あの夜から、結衣の中で何かが静かに変わった。
蓮が「取引先だ」と言ったこと。
「危ない時間だ」と言ったこと。
それ自体は、正しいのかもしれない。
でも結衣の胸に残ったのは、言葉よりも――映像だった。
黒い車。
後部座席。
女性の足首。
蓮の横顔。
そして、“私には触れない手”が、彼女には動いた気がした瞬間。
(私、何を見てしまったんだろう)
結衣は朝、洗面台の鏡の前で自分の顔を見つめた。
目が少し腫れている。
泣かなかったはずなのに、泣いた人の顔だった。
――気づかなければよかった。
気づいたら、戻れない。
蓮はいつも通り出社し、いつも通り短い言葉だけ残した。
「……行ってくる」
「……いってらっしゃい」
結衣の声は、空気に溶けた。
蓮は振り向きもしない。
振り向かないのではなく、振り向けないのかもしれない。
でも、結衣には同じだった。
昼過ぎ、真琴からメッセージが来た。
『今日、会える? 顔色悪いよ。』
結衣は返信できなかった。
“悪い”のは顔色だけじゃない。
心のほうが、もうどこかで折れている。
夕方、結衣は近所のスーパーへ出た。
帰り道、足が勝手に遠回りを選ぶ。
あの路地裏。
あの声を聞いてしまった場所。
(また、いるわけない)
そう思っても、足は止まらない。
結衣は自分が怖かった。
角を曲がった先の路地は、夕暮れの光が薄く滲んでいる。
濡れたアスファルトはもう乾いて、昨日の雨が嘘みたいだ。
――そして、いた。
段ボール箱の代わりに、小さなキャリーケース。
その横にしゃがむ、見慣れた背中。
(……蓮さん)
結衣の心臓が音を立てた。
蓮はスーツのまま、キャリーの扉を少し開けて、中に向かって声を落としている。
「……怖いか。……大丈夫」
結衣は、息が止まった。
その声。
あの雨の日と同じ、柔らかい声。
喉の奥が熱くなる。
「すぐ、温かいところに連れて行く。……我慢しろ」
猫が小さく鳴く。
蓮の口元が、ほんの少しだけ緩む。
結衣は、立っているだけで胸が痛くなった。
(私には、そんな声で話さない)
夫婦なのに。
同じ家にいるのに。
結衣に向けられるのは、いつも“指示”か“事務的な優しさ”だけだ。
――寝ろ。
――気にするな。
――問題ない。
それに比べて、猫には。
結衣は視線を落とし、買い物袋の持ち手を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛い。
そのとき、背後から軽い足音がした。
「九条さん!」
明るい声。
結衣の背中がひやりとする。
白いレインコートの女性――小春が駆け寄ってきた。
今日は雨じゃないのに、彼女はやっぱり“そこにいる”のが自然に見える。
「ルル、元気そう。よかった……!」
小春はキャリーを覗き込み、猫に話しかける。
「ほら、ルル。九条さんが来てくれたよ。よかったね」
ルル。
名前を呼ぶ声は、柔らかい。
小春の声は、結衣が知らない“優しさの空気”で満ちていた。
蓮は短く頷く。
「……任せる」
「はい。……本当にありがとうございます」
小春は笑った。
その笑顔が、結衣の胸を刺す。
(ありがとう、って言ってる)
蓮は“ありがとう”と言われることを嫌がらない。
結衣の「ありがとう」には、いつも短く返すだけなのに。
結衣の心が、音を立てて削れていく。
(私、何してるんだろう)
妻なのに。
夫の“知らない顔”を見て、嫉妬して、傷ついて。
みっともない。
でも、止められない。
蓮がふと顔を上げた。
視線がこちらへ向く。
結衣は反射的に、身を隠そうとしてしまった。
恥ずかしくて。
見てしまった自分が。
でも遅かった。
蓮の目が結衣を捉える。
空気が止まる。
「……結衣」
名前を呼ぶ声は硬い。
猫に向けた声とは、違う。
その違いが、結衣の胸を決定的に痛くした。
(やっぱり。私は、違う)
小春が結衣に気づいて、慌てて頭を下げた。
「あっ……奥様ですよね。すみません、突然。私は――」
結衣は聞こえないふりをした。
聞いたら、名前を知ってしまう。
関係を知ってしまう。
結衣は笑顔を作ってしまう。
勝手に、妻の仮面を被る。
「……大丈夫です」
声が震えたのを、誰にも気づかれないように。
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣の心臓が跳ねる。
でも、その一歩が怖い。
「……説明する」
蓮が低く言った。
結衣は首を振った。
自分でも驚くほど、強く。
「……いいです」
言ってしまった瞬間、胸が裂けそうになる。
本当は“聞きたい”のに、言えない。
でも、今さら聞いても意味がない気がした。
聞いたら、もっと惨めになる気がした。
結衣は買い物袋を抱え直し、蓮の横をすり抜けた。
「……帰ります」
蓮が何か言いかける。
でも結衣は足を止めなかった。
背中に、猫の鳴き声が聞こえる。
小春の「大丈夫だよ」という声が聞こえる。
蓮の低い「……任せた」が聞こえる。
――全部、結衣の知らない温度だった。
家へ向かう道で、結衣は自分の胸を押さえた。
息が苦しい。
(私、愛されてない)
その言葉が、現実の形になっていく。
猫にだけ優しい声。
私には、ない声。
結衣の自己肯定感は、雨で溶けるみたいに、静かに崩れていった。
蓮が「取引先だ」と言ったこと。
「危ない時間だ」と言ったこと。
それ自体は、正しいのかもしれない。
でも結衣の胸に残ったのは、言葉よりも――映像だった。
黒い車。
後部座席。
女性の足首。
蓮の横顔。
そして、“私には触れない手”が、彼女には動いた気がした瞬間。
(私、何を見てしまったんだろう)
結衣は朝、洗面台の鏡の前で自分の顔を見つめた。
目が少し腫れている。
泣かなかったはずなのに、泣いた人の顔だった。
――気づかなければよかった。
気づいたら、戻れない。
蓮はいつも通り出社し、いつも通り短い言葉だけ残した。
「……行ってくる」
「……いってらっしゃい」
結衣の声は、空気に溶けた。
蓮は振り向きもしない。
振り向かないのではなく、振り向けないのかもしれない。
でも、結衣には同じだった。
昼過ぎ、真琴からメッセージが来た。
『今日、会える? 顔色悪いよ。』
結衣は返信できなかった。
“悪い”のは顔色だけじゃない。
心のほうが、もうどこかで折れている。
夕方、結衣は近所のスーパーへ出た。
帰り道、足が勝手に遠回りを選ぶ。
あの路地裏。
あの声を聞いてしまった場所。
(また、いるわけない)
そう思っても、足は止まらない。
結衣は自分が怖かった。
角を曲がった先の路地は、夕暮れの光が薄く滲んでいる。
濡れたアスファルトはもう乾いて、昨日の雨が嘘みたいだ。
――そして、いた。
段ボール箱の代わりに、小さなキャリーケース。
その横にしゃがむ、見慣れた背中。
(……蓮さん)
結衣の心臓が音を立てた。
蓮はスーツのまま、キャリーの扉を少し開けて、中に向かって声を落としている。
「……怖いか。……大丈夫」
結衣は、息が止まった。
その声。
あの雨の日と同じ、柔らかい声。
喉の奥が熱くなる。
「すぐ、温かいところに連れて行く。……我慢しろ」
猫が小さく鳴く。
蓮の口元が、ほんの少しだけ緩む。
結衣は、立っているだけで胸が痛くなった。
(私には、そんな声で話さない)
夫婦なのに。
同じ家にいるのに。
結衣に向けられるのは、いつも“指示”か“事務的な優しさ”だけだ。
――寝ろ。
――気にするな。
――問題ない。
それに比べて、猫には。
結衣は視線を落とし、買い物袋の持ち手を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛い。
そのとき、背後から軽い足音がした。
「九条さん!」
明るい声。
結衣の背中がひやりとする。
白いレインコートの女性――小春が駆け寄ってきた。
今日は雨じゃないのに、彼女はやっぱり“そこにいる”のが自然に見える。
「ルル、元気そう。よかった……!」
小春はキャリーを覗き込み、猫に話しかける。
「ほら、ルル。九条さんが来てくれたよ。よかったね」
ルル。
名前を呼ぶ声は、柔らかい。
小春の声は、結衣が知らない“優しさの空気”で満ちていた。
蓮は短く頷く。
「……任せる」
「はい。……本当にありがとうございます」
小春は笑った。
その笑顔が、結衣の胸を刺す。
(ありがとう、って言ってる)
蓮は“ありがとう”と言われることを嫌がらない。
結衣の「ありがとう」には、いつも短く返すだけなのに。
結衣の心が、音を立てて削れていく。
(私、何してるんだろう)
妻なのに。
夫の“知らない顔”を見て、嫉妬して、傷ついて。
みっともない。
でも、止められない。
蓮がふと顔を上げた。
視線がこちらへ向く。
結衣は反射的に、身を隠そうとしてしまった。
恥ずかしくて。
見てしまった自分が。
でも遅かった。
蓮の目が結衣を捉える。
空気が止まる。
「……結衣」
名前を呼ぶ声は硬い。
猫に向けた声とは、違う。
その違いが、結衣の胸を決定的に痛くした。
(やっぱり。私は、違う)
小春が結衣に気づいて、慌てて頭を下げた。
「あっ……奥様ですよね。すみません、突然。私は――」
結衣は聞こえないふりをした。
聞いたら、名前を知ってしまう。
関係を知ってしまう。
結衣は笑顔を作ってしまう。
勝手に、妻の仮面を被る。
「……大丈夫です」
声が震えたのを、誰にも気づかれないように。
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣の心臓が跳ねる。
でも、その一歩が怖い。
「……説明する」
蓮が低く言った。
結衣は首を振った。
自分でも驚くほど、強く。
「……いいです」
言ってしまった瞬間、胸が裂けそうになる。
本当は“聞きたい”のに、言えない。
でも、今さら聞いても意味がない気がした。
聞いたら、もっと惨めになる気がした。
結衣は買い物袋を抱え直し、蓮の横をすり抜けた。
「……帰ります」
蓮が何か言いかける。
でも結衣は足を止めなかった。
背中に、猫の鳴き声が聞こえる。
小春の「大丈夫だよ」という声が聞こえる。
蓮の低い「……任せた」が聞こえる。
――全部、結衣の知らない温度だった。
家へ向かう道で、結衣は自分の胸を押さえた。
息が苦しい。
(私、愛されてない)
その言葉が、現実の形になっていく。
猫にだけ優しい声。
私には、ない声。
結衣の自己肯定感は、雨で溶けるみたいに、静かに崩れていった。

