エレベーターの扉が閉まり、
 静かな下降音が耳に流れ込んでくる。

(……信じたくない)

 胸の奥で、苦しいほど何度もその言葉が反響する。
 視界は涙でにじみ、ぼやけた数字が階数を示していた。

(“守るよ”って……どうして、私じゃなくて――)

 喉が熱く、うまく息ができない。

 エレベーターが一階に着き、扉が開いた。
 広いロビーに出ると、照明の光がまぶしくて、志穂は思わず目を伏せた。

(早く……外に出たい)

 胸の内側から押し出されるように、身体が前へ動く。

 ゆっくり歩いたせいで、ちょうど外の自動ドアに差しかかった瞬間だった。

 ――パキン。

 ヒールの先が、不自然な角度で折れた。

「……っ!」

 バランスを崩し、身体が前につんのめる。
 床と顔が近づいていく。

(だめ……!)

 その時。

「危ない!」

 強い腕が、志穂の腰をぐっと支えた。
 胸の奥まで響くような力で。

「っ……悠真……さん?」

 顔を上げると、息を切らした悠真がいた。
 ネクタイも緩めず、走ってきたのがわかる。

 彼の手は、まだ志穂をしっかり抱きとめていた。

「どうして……」

「下の階に君のカードが残っていると秘書から聞いて……探していた」

 息が少し乱れている。
 それだけで、胸が痛いほど苦しくなる。

「こんな時間に、何をしているんだ。転ぶところだっただろう」

 叱るような声なのに、その手つきは震えていた。

「ごめんな……さい……」

 泣くつもりなんてなかったのに、
 声が勝手に震えてしまった。

 悠真の眉が、驚いたように寄る。

「……志穂、泣いてるのか?」

「っ……泣いてません」

「泣いてる」

 そっと、頬に触れようとする。
 志穂は反射的に後ずさる。

「さわらないで……っ」

 悠真の手が止まる。

「どうしたんだ。何があった?」

 真剣に、深く心配している顔。
 それを見た瞬間、志穂の胸の奥で何かが弾けた。

(どうしてそんな顔を……!
 どうして、私じゃなくて……)

「……何でも、ありません」

「志穂」

「離して……ください」

「転ぶ」

「もう、大丈夫です」

 そう言っても、泣きたくなるほど大丈夫じゃなかった。



 折れたヒールを手に、志穂は無理やり姿勢を立て直す。
 それを見ていた悠真が、ため息まじりに言った。

「靴を脱げ。歩けないだろう」

「歩けます」

「無理だ」

「……無理でも、歩きます」

 ぽつりと落ちる涙。
 志穂自身、どうしてここまで強がりたいのかわからなかった。

 ただ――今は、悠真に触れられるのが怖かった。

(あの柔らかい声を……
 私以外の女性に向ける人に……
 優しくされたくない)

 志穂が一歩踏み出すと、
 悠真も無言で横に並んだ。

「送る」

「けっこうです」

「夜だ。危ない」

「危なくても……」

 声がかすれる。

「……今は、ひとりになりたい」

 その一言に、悠真は動きを止めた。

「ひとりになって……何をする」

「何もしません。
 ただ……泣くかもしれませんけど」

 苦笑まじりに言うと、
 悠真の目が痛いほど切ない色に変わった。

「……泣かせたくて言っているんじゃない」

「そんなこと……わかってます」

 本当はわかっていた。
 彼が優しいことも、不器用なことも。

 でも――
 あの“ガラス越しの影”が、
 すべてを壊してしまった。

 志穂は深く息を吸い、絞るように言った。

「……今日は、先に帰ります」

「志穂」

「おやすみなさい、悠真さん」

 その言葉を残し、志穂は折れたヒールを片手に、
 静かな夜の道へ歩き出した。

 背中に残るのは、
 悠真の何かを言いかけたまま結局言えない、
 沈黙だけだった。