家に帰る途中、結衣は息の仕方を忘れた。
望月の声が、まだ耳の奥で響いている。
――副社長は、私が支えます。
――奥様は、静かにお過ごしください。
――邪魔にならないことも、奥様の役目。
言葉は丁寧だった。
丁寧で、正しくて、残酷だった。
(……私は、邪魔)
その結論に、自分が一番早く頷いてしまったのが悔しい。
でも、否定する材料がない。
家に入ると、空気が冷たかった。
誰もいない家の静けさが、結衣の心をそのまま映す。
キッチンのカウンターには、家政婦の名刺が置かれていた。
手配はもう進んでいる。
結衣の知らないところで、結衣の“役割”は切り替えられていく。
結衣は名刺を指先で押さえ、そっと戻した。
怒る気力も、泣く気力もなかった。
その夜、蓮は遅く帰ってきた。
結衣は玄関で迎えた。
迎えるのが妻だから、というより、迎えないと“何も始まらない”気がしたから。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
蓮はネクタイを緩めながら、結衣を見た。
視線が合う。
その一秒に、結衣は無意識に期待してしまう。
(言ってくれる?)
(違うって言ってくれる?)
でも蓮は、いつも通りだった。
「……明日、家政婦が来る。お前は休め」
結衣は小さく頷いた。
頷くしかなかった。
「はい」
その返事が、あまりに静かだったのかもしれない。
蓮の眉が僅かに寄った。
「……怒ってるのか」
結衣は首を振った。
怒っていない。
怒るほど、自分に自信がない。
「怒ってません」
嘘じゃない。
ただ、もう疲れてしまっただけだ。
蓮は靴を揃え、廊下へ向かいかけて足を止めた。
「……結衣」
名前を呼ばれて、胸が痛む。
“妻”として呼ばれることすら、今は怖い。
「はい」
蓮は何か言いかけた。
口が少し動く。
でも、言葉は落ちてこない。
結衣はその沈黙を見て、悟ってしまった。
(言えないんだ)
猫のことも。
小春のことも。
望月のことも。
会食のことも。
――私にだけは。
結衣は笑ってしまった。
泣く代わりに。
「……蓮さん」
蓮が結衣を見る。
結衣は、できるだけ穏やかな声を選んだ。
責めない声。
壊さない声。
「あなたの隣にいる人って……私じゃなくても、いいんですよね」
空気が止まった。
蓮の目が大きくなる。
驚きと、焦りと、何か言いたいのに言えない色が混じる。
「……何を言ってる」
結衣は首を振った。
「……何も言ってません。私が勝手に、そう思っただけです」
そう言ってしまえば、結衣の負けだ。
でも、もう勝ち負けじゃない。
結衣は“終わらせ方”を探していた。
結衣はゆっくり、続けた。
「会社では、望月さんが支えていて」
「外では……誰かが隣にいて」
「猫には、あなたの優しい声が届いていて」
言葉が、喉を擦る。
自分で言っているのに、胸が痛い。
「……私は、ここにいても、いなくても」
声が震えた。
結衣は深呼吸でそれを押さえた。
「あなたの世界は、回ってしまう」
蓮が一歩近づいた。
「……結衣、待て」
その“待て”が、結衣には遅すぎた。
(待て、じゃなくて)
(最初から、抱きしめてほしかった)
結衣は視線を逸らし、静かに言った。
「……私、これ以上、あなたの邪魔になりたくないです」
蓮の表情が揺れる。
でも結衣はそれを見るのが怖くて、目を上げられない。
――望月の一言が、結衣の中で決定打だった。
妻の席が、最初から空いていたことを、認めるしかなくなった。
結衣は小さく頭を下げた。
「おやすみなさい」
寝室へ向かう足は、驚くほど軽かった。
軽いのに、胸の中は重い。
扉の前で、結衣は立ち止まった。
握りしめた指先が震えている。
(……出ていこう)
まだ離婚届は書いていない。
まだ何も終わっていない。
でも、結衣の中では決着がついてしまった。
――あなたの隣にいたのは、私じゃなかった。
結衣は扉を閉め、静かな部屋の中で、涙をひとつだけ落とした。
声は出さない。
これ以上、誰の邪魔にもならないように。

