会場の空気は、凍りついたように重かった。
 父の声が響き渡ったあと、誰もが息を呑み、視線を私に注いでいる。

「莉子。お前が選べ」
 父の鋭い目。
 その隣で御曹司は勝ち誇ったように微笑んでいた。
 そして目の前には、私の手を握りしめる悠真。

 ——選べ。
 家か、立場か、それとも……心か。



 胸の奥が、痛みで軋んでいた。
 これまではいつも“家のため”に黙ってきた。
 十年前も、そうだった。
 雨の日、幼い私は彼の瞳を見つめながら——。

「……わかったわ。じゃあ、忘れる」

 そう告げたあの瞬間から、私はずっと“忘れたふり”を続けてきた。
 本当は忘れていなかったのに。
 本当は、彼だけを想い続けていたのに。



「莉子」
 悠真の声が、私を呼んだ。
 手に込められる熱が、心臓に火を灯す。

 父の声が再び響く。
「答えろ。今ここで」

 足が震え、喉が渇く。
 けれど、もう逃げられなかった。
 これ以上、誤解を重ねたままではいられない。

「……私は」

 小さく声を震わせながら、言葉を探す。
 会場の視線が突き刺さり、御曹司の笑みが冷たく揺れる。
 でも、悠真の瞳だけは、ただ真っ直ぐに私を見ていた。



「私は……父の娘である前に、一人の人間です」

 ざわめきが広がった。
 震えながらも、声は止まらなかった。

「立場のために心を偽ることは……もうできません」

 父の目が怒りで細められる。
 御曹司が息を呑む。
 私は胸に手を当て、涙をこらえて続けた。

「私は……誰かに決められた未来ではなく、自分の心で選びたい」



 悠真の瞳が揺れた。
 私の言葉に、確かな光が宿る。

 でも、まだ言えなかった。
 ——“初恋だった”と。
 ——“ずっと、あなたを想っていた”と。

 その言葉を出す勇気は、まだ持てなかった。

 けれど、この瞬間。
 私は初めて、自分の心を選んだ。



 父の声が響く。
「……愚かな娘だ」
 冷たい宣告。
 会場の重苦しい空気が押し寄せる。

 けれど、不思議と怖くなかった。
 悠真の手が、まだ私を強く握っていたから。

 初恋を隠して生きるのは、もうやめる。
 たとえまだ言葉にできなくても、私の心は——彼を選んだ。