本当はあなたに言いたかった

 夜更けの自室は、音が少なかった。
 時計の針が進む音と、カーテンの隙間から入る風の音だけ。
 静かなはずなのに、結菜の胸の中はうるさい。

 ——婚約発表は目前。
 ——社内は“追い風”と言う。
 ——鷹宮の条件は整った。
 ——朝霧家は揺れない。

 揺れているのは、結菜だけだ。

 結菜はドレッサーの前に座り、ペンを握った。
 白い便箋。
 角の揃った封筒。
 書き出しの一行目を、何度も何度もやり直している。

 《拓真へ》
 それだけが、綺麗に書けた。
 それ以外は、書けない。

 栗色の巻き毛が肩に落ち、結菜はそれを指で耳にかけた。
 可愛らしい顔を鏡が映す。
 その顔は、令嬢の顔だ。
 でも今だけは、娘の顔になりたかった。

 結菜は、息を吸って、書いた。

 《ごめんね》

 たった四文字で、目の奥が熱くなった。
 ごめん。
 ごめん、と言うほど、何に謝っているのか増えていく。

 ——嘘をついたこと。
 ——逃げたこと。
 ——触らないでと言ったこと。
 ——好きなのに、守るふりをしたこと。

 結菜はペン先を止め、紙を見つめた。
 涙が落ちそうになって、睫毛の奥で止める。
 泣いたら、負ける。
 泣いたら、可哀想な令嬢になる。

 結菜は、次の行を書いた。

 《本当は、あなたに言いたかった》

 言いたかった。
 過去形にした瞬間、胸が痛い。
 言いたかったのに、言わなかった。
 言わなかったから、今こうなっている。

 結菜は、唇を噛んだ。

 (言えば、全部壊れる)

 父の言葉が蘇る。
 《片岡に漏らすな》
 祖父の言葉が刺さる。
 《余計な感情は捨てろ》
 鷹宮の穏やかな声が、さらに鎖を増やす。
 《波風を立てないでください》

 波風を立てたら、朝霧が揺れる。
 朝霧が揺れたら、結菜が原因になる。
 結菜が原因になったら、拓真は壊れる。

 ——だから、言えない。

 結菜は、震える手で続けた。

 《でも、言えなかった》

 紙の上に、ぽたりと小さな雫が落ちた。
 結菜は慌てて手の甲で拭う。
 拭った跡が、薄く滲む。
 文字が歪む。

 滲んだ文字が、結菜の心みたいだった。

 結菜は深呼吸し、次の言葉を書こうとして——止まった。

 《見合い》
 という単語が、頭の中で浮かぶ。
 書いた瞬間に、全てが現実になる。
 書かなくても現実なのに、書いたら拓真に届いてしまう。

 (届いたら、拓真は動く)

 動いたら戦争だ、と黒崎が言った。
 戦争になったら、結菜が一番困る。
 結菜が守りたい朝霧が、傷つく。
 結菜が守りたい拓真が、傷つく。

 だから——

 結菜は、紙の上に書けない。

 結菜は代わりに、別の行を書いた。

 《私がいなくても、あなたは大丈夫》

 嘘。
 自分に言い聞かせるための嘘。
 拓真に言いたい言葉じゃないのに、書いてしまう。
 書いてしまうほど、自分が弱い。

 結菜はペンを置き、紙を見た。
 《ごめんね》
 《本当は、あなたに言いたかった》
 《でも、言えなかった》
 《私がいなくても、あなたは大丈夫》

 どれも、拓真に読ませたくない言葉だった。
 読ませたら、拓真は否定する。
 否定して、動いて、壊す。

 結菜は、封筒を手に取った。
 そこに便箋を入れる寸前で、手が止まる。

 (……これを渡すのは、助けを求めることだ)

 助けを求めるな、と父は言った。
 朝霧は助けを買う側だ、と。
 結菜は朝霧の令嬢として、それを守らなければならない。

 結菜は目を閉じた。
 拓真の声が耳の奥で蘇る。

『なんで黙ってた』
『俺を信用してないのか』
『守りたいのに守れねぇ』

 結菜は、息が苦しくなった。
 この手紙を送れば、拓真はきっと来る。
 来てしまう。
 そして拓真は、結菜を抱きしめるか、怒鳴るか、どちらかだ。
 どちらにしても、噂が燃える。

 (言えば、全部壊れる)

 結菜は、ゆっくりと便箋を取り出した。
 封筒から外す。
 手紙を“送らない”という選択肢を、選ぶ。

 そして——

 結菜は便箋を、真ん中から破いた。

 紙が裂ける音は、思ったより大きかった。
 静かな部屋に、痛いほど響く。

 一枚。
 もう一枚。

 文字の部分が、裂けていく。
 《拓真へ》が、二つに割れる。
 《ごめんね》が、ちぎれる。
 滲んだインクが、さらに滲む。

 破れた紙片が、膝の上に落ちる。
 まるで、結菜の言えなかった言葉の残骸みたいだった。


 結菜は紙片を見つめ、笑った。
 笑うしかない。

「……馬鹿みたい」

 馬鹿みたいに好きで、馬鹿みたいに言えない。

 結菜は破れた紙を、そっとゴミ箱に落とした。
 落とした瞬間、胸の奥で何かがぎゅっと縮む。

 これで、拓真には届かない。
 届かないから、朝霧は守られる。
 届かないから、波風は立たない。

 ——届かないから、結菜は一人だ。

 結菜は立ち上がり、窓辺に近づいた。
 夜の街が光っている。
 誰もが自分の生活を続けている。

 結菜はガラスに指先を当て、ぽつりと呟いた。

「……私、何してるんだろ」

 答えは返らない。
 返らないまま、結菜は令嬢の顔を作る練習をする。
 明日も笑って立つために。

 婚約発表前夜が近づいている。
 整えられた未来が、もうすぐ“確定”になる。

 結菜は、もう一度だけ、心の中で拓真の名前を呼んだ。

 (拓真……ごめん)

 言葉は、紙にも、声にもできないまま。