六か月前。
 一条グループと西園寺財閥――二つの巨大企業のトップが並ぶ、重厚な会議室。

 志穂は、父の隣で背筋を伸ばして座っていた。
 緊張で指先が冷たい。けれど、顔だけは笑っていなければならない。

 その対面に、悠真がいた。

 黒のスーツをきっちり着こなし、淡々と書類に目を通している。
 視線が一瞬だけ上がり、志穂とわずかに目が合った。

 ――けれど、その瞳から感情を読み取ることはできなかった。

「では、婚姻に向けた最終確認だ」

 志穂の父の声が、静寂に落ちる。

 会議テーブルの上に、二つの書類が置かれた。
 一つは結婚契約――もう一つは株式譲渡の覚書。

 書類の存在が“政略”の二文字を嫌でも浮き上がらせる。

「志穂、サインを」

「……はい」

 ペンを持つ手が震える。
 視界の端で、悠真が同じようにサインをする姿が見えた。

 ――ただの手続きみたいに。
 まるで、今日が人生の分岐点ではないみたいに。

(この結婚は、“好き”の前に“義務”があるんだ)

 胸が静かに痛んだ。

 契約書にサインを終えると、悠真が立ち上がった。
 父親たちに向かって一礼し、それから志穂の方へ視線を向ける。

「……これから、よろしくお願いします。志穂さん」

 丁寧で、仕事の挨拶みたいな声音。
 志穂はこみあげる寂しさをごまかすように微笑んだ。

「こちらこそ……よろしくお願いします」

 その瞬間、父が黒い箱を渡してきた。

「悠真くん。志穂への婚約指輪だ」

 蓋を開けば、細いリングに、小さく繊細なダイヤが輝く。
 控えめだけれど上品で、昔、庭で作ったクローバーの指輪を思い出すような、静かで優しい形。

 悠真が一歩近づき、志穂の左手をそっと取った。

 その手つきは驚くほど慎重で――
 指先が触れるだけで、志穂の心臓が跳ねた。

「失礼します」

 薬指にすべらせるように指輪を嵌める。
 冷たさと温かさが混ざり合い、胸の奥がじんわり熱くなった。

「……似合ってる」

 たった一言。
 けれど、志穂の心を貫くには、十分すぎた。

「ありがとうございます……」

 かすれた声で答えた時、真理の姿が目に入る。
 姉は静かに微笑んでいたが、その表情はどこか読めない。

 父同士が握手を交わし、「これで両家は盤石だ」と満足げに言う。
 志穂はその言葉に、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。

(……私との結婚は、“家を守るため”のものなんだ)

 そう気づくと同時に、ふと横を見る。

 ――悠真は、真理の方を見ていた。

 真理は穏やかに微笑み返し、そのやりとりが志穂の胸をずきりと刺す。

(……やっぱり。悠真さんが好きなのは、お姉ちゃんなんだ)

 幼い頃から知っていた。
 真理は誰より美しく、賢くて、人に好かれる人だ。

 だから、彼がそっちを見るのなんて当然だと――自分に言い聞かせる。

 会議室のライトが、指輪をかすかに輝かせる。
 まるで、光が“本物の愛”ではないことを突きつけるように。

 そして、形式ばかりの婚約発表会見が始まり、
 志穂と悠真は記者の前で、控えめに隣に並んで映る。

「笑ってください、志穂さん」

 悠真が小さく囁く。
 志穂は無理やり口元を上げながら、問いかける。

「……悠真さんは、嬉しいですか?」

 その質問に、悠真は一瞬だけ言葉を飲んだ。

 ほんのわずかな沈黙。
 志穂には、その間が永遠のように長く感じられた。

「……責任は、必ず果たします」

 返ってきたのは、やはり“義務”の言葉だった。

 カメラのフラッシュが、二人を白く照らす。
 その光の中で、志穂はそっと目を伏せた。

(私がほしいのは、責任じゃない。
 たった一言――“愛してる”だけなのに)

 しかし、まだ気づいていなかった。

 この時すでに、悠真の胸には
 ――ずっと言えなかった想いが、静かに燃えていたことを。