翌朝。
結衣は重い体を引きずるようにして、派遣会社へ向かっていた。
昨夜の雨で冷えた体よりも――心の方が、何倍も重い。
辞退を受け入れてもらい、別の職場を探すつもりだった。
だが、担当者の口から放たれた言葉は、予想とはまったく違っていた。
「水瀬さん、アドバンス・システムの瀬戸マネージャーから、直接連絡がありました。
“昨日の体調不良は一時的なものだと聞いている。プロジェクト継続を強く希望する”――と。
あんなに熱心に引き止めるなんて、異例よ」
昨夜の雨の中、立ち尽くしていた直人の姿が、胸によみがえる。
「業務続行」という名の――宣戦布告。
“逃がさない”という、静かな意思。
(どうして……真実を知って、もう顔を合わせる資格なんてないのに)
断る勇気も、理由も、いまの結衣には残されていなかった。
再び踏み入れる、24階のオフィス。
デスクへ向かうと、直人はすでに資料を広げていた。
昨夜の激しさが嘘のように、彼は冷徹な「瀬戸マネージャー」の顔に戻っている。
「おはようございます……」
蚊の鳴くような声の挨拶に、直人は一瞥すら寄こさず、キーボードの音だけを響かせた。
「水瀬さん。昨日渡した資料――十時までにサマリーを作っておいてくれ。
遅れた分は、仕事で取り返してもらわないと困る」
冷たい口調。
「やっぱり鬼だ」と、周囲の囁きが走る。
結衣は唇を噛み、パソコンを立ち上げた――が、ふと視線が止まる。
直人のデスクの端。
昨日、泥に汚れていたはずの “あのマグカップ” が、綺麗に洗われて置かれていた。
その隣には、無造作に置かれた一錠の風邪薬。
「……瀬戸さん。これ――」
「隣で咳き込まれると仕事の邪魔だ。さっさと飲め」
視線は画面から外れない。
だが――耳たぶだけが、わずかに赤く染まっていた。
結衣は気づいてしまう。
それが叱責でも、命令でもなく――
ひどく、不器用な気遣いだということに。
午後。
プロジェクト会議の最中、結衣は直人の指示出しの鮮やかさに息を呑んだ。
かつての優しい「なおくん」は、三年間で――
誰もが頼る、強く厳しいリーダーへと変わっていた。
一方、直人もまた、結衣が作成したサマリーの精度に目を見張る。
(……お前も変わったんだな。
俺の知らない場所で、必死に――生きてきたんだな)
互いに、
変化を認めざるを得なかった。
それでも、ふと目が合えば――
どちらかが、慌てて視線を逸らす。
誤解は解けた。
だが、三年分の「沈黙」と「憎しみ」の壁は、いまだ高く聳えたまま。
その時、直人のスマホに通知が入った。
『サオリ(姉):直人、体調はどう? 結衣さんと話せた?』
結衣はその文字を見つめる。
今度は――“浮気”ではなく。
“壊してしまった幸福の象徴”として。
胸が、静かに痛んだ。
「……水瀬さん。今日の残業、つき合ってもらうぞ」
直人は低く言う。
「三年分の――いや、昨日の遅れを取り戻す必要があるからな」
それは、ただの業務命令のはずなのに。
結衣の耳には――
不器用な、
小さな“一歩”の音として、届いた。

