朝、結衣は静かに起きた。
蓮の気配はもう家にない。
寝室の扉の向こうが、いつもより遠い。
昨夜の言葉がまだ胸に刺さっていて、息をすると痛む。
――あなたの隣にいる人って、私じゃなくてもいいんですよね。
言ってしまった自分が怖い。
でも、言わなかったらもっと壊れていた。
キッチンに立ち、やかんを火にかける。
湯が沸く音だけが、家の中で生きているみたいだった。
テーブルの上には、家政婦の名刺。
結衣はそれを見つめて、ゆっくり息を吐いた。
(役目、終わったんだ)
誰にも言われていないのに、そう思ってしまう。
湯気の向こうに、雨の路地裏が浮かぶ。
段ボール箱。
濡れた小さな命。
そして――蓮の声。
「……こわくない。大丈夫」
あの柔らかい声は、結衣には向けられなかった。
結衣は自分の胸を押さえた。
(私だって、怖かったよ)
夫の隣が遠くて。
言葉がなくて。
知らない名前が増えていくのが怖かった。
結衣は食器棚の上段から、白い封筒を取り出した。
昔、役所の窓口でもらった書類一式。
使うつもりなんてなかったのに、なぜか捨てられずにしまっていた。
封筒の中から、離婚届が出てくる。
真っ白な紙。
ただの紙なのに、胸がぎゅっと締めつけられる。
(これに名前を書けば……終わる)
結衣はペンを握った。
手が震えて、キャップを外すのに時間がかかる。
名前の欄に、ゆっくりと書き始めた。
朝霧 結衣。
書いた瞬間、自分の名前が急に他人のものに見えた。
九条結衣、になれなかった自分。
夫の家にいたのに、夫の世界に入れなかった自分。
結衣は呼吸を整えようとした。
でも息が浅い。
蓮の名前を書く欄が、目に刺さる。
九条 蓮。
書けない。
書けたら、楽になるのかもしれない。
でも、書いたら本当に終わってしまう。
結衣はペン先を紙に落としかけて、止めた。
インクが小さく滲む。
(……ごめんね)
心の中で呟く。
誰に謝っているのか分からない。
蓮に?
自分に?
それとも、まだ消えない“好き”に?
結衣はペンを置き、指輪を見つめた。
左手の薬指。
薄い輪が、きちんと嵌まっている。
結婚式の日、蓮は指輪を滑らせながら言った。
「……似合う」
その一言だけは、結衣の胸に残っている。
でも、その後の言葉が続かなかった。
結衣は指輪に指をかける。
抜けない。
少し、むくんでいるのかもしれない。
結衣は水を流し、指を濡らしてからもう一度試す。
金属が皮膚を擦り、じわりと痛む。
(こんなに……外れないのに)
心は簡単に外れていってしまう。
指輪が、やっと抜けた。
結衣はそれを掌に乗せた。
小さくて、冷たい。
なのに、重い。
結衣はリングケースを開き、指輪をそっと入れた。
蓋を閉める音が、やけに大きく響く。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
結衣の心臓が跳ねる。
こんな時間に、蓮が帰るはずがない。
家政婦? でもまだ早い。
足音が近づき、リビングの扉が開いた。
「……結衣?」
蓮だった。
結衣は息を止めた。
胸の奥が熱くなり、指先が冷える。
「どうして……」
蓮はスーツのまま立っていた。
視線が、テーブルの上に落ちる。
離婚届。
リングケース。
空気が凍った。
蓮の顔から、色が消える。
「……何だ、それ」
結衣はすぐに離婚届を伏せようとした。
でも、遅かった。
隠す動きが、答えになってしまう。
「……ごめんなさい」
最初に出たのは、また謝罪だった。
違う。謝りたいのは、こうなる前に何も言えなかったことなのに。
蓮が一歩近づく。
「……おい。結衣」
声が硬い。
猫に向ける柔らかさはない。
その事実が、結衣の心をまた削る。
結衣は視線を落とした。
「……まだ、出してないです」
それだけは、言わなければと思った。
“未提出”。
最後のブレーキ。
蓮は机の上のリングケースを見つめたまま、低く言った。
「……指輪まで、外したのか」
結衣は頷いた。
涙が出そうで、唇を噛む。
「……ごめんなさい」
蓮の拳が、わずかに握られる。
怒っているのか、壊れそうなのか分からない。
「……理由を言え」
結衣は首を振った。
(言ったら、責めることになる)
(責めたくない)
(でも、苦しい)
結衣の喉が震える。
「……言わなくても、分かると思いました」
蓮の目が揺れた。
その揺れが、結衣には“図星”に見える。
結衣は、椅子の背に手を置き、ゆっくり立ち上がった。
「……私、出ていきますね」
言った瞬間、胸が痛んだ。
でも、もう戻れない気がした。
蓮が言いかける。
「……待て」
また、その言葉。
結衣は目を閉じた。
(待て、じゃなくて、どうして、って言ってほしかった)
結衣は、静かに言った。
「……私、邪魔になりたくないんです」
望月の声が蘇る。
“副社長は私が支えます”
結衣はそれを、現実として受け入れてしまった。
蓮は言葉を失った。
結衣の前で、いつも通り“説明できない沈黙”を落とす。
その沈黙が、結衣の背中を押した。
結衣はリングケースを持ち上げ、離婚届を封筒に戻した。
手が震えて、紙の角が擦れる音がする。
――未提出。
でも、心はもう提出してしまったみたいだった。
蓮の気配はもう家にない。
寝室の扉の向こうが、いつもより遠い。
昨夜の言葉がまだ胸に刺さっていて、息をすると痛む。
――あなたの隣にいる人って、私じゃなくてもいいんですよね。
言ってしまった自分が怖い。
でも、言わなかったらもっと壊れていた。
キッチンに立ち、やかんを火にかける。
湯が沸く音だけが、家の中で生きているみたいだった。
テーブルの上には、家政婦の名刺。
結衣はそれを見つめて、ゆっくり息を吐いた。
(役目、終わったんだ)
誰にも言われていないのに、そう思ってしまう。
湯気の向こうに、雨の路地裏が浮かぶ。
段ボール箱。
濡れた小さな命。
そして――蓮の声。
「……こわくない。大丈夫」
あの柔らかい声は、結衣には向けられなかった。
結衣は自分の胸を押さえた。
(私だって、怖かったよ)
夫の隣が遠くて。
言葉がなくて。
知らない名前が増えていくのが怖かった。
結衣は食器棚の上段から、白い封筒を取り出した。
昔、役所の窓口でもらった書類一式。
使うつもりなんてなかったのに、なぜか捨てられずにしまっていた。
封筒の中から、離婚届が出てくる。
真っ白な紙。
ただの紙なのに、胸がぎゅっと締めつけられる。
(これに名前を書けば……終わる)
結衣はペンを握った。
手が震えて、キャップを外すのに時間がかかる。
名前の欄に、ゆっくりと書き始めた。
朝霧 結衣。
書いた瞬間、自分の名前が急に他人のものに見えた。
九条結衣、になれなかった自分。
夫の家にいたのに、夫の世界に入れなかった自分。
結衣は呼吸を整えようとした。
でも息が浅い。
蓮の名前を書く欄が、目に刺さる。
九条 蓮。
書けない。
書けたら、楽になるのかもしれない。
でも、書いたら本当に終わってしまう。
結衣はペン先を紙に落としかけて、止めた。
インクが小さく滲む。
(……ごめんね)
心の中で呟く。
誰に謝っているのか分からない。
蓮に?
自分に?
それとも、まだ消えない“好き”に?
結衣はペンを置き、指輪を見つめた。
左手の薬指。
薄い輪が、きちんと嵌まっている。
結婚式の日、蓮は指輪を滑らせながら言った。
「……似合う」
その一言だけは、結衣の胸に残っている。
でも、その後の言葉が続かなかった。
結衣は指輪に指をかける。
抜けない。
少し、むくんでいるのかもしれない。
結衣は水を流し、指を濡らしてからもう一度試す。
金属が皮膚を擦り、じわりと痛む。
(こんなに……外れないのに)
心は簡単に外れていってしまう。
指輪が、やっと抜けた。
結衣はそれを掌に乗せた。
小さくて、冷たい。
なのに、重い。
結衣はリングケースを開き、指輪をそっと入れた。
蓋を閉める音が、やけに大きく響く。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
結衣の心臓が跳ねる。
こんな時間に、蓮が帰るはずがない。
家政婦? でもまだ早い。
足音が近づき、リビングの扉が開いた。
「……結衣?」
蓮だった。
結衣は息を止めた。
胸の奥が熱くなり、指先が冷える。
「どうして……」
蓮はスーツのまま立っていた。
視線が、テーブルの上に落ちる。
離婚届。
リングケース。
空気が凍った。
蓮の顔から、色が消える。
「……何だ、それ」
結衣はすぐに離婚届を伏せようとした。
でも、遅かった。
隠す動きが、答えになってしまう。
「……ごめんなさい」
最初に出たのは、また謝罪だった。
違う。謝りたいのは、こうなる前に何も言えなかったことなのに。
蓮が一歩近づく。
「……おい。結衣」
声が硬い。
猫に向ける柔らかさはない。
その事実が、結衣の心をまた削る。
結衣は視線を落とした。
「……まだ、出してないです」
それだけは、言わなければと思った。
“未提出”。
最後のブレーキ。
蓮は机の上のリングケースを見つめたまま、低く言った。
「……指輪まで、外したのか」
結衣は頷いた。
涙が出そうで、唇を噛む。
「……ごめんなさい」
蓮の拳が、わずかに握られる。
怒っているのか、壊れそうなのか分からない。
「……理由を言え」
結衣は首を振った。
(言ったら、責めることになる)
(責めたくない)
(でも、苦しい)
結衣の喉が震える。
「……言わなくても、分かると思いました」
蓮の目が揺れた。
その揺れが、結衣には“図星”に見える。
結衣は、椅子の背に手を置き、ゆっくり立ち上がった。
「……私、出ていきますね」
言った瞬間、胸が痛んだ。
でも、もう戻れない気がした。
蓮が言いかける。
「……待て」
また、その言葉。
結衣は目を閉じた。
(待て、じゃなくて、どうして、って言ってほしかった)
結衣は、静かに言った。
「……私、邪魔になりたくないんです」
望月の声が蘇る。
“副社長は私が支えます”
結衣はそれを、現実として受け入れてしまった。
蓮は言葉を失った。
結衣の前で、いつも通り“説明できない沈黙”を落とす。
その沈黙が、結衣の背中を押した。
結衣はリングケースを持ち上げ、離婚届を封筒に戻した。
手が震えて、紙の角が擦れる音がする。
――未提出。
でも、心はもう提出してしまったみたいだった。

