あなたの隣にいたのは、私じゃなかった


 蓮は昼休みの終わり、無意識にハンドルを握っていた。

 会社を出て、向かう先は決まっている。
 保護猫シェルター。
 ルルのところ。

(……逃げるな)

 神崎の言葉が耳に残っている。

――奥様は、ずっと孤独でした。
――副社長が黙るほど、誤解されます。

 そして、手紙の一文が刺さる。

『望月さんに「副社長は私が支えます」と言われた時、
私は“妻の席”が最初から空いていたのだと思ってしまいました』

 蓮は歯を食いしばった。

(望月が言ったことより、俺が結衣に答えなかったことが――)

 痛い。
 言葉を選べず黙った自分が、結衣を追い詰めた。

 車を降り、シェルターの前に立つと、風に混じって猫の匂いがした。
 ここに来ると、心が少しだけ静かになる。
 だからこそ――結衣には、余計に残酷だったのかもしれない。

 ドアを開けると、小春が顔を上げた。

「あ……九条さん」

 いつもより、少し驚いた声。
 その驚きが、蓮には“頻度”を言い当てられているようで胸に刺さる。

「ルルは?」

「奥にいます。今日、機嫌いいですよ」

 小春が笑う。
 それだけで、蓮の喉が緩むのを自覚した。

(……結衣には、こういう声が出ない)

 自覚した瞬間、腹の底が重くなる。

 蓮は奥へ進み、ケージの前にしゃがんだ。
 ルルは小さく鳴き、近づいてくる。

「……よし。いい子だ」

 柔らかい声が、勝手に出た。

 ルルが頭を擦り寄せる。
 蓮は指先で、そっと撫でた。

「……怖くない。大丈夫」

 その言葉を言った瞬間、脳裏に結衣の顔が浮かんだ。
 夜、ひとりで待つ結衣。
 笑って「大丈夫です」と言う結衣。
 泣きそうなのに、泣かない結衣。

(結衣こそ……怖かったはずだ)

 蓮は手を止めた。

 背後で、小春の足音が近づく。

「九条さん」

「……何だ」

 小春は少し言いづらそうに、でも目を逸らさずに言った。

「……奥様、いなくなったんですよね」

 蓮の背中が強張る。

「……」

 小春は慌てて両手を振った。

「あ、ごめんなさい。噂とかじゃなくて……」
「この前、奥様がここに来てたの、見かけたので。
 それで……今日、九条さんの顔がいつもより固いから」

 “固い”。
 その言葉が、蓮の胸を刺す。

 小春は続けた。声は優しいのに、内容は容赦がない。

「九条さんって……猫には優しいのに、人には不器用ですよね」

 蓮は息を止めた。

 言い返せない。
 否定できない。

 小春はルルを見つめながら、ぽつりと言う。

「猫には、拒まれないからですか?」

 蓮の指先が、ルルの毛の上で止まる。

(拒まれない……)

 それは真実だった。
 猫は、傷つける言葉を返さない。
 猫は、言葉を求めてこない。
 猫は、沈黙でも離れていかない。

 でも結衣は、人だ。
 結衣は、言葉が必要だった。
 結衣は、沈黙で傷つく。

 小春が静かに言った。

「奥様、ここで九条さんの声を聞いて……すごく傷ついた顔をしてました」

 蓮の胸が、強く痛んだ。

「……見てたのか」

「見てました。止められなかった。
 奥様、泣きそうなのに泣かなくて……」

 小春は一呼吸置いて、最後に言った。

「九条さん。奥様に“猫に向ける声”を、少しでいいから向けてあげてください」
「奥様は、猫じゃないから。
 ……言葉をもらえないと、ひとりで答えを作っちゃいます」

 神崎と同じことを、小春も言った。
 違う角度から、同じ痛みを突きつける。

 蓮の喉の奥が熱くなる。

(結衣は、望月に言われた)
(“副社長は私が支えます”と)
(そして俺は、否定しなかった)

 蓮はルルを見つめた。
 小さな命は、ただ目を細めている。

「……ルル」

 呼んだ声が、柔らかい。
 その柔らかさが今は、罪みたいだった。

 蓮は立ち上がった。
 小春が驚く。

「帰るんですか?」

「……行く」

 小春は一瞬、目を見開いたあと、頷いた。

「奥様のところですね」

 蓮は答えない。
 でも、もう逃げないと決めた。

 ドアを開ける前に、蓮は低く言った。
 自分に言い聞かせるように。

「……俺の隣は、結衣だ」

 それは今まで一度も、結衣に言えなかった言葉だった。