翌朝。
目覚めた瞬間、志穂の胸にはまだ重たい痛みが残っていた。
(……昨日のこと、夢じゃなかった)
ガラス越しに見えた影。
“守るよ”と誰かに言う悠真。
折れたヒールを支えてくれた強い腕。
全部が胸を掴むように思い出される。
軽く頭を振り、志穂は気持ちを整えるように玄関の鏡をのぞいた。
(……泣いた跡、残ってないかな)
化粧で隠しても、気持ちは誤魔化せなかった。
会社に着き、秘書課のデスクへ向かう途中。
給湯室の方から、女性たちの声が聞こえてきた。
軽い雑談のような響き――
けれど、不思議と胸騒ぎがした。
「聞いた? 昨日の夜の話」
「え? なに?」
「副社長よ。役員フロアで女の人と話してたって。
遅い時間に、ふたりきりで」
「ほんと? しかもその女性、すっごく綺麗だったって聞いたわ」
志穂の足が止まった。
(……っ)
廊下の壁に手をつき、そっと耳を傾けてしまう。
「え、まさか……恋人とか?」
「どうだろうね。
でも、昔から副社長って真理さまのこと“特別視”してたって有名じゃない?」
「やっぱり……そうなんだ」
ザァッ――
頭の中で、砂をかき混ぜるような音がした。
(お姉ちゃん……特別?)
声が震えそうになる。
「志穂さん、かわいいけど……真理さまには敵わないよね」
「ね。もし本当に“真理さま”と副社長が話してたなら、
あの二人……ほんとにお似合いだと思う」
「じゃあ……政略結婚って、やっぱり“形だけ”なのかな?」
(いや……やめて)
一つひとつの言葉が、
胸の奥に鋭く刺さっていく。
指先が冷たくなり、呼吸すら浅くなった。
堪えられず、志穂は給湯室に背を向け、
まっすぐ廊下を歩いて離れた。
(……どうして?
ただ見ただけなのに……噂になるの、早すぎるよ……)
エレベーターの壁に寄りかかり、
志穂はそっと目をつむる。
(誰かに話したわけじゃないのに……
でも、聞こえたその通りだったら……)
胸の奥が、ひどく苦しくなった。
その日の昼休み。
志穂が資料を持って廊下を歩いていると、
ふいに声をかけられる。
「志穂さん、大丈夫?」
秘書課の先輩・小嶋が心配そうに覗き込んできた。
「え……? 何がですか?」
「だって……噂、聞いたでしょ?
副社長が昨夜、女性と会ってたって」
小嶋は、志穂を伺うような目で見つめる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
「そ、そう……なんですか?」
「知らなかったの?
志穂さん、奥さまなのに……」
その言葉がいちばん刺さる。
志穂は苦笑いのような微笑みを浮かべた。
「お仕事の話だったんじゃないですか……?」
「ううん。
副社長、すっごく優しい声だったって聞いたよ。
相手の女性の肩にも触れてたって」
(肩……?)
昨日の影が脳裏をよぎる。
「ま、まさか……」
「志穂さんが心配で。
……副社長、最近よく誰かと電話してるみたいだし」
小嶋は、意地悪そうに言った。
(電話……誰と?)
胸が一瞬でざわついた。
息をするのも苦しい。
「……ありがとうございます。
少し、気をつけますね」
そう言って笑ったものの、
心の奥はひどく荒れていた。
夕方。
帰りの準備をしていると、
ふっと視界の端に悠真の姿が映った。
スーツのジャケットを肩に掛け、
スマートフォンで誰かと話している。
「……ああ、今夜伺う。
――わかってる。“彼女”のことは、俺が責任を持つ」
(“彼女”?)
胸が、一気に冷たくなる。
真理?
それとも……昨夜の、あの女性?
(もう……わからない)
息が震えた。
悠真がこちらに気づき、電話を切る。
「志穂。帰るなら一緒に――」
「っ……今日はひとりで帰ります」
遮るように言って、志穂は頭を下げた。
「すみません……どうしても」
「志穂?」
「行くね。」
逃げるように、
志穂はバックを抱えて立ち去った。
廊下を歩きながら、
胸の奥で言葉にならない痛みが広がっていく。
(噂が本当だったら……どうしよう)
(“守るよ”って言ってたのは――
誰を? 誰を守るの?)
夕暮れの光が滲んで、
涙と混じって世界がよく見えなかった。
目覚めた瞬間、志穂の胸にはまだ重たい痛みが残っていた。
(……昨日のこと、夢じゃなかった)
ガラス越しに見えた影。
“守るよ”と誰かに言う悠真。
折れたヒールを支えてくれた強い腕。
全部が胸を掴むように思い出される。
軽く頭を振り、志穂は気持ちを整えるように玄関の鏡をのぞいた。
(……泣いた跡、残ってないかな)
化粧で隠しても、気持ちは誤魔化せなかった。
会社に着き、秘書課のデスクへ向かう途中。
給湯室の方から、女性たちの声が聞こえてきた。
軽い雑談のような響き――
けれど、不思議と胸騒ぎがした。
「聞いた? 昨日の夜の話」
「え? なに?」
「副社長よ。役員フロアで女の人と話してたって。
遅い時間に、ふたりきりで」
「ほんと? しかもその女性、すっごく綺麗だったって聞いたわ」
志穂の足が止まった。
(……っ)
廊下の壁に手をつき、そっと耳を傾けてしまう。
「え、まさか……恋人とか?」
「どうだろうね。
でも、昔から副社長って真理さまのこと“特別視”してたって有名じゃない?」
「やっぱり……そうなんだ」
ザァッ――
頭の中で、砂をかき混ぜるような音がした。
(お姉ちゃん……特別?)
声が震えそうになる。
「志穂さん、かわいいけど……真理さまには敵わないよね」
「ね。もし本当に“真理さま”と副社長が話してたなら、
あの二人……ほんとにお似合いだと思う」
「じゃあ……政略結婚って、やっぱり“形だけ”なのかな?」
(いや……やめて)
一つひとつの言葉が、
胸の奥に鋭く刺さっていく。
指先が冷たくなり、呼吸すら浅くなった。
堪えられず、志穂は給湯室に背を向け、
まっすぐ廊下を歩いて離れた。
(……どうして?
ただ見ただけなのに……噂になるの、早すぎるよ……)
エレベーターの壁に寄りかかり、
志穂はそっと目をつむる。
(誰かに話したわけじゃないのに……
でも、聞こえたその通りだったら……)
胸の奥が、ひどく苦しくなった。
その日の昼休み。
志穂が資料を持って廊下を歩いていると、
ふいに声をかけられる。
「志穂さん、大丈夫?」
秘書課の先輩・小嶋が心配そうに覗き込んできた。
「え……? 何がですか?」
「だって……噂、聞いたでしょ?
副社長が昨夜、女性と会ってたって」
小嶋は、志穂を伺うような目で見つめる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
「そ、そう……なんですか?」
「知らなかったの?
志穂さん、奥さまなのに……」
その言葉がいちばん刺さる。
志穂は苦笑いのような微笑みを浮かべた。
「お仕事の話だったんじゃないですか……?」
「ううん。
副社長、すっごく優しい声だったって聞いたよ。
相手の女性の肩にも触れてたって」
(肩……?)
昨日の影が脳裏をよぎる。
「ま、まさか……」
「志穂さんが心配で。
……副社長、最近よく誰かと電話してるみたいだし」
小嶋は、意地悪そうに言った。
(電話……誰と?)
胸が一瞬でざわついた。
息をするのも苦しい。
「……ありがとうございます。
少し、気をつけますね」
そう言って笑ったものの、
心の奥はひどく荒れていた。
夕方。
帰りの準備をしていると、
ふっと視界の端に悠真の姿が映った。
スーツのジャケットを肩に掛け、
スマートフォンで誰かと話している。
「……ああ、今夜伺う。
――わかってる。“彼女”のことは、俺が責任を持つ」
(“彼女”?)
胸が、一気に冷たくなる。
真理?
それとも……昨夜の、あの女性?
(もう……わからない)
息が震えた。
悠真がこちらに気づき、電話を切る。
「志穂。帰るなら一緒に――」
「っ……今日はひとりで帰ります」
遮るように言って、志穂は頭を下げた。
「すみません……どうしても」
「志穂?」
「行くね。」
逃げるように、
志穂はバックを抱えて立ち去った。
廊下を歩きながら、
胸の奥で言葉にならない痛みが広がっていく。
(噂が本当だったら……どうしよう)
(“守るよ”って言ってたのは――
誰を? 誰を守るの?)
夕暮れの光が滲んで、
涙と混じって世界がよく見えなかった。

