義母の言葉は、家に帰っても消えなかった。
――妻なら、夫を満たしなさい。
――支えなさい。
――噂を立てられたら、家の恥。
結衣はキッチンに立ち、包丁を握りながら、同じ場所を切り続けていた。
気づけば、薄くなりすぎた人参がまな板に散らばっている。
(私、何してるんだろう)
食卓を整えること。
部屋を整えること。
笑顔を整えること。
それで“妻”になれるなら、結衣はもう十分すぎるほどやってきた。
なのに、蓮の心だけがどこにもいない。
鍵の音がしたのは、十時を少し回った頃だった。
結衣は深呼吸をして、玄関へ向かった。
今日は――逃げないと決めていた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
蓮はコートを脱ぎ、ネクタイを緩める。
疲れているのが分かる。
それでも結衣は、言葉を飲み込まないと決めた。
(遠回しでもいいから)
食卓に座った蓮の前に、結衣は湯気の立つ味噌汁を置いた。
蓮は短く言う。
「……ありがとう」
その“ありがとう”が、今日はやけに遠い。
結衣も席に座り、箸を取った。
食べられる気はしないのに、形だけでも“夫婦”をやらなければと思う。
沈黙が落ちる。
蓮は淡々と食べる。
結衣の胸だけがうるさい。
結衣は、箸を置いた。
「……蓮さん」
蓮が顔を上げる。
その瞳は冷たくない。
でも、近くもない。
「……どうした」
結衣は笑ってしまいそうになるのを堪えた。
笑ったら、また逃げるから。
「……お仕事、忙しいんですね」
言ってしまった瞬間、自分が情けなくなる。
本当は“忙しい”かどうかなんて聞きたいわけじゃない。
(誰といるの)
(私のことはどう思ってるの)
(猫のところの女の人は誰)
全部、言えない。
だから“忙しいんですね”になる。
蓮は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……ああ」
たった一文字。
結衣の胸が、ひゅっと縮む。
(それだけ?)
結衣は勇気を絞った。
もう少しだけ踏み込む。
でも、踏み込みすぎない。
壊れないギリギリを選ぶ。
「……最近、会食も多いみたいで」
蓮の箸が一瞬止まった。
「……予定が詰まってる」
また、“事実”だけ。
結衣は喉が熱くなる。
(私、聞き方を間違えてるのかな)
(もっと上手に言えば、あなたは話してくれる?)
結衣は唇を噛んだ。
義母の声が蘇る。
――妻なら、夫を満たしなさい。
結衣は、言い方を変えた。
できるだけ、優しく。
「……無理、しないでくださいね」
その言葉は、本心だった。
でも同時に、最後の確認だった。
(私を、必要としてる?)
蓮は結衣を見た。
ほんの少しだけ、目が揺れる。
言いたいことがある顔。
でも――。
「……大丈夫だ」
大丈夫。
その言葉が、結衣の心を一番深く切った。
(大丈夫なんだ)
私が心配しなくても。
私が待たなくても。
私が隣にいなくても。
結衣は笑った。
また、癖が出る。
泣く代わりに笑う癖。
「……そうですか」
蓮は皿を見つめたまま、低く言った。
「……お前は、考えすぎる」
考えすぎ。
その一言で、結衣の胸の中の痛みが全部“結衣の問題”にされてしまう。
(私が悪いの?)
結衣は息を吸って、もう一度だけ言った。
今度は、遠回しじゃなく“核心”に近い言葉を、薄く包んで。
「……私、邪魔ですか?」
空気が止まった。
蓮の目が結衣に向く。
驚いたように。
困ったように。
そして――何より、言葉を失ったように。
結衣はその沈黙を見てしまう。
(……答えられない)
その沈黙は、結衣にとって“肯定”だった。
邪魔じゃないなら、すぐ否定してくれるはずなのに。
蓮は、ようやく口を開いた。
「……そんなわけない」
否定。
なのに、遅すぎる。
遅すぎて、温度がない。
結衣は涙が出そうになって、視線を落とした。
「……じゃあ、私、何ですか」
言ってしまった。
でも結衣の中では、もう限界が来ていた。
蓮の指が、わずかに強張る。
「……結衣」
名前だけ。
説明はない。
抱きしめもしない。
触れもしない。
結衣は立ち上がった。
椅子が小さく鳴る。
その音がやけに大きかった。
「……ごめんなさい。変なことを言いました」
謝るな、と言われる前に謝ってしまう。
それが結衣の癖で、弱さで、最後の防御だった。
蓮は立ち上がりかけて、止まった。
「……待て」
結衣の肩が震えた。
“待て”じゃなく、“来い”が欲しかった。
“抱きしめる”が欲しかった。
結衣は背中を向けたまま、かすれた声で言った。
「……私、もう少し静かにしますね」
それは“努力”の形をした諦めだった。
蓮はそれ以上、何も言わなかった。
結衣が寝室の扉を閉めると、家の中がさらに静かになった。
布団の中で、結衣は天井を見つめた。
(隠してる)
忙しい、会食、大丈夫。
言葉が薄すぎて、逆に“隠してる”に見える。
結衣は目を閉じた。
涙が頬を伝うのを止められなかった。
――夫は、私にだけ優しくない。
その結論が、もう揺らがないところまで沈んでいく。

