野いちご源氏物語 四〇 幻(まぼろし)

夕暮れの(かすみ)が美しく(ただよ)って風情(ふぜい)がある。
源氏(げんじ)(きみ)はそのまま明石(あかし)(きみ)のお部屋へ行かれた。
ひさしぶりの突然のお越しなので明石の君は驚いたけれど、上手におもてなしなさる。
<とっさの機転(きてん)()く。こういうところが優れた人だ。しかし(むらさき)(うえ)には(およ)ばない。あちらは()(つくろ)うのではなく、おもしろい工夫ができる人だった>
お比べになって、ますます恋しくなってしまわれるの。
<我ながらどうしたら(なぐさ)められるのだろうか>
ご自分でも困っていらっしゃる。

尼宮(あまみや)様のところではできなかった昔話を、こちらではゆっくりとなさる。
「誰かに強く執着(しゅうちゃく)するのはよくないと分かっているのです。女性関係だけでなく、何事(なにごと)にもこだわってはいけないと気をつけて生きてきました。須磨(すま)謹慎(きんしん)生活をしていたころなどは、命にさえ執着する必要はないと(さと)ったほどです。しかしこの年になってなお、私は命どころか俗世(ぞくせ)さえ捨てられずにいる。出家(しゅっけ)を思いとどまってしまういろいろな理由があったのです。これではいけない。情けないしもどかしい」
紫の上のことはとくに口に出されない。
それでも明石の君には、源氏の君のお胸のうちが手に取るように分かる。

お気の毒に思いながら、こちらもあえて紫の上の死には触れずにお返事する。
「それほどの身分ではない人も、いざ出家しようとすると(さまた)げになるものが多いようです。ましてあなた様のお立場では、どうして簡単にご出家などおできになりましょうか。深くも考えず急いで出家すると、軽々しいと世間から非難(ひなん)され、本人もあとから後悔することが多いと申します。

あなた様のようによくよくお悩みになった方こそ、結局は仏教の奥深いところまで到達(とうたつ)なさるのだろうと存じます。昔の高貴(こうき)な方にも、女君(おんなぎみ)を亡くした絶望(ぜつぼう)衝動(しょうどう)的に出家した方がいらしたそうですが、やはりその後うまくいかなかったとか。そういうご出家はよくないのでございましょう。
あなた様におかれましては、ご出家はもうしばらく延期なさって、宮様たちが成長して確実な地位にお()きになるまでお見守りくださいませ。その方が心強く、うれしゅうございます」
中宮(ちゅうぐう)様のご生母(せいぼ)として、優しく、しかし冷静におっしゃる。

「そこまで延期してしまったら、さすがに浅い考えで出家した者にも負けそうだが」
少し笑って源氏の君はおっしゃる。
「あなたが明石から都に出てきた翌年だったか、亡き(ちち)上皇(じょうこう)様の中宮であられた方がお亡くなりになった。あの春もとても悲しくて、まさに古い和歌のように『桜よ薄墨(うすずみ)色に咲け』と思ったものだ。もちろんその中宮様と私に特別な関係も深い感情もなかったのだが、幼いころから優しくしていただいたから、お亡くなりになったことがひときわ胸に来たのだろう。

妻だから、夫だからという理由で人はその死を悲しむのではない。その人をどれほど愛していたかも関係はない。ただ、長い間に積み重ねたものを思い出して悲しむのだ。
紫の上を失って、これほどぼけたようになっているのもそうだ。夫婦だったからではない。幼いあの人を引き取って、一緒に年を取って、そしてついに置いていかれてしまった、その間にあったことがつぎつぎとまぶたに浮かぶ。それが悲しくて()えられない。楽しかったことも、つらかったことも、感動したことも、次から次へと出てきてあふれかえるのだ。あの人がどんな顔をしたか、どんなことを言ったか、何をしてくれたか、思い出すほどつらくなってしまう」

夜更けまでお話しになって、<ここで夜を明かそうか>というお気持ちも少しは起こったけれど、結局二条の院にお帰りになった。
明石の君は悲しくお見送りする。
源氏の君も我ながら不思議で、
<すっかり人が変わってしまったようだ>
と、ご自分がご自分でないような感覚にとまどいながら乗り物にお乗りになる。

お帰りになるとすぐにまたお(きょう)をお読みになる。
夜中にほんの少しお休みになっただけで、翌朝早く明石の君にお手紙をお書きになった。
「泣きながら帰りました。どこで寝てもこの世は仮の住まいで、永遠の()みかではないけれど」
泊まりもせず帰ってしまわれたことが明石の君は(うら)めしい。
でもそれ以上に、源氏の君の(おとろ)えぶりが衝撃(しょうげき)的で悲しかった。
恨めしさも忘れて涙ぐんでお返事を書く。
「紫の上がお亡くなりになってからはまったくお泊まりくださいませんね。あの方がいらしたからこそ、私にもご愛情のおこぼれが回ってきていたのだと痛感(つうかん)しております」
あいかわらず教養深い筆跡(ひっせき)だと源氏の君はお認めになる。

<この人のことを、紫の上は初めのうち無礼者(ぶれいもの)と思っておられたようだが、明石の姫君(ひめぎみ)入内(じゅだい)したあとは、お互い心を通わせて協力しあってくれた。しかしけっして気安い友人のようには(あつか)わなかった。自分の格をあくまで高く(たも)ち、同時に生母(せいぼ)をひとりの女君(おんなぎみ)として尊重(そんちょう)することが、もっとも姫君のためになると考えたのだろう。そこまで深い考えがあってのこととは誰も気づいていなかっただろうけれど>

(ひま)を持て余してつらいことばかり考えてしまわれるときには、こうして六条の院をお訪ねになることもある。
でももうお泊まりになることはない。