午後の役員会議が終わり、
 志穂は資料の束を両腕に抱えて父の部屋を出た。

 廊下は静かで、高層階ならではの夜景がガラス越しに広がっている。
 ネオンがぼんやりと滲み、少し疲れた目に優しく映った。

(……重いな)

 抱えていた書類の端が腕に食いこむ。
 力を入れすぎて指先が白くなっていた。

 エレベーターホールに向かおうとした時――

「志穂」

 急に腕をつかまれ、志穂は驚いて振り返る。

「ゆ、悠真さん……?」

 いつもの副社長の落ち着いた顔。
 けれど、その眉間はわずかに険しい。

「そんな山ほどの資料、ひとりで持つな」

「え……だ、大丈夫です」

「大丈夫じゃない。見ればわかる」

 志穂の腕から資料を奪い取るようにして抱え込む。
 その手つきがあまりにも自然で、
 昔――庭で転びそうになった自分を支えてくれた時を思い出す。

(どうして……こんな優しさを向けるの?)

 胸がきゅっと痛む。

「ほら、行くぞ」

 歩き出した悠真の背中を、志穂は急いで追いかけた。

「……すみません。手を煩わせて」

「別に。煩ってはいない」

「でも……忙しいのに」

「忙しくても、君のことは放っておけない」

「……!」

 その言葉があまりにも自然で、
 志穂は思わず足を止めてしまう。

(どうしてそんなこと……言うの?
 私の気持ちなんて、知らないくせに)

 喉が少し熱くなる。

「ほら、来い」

 悠真は振り返らずに言った。

 その顔の見えない背中に、
 志穂はどうしても聞きたい言葉を重ねてしまう。

「……ねえ、悠真さん」

「なんだ」

「もし……私がいなくなったら、困りますか?」

 足が止まる。
 廊下の静寂が一瞬だけ濃くなる。

「いなくなる……? どういう意味だ」

「その……ただの話です。仮定の話」

「仮定でも嫌だ」

「え……?」

「君がいなくなるのは困る。……当たり前だろう」

 その声音は低くて、真剣だった。
 でも――志穂の心には届かない。

「“家のため”ですか? それとも……」

「違う」

 即答だった。
 その一言に、志穂の鼓動が大きく跳ねる。

「じゃあ……どうして?」

「……」

 答えられない沈黙。
 けれど、その沈黙こそが、志穂には一番つらかった。

(結局……“愛してる”とは言えないんだ)

 はっきり言われたわけではないのに、
 心が勝手に結論を下してしまう。



 資料を悠真の執務室へ運び終えると、
 悠真はデスクに置かれたコーヒーを志穂に差し出した。

「飲め。今日は冷える」

「……ありがとうございます」

 志穂がカップを両手で包むと、
 悠真は少しだけ視線を落とした。

「……昼、食べただろうかと思って」

「え?」

「最近……あまり食べてない気がしたから」

「そ、そんな……ちゃんと食べてます」

「本当に?」

「……たぶん」

「たぶんでは駄目だ」

 叱るようで、でも声は優しい。

(こんなふうに気にしてくれるのに……どうして“好き”って言ってくれないの?)

 心の中の声が、何度も何度もこだまする。



 その時――
 部屋の外から、女性の声が聞こえた。

「――副社長、お時間よろしいですか?」

 志穂はびくりと肩を震わせる。

 昨日の夜、見た“女性と話す悠真の姿”が脳裏に蘇る。
 ガラス越しのシルエット。
 柔らかい声で優しく話す彼。

(まさか……今日も?)

 胸が痛むどころか、凍りつく。

 悠真は志穂を見ることもなく、
 書類を整えて扉の方へ向かった。

「少し話してくる。……その間、ここで待っていてくれ」

「え……」

「志穂だけ置いて行くわけにはいかない。すぐ戻る」

 言い方は優しいのに、
 “私を置いて別の女性と会う理由”にはならない。

 扉が閉まる音がして、
 静寂が落ちた。

 志穂は震える指先で、コーヒーのカップを見つめた。

(どうして……?
 どうして私じゃなくて――?
 ……?)

 胸が苦しくなり、息が浅くなる。

 わかりにくい優しさは、
 ときに、残酷より残酷になる。

 遠くで聞こえた女性の声が、
 志穂の心の糸を、静かに引き裂いていった。