エレベーターの扉が静かな音を立てて開いた。
 役員フロアの廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 時計は、夜の九時半を示していた。

(資料を渡したら、すぐ帰ろう……)

 志穂は厚いファイルを抱え、
 ペタペタと控えめなヒールの音を鳴らしながら歩き始めた。

 廊下の奥、ガラス張りのラウンジ。
 普段なら真っ暗なはずなのに――

 ――灯りがついている。

(……誰かいる?)

 その光だけで、胸がざわつく。

 ゆっくり近づくと、
 ガラス越しに“影”が二つ、揺れているのが見えた。

 ひとつは背の高い男性。
 広い肩、細い腰、癖のない立ち姿。

(……悠真さん?)

 息が止まるようだった。

 そして、彼の向かいに座るのは――
 長い髪を肩に流した、大人びた雰囲気の女性。

 上品で、落ち着いていて、
 角度によっては――どうしても、真理に見えてしまう。

 志穂の胸が、痛みの予感で締めつけられた。

(そんな……どうしてお姉ちゃんが……)

 震える足で、
 ガラスの影にならぬよう、そっと横へずれる。
 けれど耳は、二人の会話を拾ってしまう。

「……わかった。君の言うことは理解した」

 悠真の声だった。
 抑えた低い声。
 普段、志穂には向けられない、柔らかな響き。

「だけど――」

 続く言葉は、驚くほど静かだった。

「君のことは……絶対に守るよ」

 その“君”が誰を指すのか。
 志穂には、考えるまでもなく“真理”だと思えてしまった。

 女性が小さく笑い、
 その影が――悠真の腕に触れたように見えた。

(やめて……やめて……)

 心の中で必死に叫ぶ。
 だけど、声は出ない。

 ガラス越しの光が滲み、
 志穂の目が熱くなる。

(どうして……)

 胸の奥でひびが入るような痛み。
 息が、苦しい。

(どうして私は……“守るよ”なんて言われたこと、ないのに)

 ハイヒールのかかとが、
 かすかにカツ、と鳴ってしまった。

 女性が見上げる。
 その瞬間、志穂は反射的に壁の陰へ飛び込んだ。

(見られた……?)

 鼓動が痛いほど速くなる。
 呼吸が荒い。

 ラウンジの灯りが、
 まだ温かく二人の影を映している。

(――私じゃ、ないんだ)

 志穂は、耐えきれずに背中を丸めた。

(“愛してる”なんて……
 言われるはず、なかったんだ)

 涙が頬に落ち、
 静かな廊下の床に小さな跡を残した。

 ファイルを胸に抱きしめたまま、
 志穂はその場を離れ、エレベーターへ向かって歩き始めた。

 視界が滲んで、
 前がよく見えない。

 最後にもう一度だけ振り返ると――
 ガラス越しに見えた悠真のシルエットが、
 まるで“誰かを大切に守る男”のように見えた。

 その“誰か”が自分ではないと知ることは、
 こんなにも痛いものなのか。

 エレベーターの扉が閉まる瞬間、
 志穂の胸の奥で、かすかに何かが崩れ落ちた