野いちご源氏物語 四〇 幻(まぼろし)

賀茂(かも)神社(じんじゃ)のお祭りの日も、源氏(げんじ)(きみ)二条(にじょう)(いん)(こも)っていらっしゃる。
<祭り見物(けんぶつ)で世間は楽しそうにしているだろう>
なつかしい賀茂神社やお祭りのにぎわいを思い出しておられる。
女房(にょうぼう)たちはつまらないだろう。こんなところで年寄りの世話をしていなくともよい。こっそり(さと)に下がって見物しておいで」
やさしくおっしゃるので、若い女房たちはうきうきと出かけていった。

人気(ひとけ)が少なくなったお屋敷の(はし)で、中将(ちゅうじょう)(きみ)はうたた寝をしている。
そっと近寄ってご覧になると、小さく可憐(かれん)な様子で体を起こした。
赤くなった寝起きの顔は隠しているけれど、乱れた髪が美しく着物にかかっている。
落ち着いた色の着物も乱れていて、脱いだ上着をあわてて羽織(はお)ろうとするの。

賀茂神社のお祭りに付き物の(あおい)がそばに置いてある。
源氏の君はお手に取って、
「この花は何と言うのだったかな。名前を忘れてしまった」
とおっしゃる。
もちろん本当に忘れてしまわれたわけではないわ。
「葵」は「恋人に会おう」というのに似ているから、「そなたに会うのをすっかり忘れていた」ということを(にお)わせていらっしゃる。

「お心が悲しみで(くも)って、花の名前も私のこともお忘れになったのでございましょう」
恥ずかしそうに申し上げる姿に源氏の君のお気持ちが()れる。
「何もかもどうでもよいと捨ててしまったけれど、そなただけは手放せないようだ」
この中将の君にだけはご愛情をお分けになるみたい。