父から突然告げられた言葉に、私は耳を疑った。

「来月の晩餐会で、お前の婚約を発表することにした」

 応接室の重厚な机を挟んで、父は淡々と語る。
 相手の名前を聞いた瞬間、胸がきしんだ。
 先日の懇親会で何度も誘いをかけてきた、取引先の御曹司。
 家の利益を考えれば、政略的に申し分のない縁談だ。

「……父様、私は——」
「わかっている。だがこれは会社のためでもある。お前なら理解できるはずだ」

 理解。
 その言葉に押し潰されそうになる。
 本当は、心が別の名前を呼んでいるのに。



 数日後。
 社内でもその噂はすぐに広まった。
 会議の合間、女性社員がひそひそと囁く声が聞こえる。

「やっぱり、社長令嬢は政略婚なのね」
「でも、相手は御曹司なら釣り合うわ」
「副社長とは……違ったのね」

 胸に刺さる言葉。
 違う。違うのに。
 でも、否定することもできず、私はただ資料を抱えて会議室に向かった。



 会議が終わったあと、廊下で待ち構えていた人影に足を止めた。
 悠真だった。
 冷ややかな瞳が、私を射抜く。

「偽りの婚約、か」

 その言葉に、息を呑んだ。
「……どうして、それを」
「社内の噂は耳が早い。君が否定しなかった時点で、事実と同じだ」

「違うの。私は……!」
 必死で言葉を探す。
 けれど彼は、私の声を遮った。

「家のために、君は簡単に頷く。俺にはそう見えた」

 冷徹な言葉。
 でも、その奥に燃えるような感情があるのを私は感じた。

「違う……私は頷いてなんか——」
「なら、なぜ笑って受け流す」

 彼の声が低く強まる。
 その迫力に押され、思わず一歩退いた。
 けれど次の瞬間、彼は私の手首を掴んだ。

「……君は、誰のものだ」

 再び問われたその言葉に、心臓が大きく跳ねる。
 答えたいのに、声が出ない。
 初恋を隠したい気持ちと、彼に応えたい想いがせめぎ合い、唇が震える。

「私は……」

 その先を言えなかった。
 ちょうどそこへ、父の秘書が廊下を通りかかり、二人の距離を遮ったのだ。

「副社長、社長がお呼びです」

 悠真はゆっくりと手を離し、冷たい声を残した。
「……婚約を演じるのは勝手だ。だが、俺の前でだけは、その笑顔を見せるな」

 背を向けて去っていく彼の姿。
 胸が痛む。
 偽りの婚約が、彼をさらに遠ざけていく。



 その夜、鏡の前でドレスを合わせながら、自分の顔を見つめた。
 社交界の花。
 社長令嬢。
 偽りの婚約者。

 本当は違う。
 心が求めているのは、ただひとり。
 雨の日の庭で、私に「忘れる」と言わせた彼。

 忘れたふりを続ける限り、真実は届かない。
 でも、今さら「初恋だった」と告げることなんて、できるのだろうか。

 揺れる思いを胸に抱いたまま、夜は更けていった。