゃ、直らない」
教室がまた静かになる。さっきの瑞生のときより、もっと近い静けさ。
芽郁は唇を一度噛んで、続けた。
「逃げたくなるときは、十……十分だけ、やる。片づけでも、書き直しでも。十分だけやったら、ちょっとだけ楽になる」
言い終わると、喉が少し熱かった。
先生が、うなずいた。
「具体的でいい。『十分だけ』、覚えておけ」
芽郁は、勢いで言ってしまった自分に腹が立って、同時に、少しだけ救われる。席に戻るとき、啓恭が小声で言った。
「芽郁、かっこいいじゃん」
芽郁は返事をしない。代わりに、啓恭の机に鉛筆を一本、そっと転がしてやった。余計なことを言うな、の合図。
授業が終わり、休み時間。悟真が瑞生の机に肘をつき、顔を近づけた。
「月ってさ、昨日の石の『月』と関係ある?」
瑞生はノートを開き、視線を落として書く。
「可能性。高」
啓恭が腕を組んで、わざと怖い声を出した。
「月を見たら、火を上げます。って、やっぱ呪いだわ」
芽郁が即座に言い返す。
「呪いなのは、その声」
そのとき、優李亜が机の横に来て、何も大げさに言わずに、小さな紙を一枚置いた。薄い鉛筆書きで、短く。
『放課後 理科室 水道 使える』
芽郁が紙を見て、目を一度だけ上げる。
「……準備、早」
優李亜は「うん」とだけ答えた。声は小さいのに、迷いがない。
瑞生が、採点表を挟んだノートの端に、さらりと書き足した。
「優李亜(段取り・高)」
啓恭が身を乗り出す。
「俺も段取りできる! 段取りの段は――」
芽郁が、啓恭の口を指で押さえた。
「十分だけ、静かに」
啓恭は押さえられたまま、目だけで笑った。
窓の外に、昼でも薄い月がうっすら見えた。瑞生はそれを一秒だけ見て、ノートに戻る。
芽郁は、さっき自分が言った「十分だけ」を思い出して、椅子の背を軽く押した。
逃げる前に、まず十分。今日の放課後は、その十分を、石の刻みに向ける。
【続】
十二月上旬の朝。窓のガラスが白く曇って、教室の空気はストーブの前だけがほんのり甘い。国語の先生が出席簿を閉じて、チョークを黒板に当てた。
ストーブの近くに集まった子たちのマフラーが、教室の空気を毛糸の匂いに変えていた。窓際は冷えて、机の金具に触れた指先が一瞬びくっとする。芽郁は鉛筆の芯を少しだけ折って、気持ちの行き場を作った。
瑞生は発表の紙を作らない。作らない代わりに、ノートの端に小さな丸を一つ描いて、すぐ消した。悟真は背もたれに体重を預けたまま、走り出す前の足だけをぶらぶらさせている。啓恭は先生の赤ペンを見て、笑う準備だけ整えていた。
「今日の課題。『あなたのストレス解消法』。短い文章にして、順番に発表」
黒板に書かれた文字が、いつもより大きく見えた。
悟真が「へぇー」と伸びをして、机に突っ伏す。
「俺は走る! 走ればだいたい解決!」
啓恭がすぐに被せる。
「それ、ストレス解消じゃなくて、ストレスの避難だろ」
「避難、大事だろ!」
芽郁は鉛筆を回しながら、面倒そうに小さく言った。
「どっちも騒がしい」
先生が指名したのは、いきなり啓恭だった。
「啓恭。はい」
啓恭は椅子を少し鳴らして立ち上がり、胸を張る。
「僕のストレス解消法は、先生を見て安心することです。先生はいつも赤ペンで――」
先生が、赤ペンを机に置いた。音が、妙に静かに響く。
「続けて」
啓恭は笑顔のまま、言い方を変えようとして失敗した。
「……赤ペンで、世界を救ってるなぁって」
教室のあちこちから、くすっと笑いが漏れた。先生の目が細くなる。
「救われるのは、採点された答案だけだ。座れ」
「はい! 救われてきます!」
座るときに最後まで余計なことを言って、啓恭は芽郁に足を軽く蹴られた。
順番は流れて、悟真は宣言通り「走る」と言い切って、先生に「授業中は走るな」と言われた。
芽郁は前の席の子が「推しの曲」と言うのを聞いて、内心で「それは分かる」と思いながらも、顔は動かさない。
そして、先生の声が淡く響いた。
「瑞生」
瑞生は立った。ノートの端を一度そろえ、窓のほうへ視線だけ向ける。晴れているのに、冬の光は薄い。
「……月」
それだけ言って、瑞生は座った。
教室が一瞬止まった。
誰かが息を吸って、誰かが言いかける前に、芽郁が小さく笑った。笑い声というより、空気の角を丸くする息みたいな音だった。
「……いいじゃん。月、きれいだし」
芽郁が言うと、からかいの矢じりが、ふっと鈍った。
悟真は「確かに」と大げさにうなずき、啓恭は口を開きかけて、芽郁の目を見て閉じた。珍しく静かだ。
瑞生は、芽郁のほうを見た。目だけで、何かを確かめるみたいに。芽郁は鉛筆の先を机に当てて、視線を戻す。
その短い間に、心の中のざわつきが、少しだけ薄くなるのが分かった。理由は分からない。けれど、今はそれでいい。
次の指名が近づくにつれて、芽郁の手の中で、原稿用紙の角がくしゃりと鳴った。
昨日の夜に書いたのは、たった三行。
「寝る。甘いもの。ひとりになる」
いかにもそれっぽくて、いかにも逃げだ。
先生が名前を呼ぶ。
「芽郁」
芽郁は立ち上がりながら、原稿を握りつぶした。紙のしわが掌に刺さる。恥ずかしい。だからこそ、今ここで変える。
黒板の文字が、目に入る。
『あなたのストレス解消法』
芽郁は紙を広げずに、教壇の前で言った。
「……寝るだけじゃ、直らない」
教室がまた静かになる。さっきの瑞生のときより、もっと近い静けさ。
芽郁は唇を一度噛んで、続けた。
「逃げたくなるときは、十……十分だけ、やる。片づけでも、書き直しでも。十分だけやったら、ちょっとだけ楽になる」
言い終わると、喉が少し熱かった。
先生が、うなずいた。
「具体的でいい。『十分だけ』、覚えておけ」
芽郁は、勢いで言ってしまった自分に腹が立って、同時に、少しだけ救われる。席に戻るとき、啓恭が小声で言った。
「芽郁、かっこいいじゃん」
芽郁は返事をしない。代わりに、啓恭の机に鉛筆を一本、そっと転がしてやった。余計なことを言うな、の合図。
授業が終わり、休み時間。悟真が瑞生の机に肘をつき、顔を近づけた。
「月ってさ、昨日の石の『月』と関係ある?」
瑞生はノートを開き、視線を落として書く。
「可能性。高」
啓恭が腕を組んで、わざと怖い声を出した。
「月を見たら、火を上げます。って、やっぱ呪いだわ」
芽郁が即座に言い返す。
「呪いなのは、その声」
そのとき、優李亜が机の横に来て、何も大げさに言わずに、小さな紙を一枚置いた。薄い鉛筆書きで、短く。
『放課後 理科室 水道 使える』
芽郁が紙を見て、目を一度だけ上げる。
「……準備、早」
優李亜は「うん」とだけ答えた。声は小さいのに、迷いがない。
瑞生が、採点表を挟んだノートの端に、さらりと書き足した。
「優李亜(段取り・高)」
啓恭が身を乗り出す。
「俺も段取りできる! 段取りの段は――」
芽郁が、啓恭の口を指で押さえた。
「十分だけ、静かに」
啓恭は押さえられたまま、目だけで笑った。
窓の外に、昼でも薄い月がうっすら見えた。瑞生はそれを一秒だけ見て、ノートに戻る。
芽郁は、さっき自分が言った「十分だけ」を思い出して、椅子の背を軽く押した。
逃げる前に、まず十分。今日の放課後は、その十分を、石の刻みに向ける。
【続】


