その夜、結衣は早めに湯を張った。
湯気が浴室の鏡を曇らせ、視界が少しだけやさしくなる。
曇りの向こうなら、今日聞いてしまった言葉も、胸の痛みも、薄くなる気がした。
――奥様は形だけ。
――本命は別。
――選ばれたのが奥様じゃなかっただけ。
笑い声ごと、耳の奥に残っている。
結衣はバスローブの袖を握り、髪を乾かしながら時計を見る。
蓮からの短い通知どおり、帰宅は遅い。
理由も、謝罪もない。
(聞けないよね)
聞いたところで、きっと「仕事だ」で終わる。
そして結衣は「そうですよね」と笑う。
それが、この家の“夫婦らしさ”になってしまっている。
リビングの灯りを落とし、間接照明だけにする。
静かな家に、テレビの小さな音が流れる。
眠くないのに、ソファに座る。
待つことに慣れた妻みたいに。
鍵の音がしたのは、日付が変わる少し前だった。
結衣は立ち上がり、深呼吸をひとつする。
「お帰りなさい」
蓮は玄関に立ち、ネクタイを緩めながら頷いた。
「……ただいま。起きてたのか」
その“起きてたのか”は責めるでも褒めるでもなく、事実確認みたいだった。
結衣は笑って頷く。
「お疲れ様です。何か食べますか?」
「いや……いい」
蓮のスーツは、きちんとしているのに、肩だけが少し重そうだ。
結衣は近づきかけて――やめた。
(近づいていい距離が、わからない)
結婚してから、何度もそう思っている。
蓮は靴を揃え、手洗いへ向かう。
結衣はその背中を見ながら、口を開いた。
「あの……」
蓮が足を止める。
振り向いた瞳は静かで、心を読むより先に壁を作る目だった。
「……どうした」
結衣は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
“今日、会社で”――なんて言えない。
“噂を聞いた”とも、言えない。
代わりに、もっと小さなことを言う。
「お茶、淹れますね」
「……ありがとう」
結衣はキッチンへ向かい、湯を沸かす。
手が少し震えた。
ポットのスイッチを押す指先が冷たい。
蓮がリビングに入ってきた。ソファの端に座る。結衣の斜め後ろ。
距離があるのに、視線だけは刺さってくる。
湯が沸き、急須に茶葉を入れる。湯気が上がる。
結衣はマグカップを二つ並べた。
夫婦の形を、物で作ろうとするみたいに。
結衣がカップを運ぶと、蓮は受け取って口をつけた。
それだけで、結衣の胸のどこかが少しだけ温まる。
でも、その温かさは続かない。
「……遅くまで、いつも大変ですね」
結衣は、声が震えないように笑った。
蓮はカップを置き、短く答える。
「仕事だから」
それで終わる。
結衣は次の言葉を探す。
(ねえ、誰といたの?)
(ねえ、私のことは……)
(ねえ、私はあなたの――)
聞いたら壊れる気がして、口にできない。
蓮は立ち上がった。
「……もう寝ろ。明日も早いだろ」
結衣は頷き、立ち上がろうとして――ふと、足が止まった。
(寝ろ、って)
夫婦なのに。
“寝室へ一緒に行こう”じゃなくて、別々の部屋へ戻る合図みたいだ。
結衣の唇が、勝手に動いた。
「……蓮さん」
蓮が振り向く。
結衣は自分の胸に手を当て、勇気を絞る。
「私……何か、いけないことしましたか?」
静寂が落ちた。
蓮の目が僅かに揺れる。驚いたように、困ったように。
「……どうして、そう思う」
結衣は笑おうとして、失敗した。
「だって……」
“触れないから”。
“話してくれないから”。
“隣が遠いから”。
言えない。
言葉にしたら、本当に現実になってしまう。
結衣は視線を落とし、指先を握りしめた。
「……ごめんなさい。変なことを言いました」
謝った瞬間、胸が痛んだ。
違う。謝りたいのは、蓮じゃなくて。
言えない自分だ。
蓮は、数歩だけ近づいた。
ほんの数歩。
それでも結衣は息を止めてしまう。
「……結衣」
名前を呼ばれて、目が上がる。
蓮の手が伸びる。
結衣の髪に触れるかと思って、身体が勝手に強張った。
でも蓮の手は、結衣の肩より手前で止まった。
空を掴むみたいに、指が迷う。
「……無理をするな」
また、それだ。
触れない優しさ。
踏み込まない配慮。
結衣は笑った。笑わなければ泣いてしまうから。
「はい」
蓮は、何か言いかけて――結局何も言わず、踵を返した。
廊下の先で、寝室の扉が静かに閉まる音がする。
結衣はその音を聞きながら、手のひらを見つめた。
さっき、触れられると思って強張った手。
触れられなかったのに、まだ震えている。
(私……触れてほしかったんだ)
それを望んだ瞬間、
自分が惨めで、恥ずかしくて、苦しい。
結衣はソファに座り込み、照明の薄い光の中で膝を抱えた。
蓮は優しい。
優しいのに――私にだけ、遠い。
そして結衣は、今日聞いてしまった噂を思い出す。
(選ばれたのが、私じゃなかっただけ)
胸の奥に、黒い芽がゆっくり伸びていく。
湯気が浴室の鏡を曇らせ、視界が少しだけやさしくなる。
曇りの向こうなら、今日聞いてしまった言葉も、胸の痛みも、薄くなる気がした。
――奥様は形だけ。
――本命は別。
――選ばれたのが奥様じゃなかっただけ。
笑い声ごと、耳の奥に残っている。
結衣はバスローブの袖を握り、髪を乾かしながら時計を見る。
蓮からの短い通知どおり、帰宅は遅い。
理由も、謝罪もない。
(聞けないよね)
聞いたところで、きっと「仕事だ」で終わる。
そして結衣は「そうですよね」と笑う。
それが、この家の“夫婦らしさ”になってしまっている。
リビングの灯りを落とし、間接照明だけにする。
静かな家に、テレビの小さな音が流れる。
眠くないのに、ソファに座る。
待つことに慣れた妻みたいに。
鍵の音がしたのは、日付が変わる少し前だった。
結衣は立ち上がり、深呼吸をひとつする。
「お帰りなさい」
蓮は玄関に立ち、ネクタイを緩めながら頷いた。
「……ただいま。起きてたのか」
その“起きてたのか”は責めるでも褒めるでもなく、事実確認みたいだった。
結衣は笑って頷く。
「お疲れ様です。何か食べますか?」
「いや……いい」
蓮のスーツは、きちんとしているのに、肩だけが少し重そうだ。
結衣は近づきかけて――やめた。
(近づいていい距離が、わからない)
結婚してから、何度もそう思っている。
蓮は靴を揃え、手洗いへ向かう。
結衣はその背中を見ながら、口を開いた。
「あの……」
蓮が足を止める。
振り向いた瞳は静かで、心を読むより先に壁を作る目だった。
「……どうした」
結衣は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
“今日、会社で”――なんて言えない。
“噂を聞いた”とも、言えない。
代わりに、もっと小さなことを言う。
「お茶、淹れますね」
「……ありがとう」
結衣はキッチンへ向かい、湯を沸かす。
手が少し震えた。
ポットのスイッチを押す指先が冷たい。
蓮がリビングに入ってきた。ソファの端に座る。結衣の斜め後ろ。
距離があるのに、視線だけは刺さってくる。
湯が沸き、急須に茶葉を入れる。湯気が上がる。
結衣はマグカップを二つ並べた。
夫婦の形を、物で作ろうとするみたいに。
結衣がカップを運ぶと、蓮は受け取って口をつけた。
それだけで、結衣の胸のどこかが少しだけ温まる。
でも、その温かさは続かない。
「……遅くまで、いつも大変ですね」
結衣は、声が震えないように笑った。
蓮はカップを置き、短く答える。
「仕事だから」
それで終わる。
結衣は次の言葉を探す。
(ねえ、誰といたの?)
(ねえ、私のことは……)
(ねえ、私はあなたの――)
聞いたら壊れる気がして、口にできない。
蓮は立ち上がった。
「……もう寝ろ。明日も早いだろ」
結衣は頷き、立ち上がろうとして――ふと、足が止まった。
(寝ろ、って)
夫婦なのに。
“寝室へ一緒に行こう”じゃなくて、別々の部屋へ戻る合図みたいだ。
結衣の唇が、勝手に動いた。
「……蓮さん」
蓮が振り向く。
結衣は自分の胸に手を当て、勇気を絞る。
「私……何か、いけないことしましたか?」
静寂が落ちた。
蓮の目が僅かに揺れる。驚いたように、困ったように。
「……どうして、そう思う」
結衣は笑おうとして、失敗した。
「だって……」
“触れないから”。
“話してくれないから”。
“隣が遠いから”。
言えない。
言葉にしたら、本当に現実になってしまう。
結衣は視線を落とし、指先を握りしめた。
「……ごめんなさい。変なことを言いました」
謝った瞬間、胸が痛んだ。
違う。謝りたいのは、蓮じゃなくて。
言えない自分だ。
蓮は、数歩だけ近づいた。
ほんの数歩。
それでも結衣は息を止めてしまう。
「……結衣」
名前を呼ばれて、目が上がる。
蓮の手が伸びる。
結衣の髪に触れるかと思って、身体が勝手に強張った。
でも蓮の手は、結衣の肩より手前で止まった。
空を掴むみたいに、指が迷う。
「……無理をするな」
また、それだ。
触れない優しさ。
踏み込まない配慮。
結衣は笑った。笑わなければ泣いてしまうから。
「はい」
蓮は、何か言いかけて――結局何も言わず、踵を返した。
廊下の先で、寝室の扉が静かに閉まる音がする。
結衣はその音を聞きながら、手のひらを見つめた。
さっき、触れられると思って強張った手。
触れられなかったのに、まだ震えている。
(私……触れてほしかったんだ)
それを望んだ瞬間、
自分が惨めで、恥ずかしくて、苦しい。
結衣はソファに座り込み、照明の薄い光の中で膝を抱えた。
蓮は優しい。
優しいのに――私にだけ、遠い。
そして結衣は、今日聞いてしまった噂を思い出す。
(選ばれたのが、私じゃなかっただけ)
胸の奥に、黒い芽がゆっくり伸びていく。

