結衣は、翌朝から“静か”になった。
言葉を減らし、笑顔を増やし、必要以上に近づかない。
義母の前で求められた“妻”を演じるために、蓮の前で“重くない妻”になる。
(これなら、迷惑じゃないよね)
そう思い込むほど、胸の奥が空っぽになる。
蓮は結衣の変化に気づいているのか、いないのか。
朝の「行ってくる」はいつも通り短く、夜の「遅くなる」もいつも通りだった。
その日、結衣は体調が少し悪かった。
熱はない。
ただ、胃のあたりが重くて、息が浅い。
午後、ソファでうとうとしていると、スマホが震えた。
『今夜、来客がある』
蓮からのメッセージだった。
来客――誰だろう。
結衣の指先が冷える。
『望月が同行する。必要なら顔を出せ』
必要なら。
顔を出せ。
その言い方が、結衣の胸を鈍く殴った。
(私は“必要なときだけ”なんだ)
妻なのに。
同じ家なのに。
結衣は震える手で返信した。
『分かりました』
それ以上、何も書けなかった。
“誰ですか”も“何時ですか”も、聞けない。
夜。
蓮は九時頃に帰宅した。
珍しい早さなのに、結衣の胸は浮かない。
玄関で、結衣はいつも通りに言う。
「お帰りなさい」
蓮はコートを脱ぎながら、短く頷いた。
「……ただいま。準備はいいか」
「準備……?」
結衣の声がかすれる。
蓮は靴を揃えたまま、淡々と続ける。
「取引先の挨拶だ。形式だけでいい。座っていればいい」
座っていればいい。
形式だけ。
結衣の胸の奥が、冷たくなる。
(私は……飾り)
社内の噂と同じ言葉が、結衣の中で反響する。
インターホンが鳴った。
結衣が動こうとすると、蓮が先に玄関へ向かう。
「俺が出る」
結衣は立ち尽くした。
“妻が迎える”という役目すら、蓮は奪う。
ドアが開く。
「失礼いたします、副社長」
聞き慣れた声――望月玲香。
そして、その後ろに男性が二人。取引先らしい。
望月は完璧な笑顔で一礼し、結衣に視線を向けた。
「奥様、本日はお時間をいただきありがとうございます」
丁寧すぎて、冷たい。
結衣は頭を下げた。
「こちらこそ……」
リビングに通され、名刺交換が始まる。
結衣は言われた通り、座っているだけでいい。
夫の隣で微笑むだけ。
蓮は流れるように話し、望月が自然に資料を差し出す。
息が合っている。
言葉がなくても、視線だけで通じ合っている。
(夫婦より、夫婦みたい)
結衣はその感覚を振り払えなかった。
来客が帰ったのは、十時過ぎ。
玄関の扉が閉まる音がして、やっと家の中が静かになる。
結衣は息を吐いた。
その瞬間、蓮が低く言った。
「……疲れたなら、もう寝ろ」
また、それだ。
“お疲れさま”でもなく、“ありがとう”でもなく、命令みたいな言葉。
結衣は笑って頷いた。
「はい」
立ち上がると、膝が少しぐらついた。
体調の悪さが出たのかもしれない。
蓮がそれに気づき、眉を寄せる。
「……大丈夫か」
その言葉だけで、胸が少しだけ痛くなる。
心配してくれている。
でも、心配の形が“距離”のまま。
「大丈夫です」
結衣はいつもの返事をした。
大丈夫じゃないのに。
蓮は結衣の腕に手を伸ばしかけて、止めた。
指が空を掴む。
その“触れたいのに触れない”が、結衣をさらに苦しくさせる。
「……無理するな」
結衣は笑った。
「はい」
結衣が寝室へ向かうと、背後で蓮の声がした。
「……明日、家を空けろ」
結衣は立ち止まった。
「……え?」
蓮は廊下の向こうから、淡々と言う。
「俺も遅い。……家政婦を入れる。お前は、休め」
休め。
その言葉は優しさのはずなのに、結衣には刃だった。
(家政婦を入れるって……私が必要ないってこと?)
結衣は喉が詰まる。
「……私、そこまで……役に立ってませんか」
声が震えた。
蓮の足音が近づく。
蓮は結衣の前で止まり、眉を寄せた。
「……違う」
結衣は蓮を見上げた。
“違うなら、言って”
“何が違うのか教えて”
目がそう訴えてしまう。
でも、蓮は言葉を探して黙った。
黙る時間が、結衣には“答え”になる。
蓮がようやく、低く言った。
「……お前が倒れたら困る」
困る。
その言葉が、結衣の胸を刺した。
(困る、だけなんだ)
愛してるでも、必要でもなく、困る。
結衣は笑った。
笑顔が痛い。
「……ご迷惑、かけたくないです」
蓮の表情が一瞬揺れた。
でも、結衣はもう見ないふりをした。
「おやすみなさい」
結衣は寝室の扉を閉めた。
鍵はかけない。
けれど、心の方には鍵がかかってしまった。
ベッドに座り、結衣は天井を見つめる。
(私が倒れたら困る)
それは“優しさ”だ。
でも、結衣が欲しかった優しさは、そういうものじゃない。
――そばにいてほしい。
――触れてほしい。
――私だけに、あの柔らかい声を。
蓮の不器用な優しさは、いつも結衣を守る前に、突き放してしまう。
結衣の中で、その誤解は“確信”に変わっていった。
言葉を減らし、笑顔を増やし、必要以上に近づかない。
義母の前で求められた“妻”を演じるために、蓮の前で“重くない妻”になる。
(これなら、迷惑じゃないよね)
そう思い込むほど、胸の奥が空っぽになる。
蓮は結衣の変化に気づいているのか、いないのか。
朝の「行ってくる」はいつも通り短く、夜の「遅くなる」もいつも通りだった。
その日、結衣は体調が少し悪かった。
熱はない。
ただ、胃のあたりが重くて、息が浅い。
午後、ソファでうとうとしていると、スマホが震えた。
『今夜、来客がある』
蓮からのメッセージだった。
来客――誰だろう。
結衣の指先が冷える。
『望月が同行する。必要なら顔を出せ』
必要なら。
顔を出せ。
その言い方が、結衣の胸を鈍く殴った。
(私は“必要なときだけ”なんだ)
妻なのに。
同じ家なのに。
結衣は震える手で返信した。
『分かりました』
それ以上、何も書けなかった。
“誰ですか”も“何時ですか”も、聞けない。
夜。
蓮は九時頃に帰宅した。
珍しい早さなのに、結衣の胸は浮かない。
玄関で、結衣はいつも通りに言う。
「お帰りなさい」
蓮はコートを脱ぎながら、短く頷いた。
「……ただいま。準備はいいか」
「準備……?」
結衣の声がかすれる。
蓮は靴を揃えたまま、淡々と続ける。
「取引先の挨拶だ。形式だけでいい。座っていればいい」
座っていればいい。
形式だけ。
結衣の胸の奥が、冷たくなる。
(私は……飾り)
社内の噂と同じ言葉が、結衣の中で反響する。
インターホンが鳴った。
結衣が動こうとすると、蓮が先に玄関へ向かう。
「俺が出る」
結衣は立ち尽くした。
“妻が迎える”という役目すら、蓮は奪う。
ドアが開く。
「失礼いたします、副社長」
聞き慣れた声――望月玲香。
そして、その後ろに男性が二人。取引先らしい。
望月は完璧な笑顔で一礼し、結衣に視線を向けた。
「奥様、本日はお時間をいただきありがとうございます」
丁寧すぎて、冷たい。
結衣は頭を下げた。
「こちらこそ……」
リビングに通され、名刺交換が始まる。
結衣は言われた通り、座っているだけでいい。
夫の隣で微笑むだけ。
蓮は流れるように話し、望月が自然に資料を差し出す。
息が合っている。
言葉がなくても、視線だけで通じ合っている。
(夫婦より、夫婦みたい)
結衣はその感覚を振り払えなかった。
来客が帰ったのは、十時過ぎ。
玄関の扉が閉まる音がして、やっと家の中が静かになる。
結衣は息を吐いた。
その瞬間、蓮が低く言った。
「……疲れたなら、もう寝ろ」
また、それだ。
“お疲れさま”でもなく、“ありがとう”でもなく、命令みたいな言葉。
結衣は笑って頷いた。
「はい」
立ち上がると、膝が少しぐらついた。
体調の悪さが出たのかもしれない。
蓮がそれに気づき、眉を寄せる。
「……大丈夫か」
その言葉だけで、胸が少しだけ痛くなる。
心配してくれている。
でも、心配の形が“距離”のまま。
「大丈夫です」
結衣はいつもの返事をした。
大丈夫じゃないのに。
蓮は結衣の腕に手を伸ばしかけて、止めた。
指が空を掴む。
その“触れたいのに触れない”が、結衣をさらに苦しくさせる。
「……無理するな」
結衣は笑った。
「はい」
結衣が寝室へ向かうと、背後で蓮の声がした。
「……明日、家を空けろ」
結衣は立ち止まった。
「……え?」
蓮は廊下の向こうから、淡々と言う。
「俺も遅い。……家政婦を入れる。お前は、休め」
休め。
その言葉は優しさのはずなのに、結衣には刃だった。
(家政婦を入れるって……私が必要ないってこと?)
結衣は喉が詰まる。
「……私、そこまで……役に立ってませんか」
声が震えた。
蓮の足音が近づく。
蓮は結衣の前で止まり、眉を寄せた。
「……違う」
結衣は蓮を見上げた。
“違うなら、言って”
“何が違うのか教えて”
目がそう訴えてしまう。
でも、蓮は言葉を探して黙った。
黙る時間が、結衣には“答え”になる。
蓮がようやく、低く言った。
「……お前が倒れたら困る」
困る。
その言葉が、結衣の胸を刺した。
(困る、だけなんだ)
愛してるでも、必要でもなく、困る。
結衣は笑った。
笑顔が痛い。
「……ご迷惑、かけたくないです」
蓮の表情が一瞬揺れた。
でも、結衣はもう見ないふりをした。
「おやすみなさい」
結衣は寝室の扉を閉めた。
鍵はかけない。
けれど、心の方には鍵がかかってしまった。
ベッドに座り、結衣は天井を見つめる。
(私が倒れたら困る)
それは“優しさ”だ。
でも、結衣が欲しかった優しさは、そういうものじゃない。
――そばにいてほしい。
――触れてほしい。
――私だけに、あの柔らかい声を。
蓮の不器用な優しさは、いつも結衣を守る前に、突き放してしまう。
結衣の中で、その誤解は“確信”に変わっていった。

